致死量およそ1600ml

「買い物行かない?」


 唐突だった。

 メアリーとの賭けに勝って、ミフネアに対する疑心が大きくなったのが三日前。特に回復の兆しがないまま、手がかりも見つからないまま時間だけが過ぎていって、気づいたら三日経っていたのだ。

 そいつはとりあえずおいておこう。それよりも──


「買い物、ですか?」


「そ。お買い物、ショッピング、おでかけ」


 自室の片付け兼手がかり探しをしていた僕に話しかけてきたのはフランシスカだった。変わらない制服姿で、片手にはスマートフォン。余談だが、僕はフランシスカがスマホを持っていないところを見たことがなかった。僕はおどろおどろしい妖怪が描かれた画集らしきモノをとりあえず本棚に突っ込んで向き直る。


「また唐突ですね」


「そうかな? 今回誰も都合が付かなかったんだよねえ。ついてきてくれると嬉しいんだけど」


「僕でよければ。暇だったので」


「じゃあ決まり。兄様にお小遣いもらいにいこーっと」


 とんとん拍子に話は進み、明日なぜかフランシスカとショッピングに行くことになった。るんるんでミフネアにお小遣いをせびりにいくフランシスカを見送る。昨日ミフネアとのポーカーで勝ちまくって高笑いをあげていたのは僕の幻覚だったのだろうか。心の中でミフネアに合掌しながら、ページがバラバラになりかけている三流カストリ雑誌を手にとった。



 ……



 午後六時半。外が暗くなり始めて、カラスがカアカア鳴く時間帯のこと。フランシスカが決めた時間帯はここだった。腐っても吸血鬼なので日中は活動できないらしい。

 僕は待ち合わせ場所である玄関らしき場所まできていた。いつもの学ラン学生帽に肩掛けの学生鞄を追加した、どこからどう見たって学生な風貌である。

 今更だが補導されたらどうしよう。学校名とか保護者の名前とか聞かれても分からない。まさか今までのことをありのまま話すワケにはいかない。狂言、妄想の類だとあしらわれるか、本当のことを言えと怒られるか。どちらにせよ信じてはくれなさそうだ。まあそのへんはフランシスカが上手くやってくれるだろう。他力本願だけど。


「おっまたせー! 待った?」


「いえ、あまり」


 フランシスカが駆け寄ってくる。寄りかかっていた壁から腰をあげた。

 やっぱりいつものブレザーにスクールバックといった彼女の風体は僕と同じでそこらへんの学生に見える。服にこだわりがないタイプなのだろうか。


「今更ですが、どこに行くんです?」


「天国みたいなとこ」


 ふむ、要領を得ない。吸血鬼にとって天国ならば、僕にとっては地獄となるのだ。僕はこのことを三日間でいやと言うほど知ることとなった。警戒する。


「天国って言っても大衆ウケするタイプの天国だよお。そんな警戒することはないって」


「そう、ですか」


 ……実を言えば、僕はフランシスカのことがよく分からなかった。

 この三日間、マトモに話もせず、話しかけてくることもなく。ただ存在は認識していた。いつもミフネアの隣にいる、スマホ依存症な吸血鬼。そんなぼんやりとした印象。会話らしい会話も今日が初めてである。

 だからと言って避けられていたワケではないと思う。ただ話す必要がないから話しかけなかった。そんな理由。お互い興味がなかったのだ。

 そんなことに思考のリソースを割いていたら、いつの間にかフランシスカが馬鹿でかい玄関扉を一定のリズムでノックしている。


「なにしてるんです?」


「座標入力」


「……?」


「流水を嫌う吸血鬼は海が渡れない。ソレを解消するために兄様は特別性の扉を魔女に注文した。めっちゃデザインにイチャモンつけててブチギレられてたっけなあ」


「なるほど……?」


 つまりコレは魔法の扉なのか。好きな場所にワープできる秘密道具。なんだかファンタジーっぽい。


「その魔女ってのは誰なんですか?」


「なんだっけかなあ……あーそうそう、バーバヤーガ」


 答えが僕の耳に入る前に座標入力は終わり、豪奢な扉は開かれてフランシスカの声はかき消される。

 ──代わりに聞こえてきたのは、経験したことのない喧騒だった。

 思わず耳を塞ぎ立ちすくむ。フランシスカが無慈悲にも僕の背中を押した。


「さー、行った行った!」


「ちょ、ちょっと待ってください!」


 押されるがままに一歩、扉の外に足を踏み入れると、そこは──


「ま、ち?」


「そ。極東にある島国の首都だよ。多分出身はこのへんでしょ?」


 たくさんの人が飛び交う大通りの中心に、僕らは立っていた。

 訳もわからず突っ立っている僕に通行人がぶつかって舌打ちされる。肩を縮こませた。心細さと驚きとその他もろもろから、カバンの紐を握りしめ冷や汗を流す。喧騒と人ごみと混乱でクラクラする。


「いやー、ちょっと座標間違えたかな? まあ海のど真ん中に落ちるよりマシか」


「こ、ココ、どこなんですか!」


「さあ。多分冬葉原かなあ。目的地は近いね」


 フランシスカは慣れたように僕の手を引いてズンズン進んでいく。途中で十五人の肩とぶつかって申し訳ない気持ちになった。慣れない。

 フランシスカが冬葉原と呼んだ街はだいぶ賑やかだった。カラフルな看板も、たくさんの人が並んでいるスイーツ屋さんらしきお店も、何もかも僕にはもの珍しく、同時にフランシスカがいなかったら迷いそうだなあと思った。間違っても置いてけぼりにされないように繋いだ手を強く握る。

 メイド服のお姉さんが「そこのお兄さんもいかがですかー?」なんて呼びかけてきて、フランシスカが「間に合ってますー」と軽く流した。その後も行列に巻き込まれたり転びかけたり。僕の息はもう絶え絶えだ。


「ほら、ついたよ」


「へ?」


 ある店の前でフランシスカは止まった。バランスを崩して転けそうになりながらもなんとか踏ん張って、可愛らしいフォントで書かれた看板の文字を読む。


「えっと……『ヘヴンスイーツ 冬葉原店』?」


「そう。大衆ウケする天国……ケーキバイキングといこうか」



 ……



「ほ、ほんとに全部食べていいんですか……?」


「いいよ。好きなだけお食べ」


 天国だった。

 今、僕の目の前にはたくさんのスイーツが並べられている。王道も王道の、イチゴをたっぷり使ったショートケーキやてっぺんに和栗が乗っているモンブラン。間にフルーツと生ホイップが詰まったロールケーキ。粉砂糖がかかったシュークリーム。迂闊に言ったら噛みそうな名前の、存在すら知らなかったケーキ達などなど。とにかくたくさん。


「こ、この後マグロ漁船に乗れとか、そんなことには……」


「ならないよ。マグロ漁船に乗せるぐらいなら君の血液を一六〇〇ミリリットル貰ったほうがお得だしね」


「……はえ」


「ごめんて。取って食ったりしないから安心してお食べ」


「そ、それじゃあ……」


 小さいフォークでロールケーキを切って、口に運ぶ。


「美味しい?」


「……おいしいです!」


 ああもうこの後マグロ漁船に乗せられてもいいかもしれない。そのぐらい、おいしい。ふわふわのスポンジに甘すぎないクリーム。我を忘れてひたすら食べ進める。


「気に入ってくれて何よりだよ。食べながらでいいからお話しようか」


「なんれす?」


 リンゴジュースのストローを弄りながらフランシスカは続ける。僕はショートケーキのイチゴにフォークを突き刺した。


「──君の正体について」


 一瞬だけ、フォークを動かす手が止まった。


「……なんで、ですか」


「兄様がいないとこで話したかったんだよねえ。君の正体について大っぴらにできないからさ」


「はあ。しかしなぜミフネアは僕の正体について話したがらないんです? メアリーのときもそうでしたけど……」


「そうだねえ……端的に言ってしまえば思い出して欲しくないからかな」


「……へ? で、でもそんなのは──」


「ま、その話は一旦置いとこうか。ウチの口からはこれ以上のことは言えないし。それよりも君の正体だよ」


「そう、ですね」


 ものすごく気になるけど、とりあえずは飲み込むしかない。そうじゃないと話が進まない。僕はティラミスに手を伸ばす。


「ちなみにだけど、ウチは君の正体を教えてあげられない。だからコレから話すのはあくまで君の選択肢を増やすため。人間か怪物かなんて曖昧な括りではなく、吸血鬼か人造人間かキョンシーかそれとも他の怪物か。ウチはそういった様々な可能性を提示するだけだよ。そこんとこオーケー?」


 口いっぱいに頬張ったティラミスを飲み込んでから答える。


「大丈夫です」


「よし、それじゃあ話していこうか。メアリーから君が人間じゃないことは聞いてるよね?」


「聞いてますけど……未だに信じられませんよ。こんなに人間っぽいのに」


「人間に化ける、あるいは姿形が似通っている妖怪なんていくらでもいるさ。ウチだって平気な顔してチェーンのスイーツバイキング店に入り浸ってる吸血鬼だよ」


「なるほど? でも僕はあなたのような牙もないし、頭にネジがぶっ刺さっているワケでもない。おでこにお札も貼ってないんです。まあとにかく、そういった身体的特徴と言いますか、人間ではない部位というのが見つからないんです」


「そうだねえ。じゃあ『人間に似た妖怪』ではなく『人間に化けている妖怪』だと考えてみようか」


「……はあ」


 フランシスカはフルーツタルトにフォークを突き刺し、続ける。


「ウチや兄様のような吸血鬼はご存知の通り人間に近い容姿をした妖怪だね。それでも鋭く尖った牙などの身体的特徴。生き血を啜る、太陽流水にんにく十字架を嫌うなんていった体質などに違いが表れるワケだ。そこで人間との区別をつける」


「ああ、キョンシーは元々人間の死体で、人造人間はそもそも人間を模したモノですから似てきますね。でもお札だったりネジだったりで人間ではないと分かる。それが『人間に似た妖怪』ですか」


「いえーす。他の妖怪だったらゾンビとか幽霊とかろくろっ首とか。マニアックなモノだと鉄鼠とかかなあ。人間の形をしているけど人間と違う生体をもつ妖怪だね。元人間とかが多いイメージ」


「なるほど。では『人間に化けている妖怪』とは?」


「そのまんまだよ。人狼、化け猫、化け狸、九尾の狐、ミミック──は少し違うか。とにかく人間に化けて人間を襲う妖怪だよ。元は狼やらなんやらだけど、化けて人間のフリをする」


「……ポケモンでいうところのメタモン?」


「簡単に言っちゃえばそうだね。違うモノに化ける妖怪をまとめてシェイプシフターとも呼ぶよ。とにかく、人間とは似ても似つかない妖怪が人間のフリをする。そんな子が『人間に化けている妖怪』だね」


 そこまで聞いて僕は考える。はて、僕はどっちなんだろう?

『人間に似た妖怪』ではない気がする。この四日間で僕は僕という生物のことがなんとなく分かっていた。まず、鋭い牙はない。体のどこかが腐っているワケでもないし、心臓はちゃんと(最近は過剰なぐらいにだけど)働いている。血液や人の死骸らしきモノにも拒否反応がでる。血もちゃんと赤色だ。どこに出したって恥ずかしくないほど人間である。

 じゃあ僕は『人間に化けている妖怪』なのだろうか。たとえば、人間に化けてる途中で頭をぶつけて記憶喪失になり、そのまま人間だと思い込んでしまった。道理は通るが、しっくりはこない。そもそも、そんなに変身とは頑丈なモノなのだろうか。記憶がとぶほど強い衝撃を受けたならば、化けの皮ごと剥がれ落ちそうなモノじゃあないか? 僕は人狼に会ったことがないから分からないけどどうにもおかしい気がする。

 僕はガトーショコラを手にとって、とりあえず思考を中断する。ここで気にしても仕方がない。それよりも聞きたいことがある。


「結局ミフネアは何者なんですか」


「……ソレ聞くう?」


「聞きますよ。ソレを知ることが記憶喪失回復の一歩だと思いますしね」


「あー……マジか。そうだよなあ、聞いてくるよなあ……」


 フランシスカはしょぼしょぼしながらザッハトルテをつつく。そうだよねえそうだよねえと諦めたようにため息を吐いた。


「兄様は……そうだなあ、人生を真面目に消費しすぎているヒト、かな」


「……? 真面目に消費しすぎている、ですか?」


「杜撰にすべきところを丁寧に。見逃していいことを見逃さず。流すべき事象に突っ込んで。調べ、解析し、とことん知り尽くすの。ソレが兄様」


「……クソ真面目ってことですか?」


「いやまあ、そうだね。クソ真面目。……クソ真面目な生き方は吸血鬼にとって相応しくない」


「へ? なんでですか。真面目に越したこたあないでしょう」


 フランシスカはイチゴのタルトにフォークを突き刺す。たらり、と真っ赤な果汁が真っ白い皿に落ちた。


「うーん、とりあえず吸血鬼についておさらいしておこうか」


「よろしくお願いします」


「……吸血鬼ってのはまあ、大体イメージ通り。喉元に噛みついて血を飲んで、そいで増える。ほとんどねずみ算式だね。際限ない」


「まあ、そうですね。そんなイメージ」


「ついでにコウモリやらなんやらに変身できるの。滅多に使わないけどね。体も人間よりは頑丈で、ナイフに刺されたぐらいじゃあ死なない。あと一応は不老だよ。そう考えるとゾンビみたいだけど」


「改めて聞くとすごいですね……」


「その分弱点が多いんだよねえ。心臓に銀の杭を打ち込めば死ぬし。日の元に引き摺り出せば燃え尽きるし。にんにくを嫌い、十字架を忌諱し、流水に怯える。殺し方ならよりどりみどりだねえ」


 そう言って、フランんシスカはいちごタルトのかけらを皿のすみに集めた。フォークと皿が擦れて甲高い音を立てる。


「吸血鬼ってのはさっきも言った通り不老で、誰かに殺してもらわない限りはかなりの年月を生き続ける。だからこそ、終わりの見えない、永遠に等しい生をどう消費するかが問題になってくるワケだ」


「……なるほど?」


「大抵の吸血鬼は適当に生きるよ。ほどほどに人間を襲い、ほどほどに人間界に溶け込んで暮らす。ソレができねえ馬鹿は目ェつけられて早死にするワケだ。出る杭は打たれちゃうからね」


 何事もほどほどがいいんだよと、フランシスカは二個目のいちごタルトを手にとった。気に入ったのだろうか。


「……兄様はソレができないの」


「目立っちゃうってことですか? それならもう目をつけられて──」


「うん。とっくの昔につけられて、死ななかったんだ。死ねなかった、の方が正しいかな? まあとにかく死ななかった」


「なんでですか? 命からがら逃げおおせたとか?」


「──兄様は、ミフネアは、心臓に銀の杭を打っても死なない吸血鬼だったんだよ」


「……は?」


 マヌケな声が僕から漏れ出て、ケーキを口に運ぶ手が止まる。

 だって、フランシスカの話じゃ、吸血鬼は心臓に銀の杭を打ち込まれると死ぬのではなかったか? いや、その他にも色々方法はあるっぽいけど、とりあえず銀の杭というのは吸血鬼に対する絶対的な武器になるはずだ。ならば、何故?


「兄様は、吸血鬼として完成しすぎていたんだ。ありふれた吸血鬼特攻の武器が効かないぐらいにはね。吸血鬼の素質があったのか、増やされた側ではなく純正の吸血鬼なのかはわかんないけど。後者だとしたら原初に近い血統だろうねえ。やんごとなき身分のヒトだ」


「ちょ、ちょっと待ってください! じゃあミフネアは、どのくらい生きて──」


「さあねえ。自分の出自すらわかんなくなちゃうぐらいだから相当だと思うよ。元人間の吸血鬼の寿命って二百年ぐらいで打ち止めだから、まあ、それ以上かな」


 ……メアリーも言っていた。

 ミフネアは自分の正体を忘れてしまうほどの長い時間を浪費してきたのだと。何百年なんて目じゃないほどの年月を過ごしてきて、そしてこれからも続いていく。

 ミフネアは、どう思っているのだろう。一週間にも満たない時間しか生きていない僕にはスケールが大きすぎて分からなかった。


「まあ兄様の出自はどうでもいいんだ。大事なのはどうやってその時間を消費するかだから」


 お行儀悪くフォークを振り回しながらフランシスカは続ける。


「さっきも言った通り、兄様は真面目なんだよね。一つ一つのことをしっかりきっちり受け止めてしまう。それがいけない」


「なんで、ですか」


「……吸血鬼にとって、退屈さをどう紛らわすかというのは死活問題なんだよ。世の中がつまんなくなってしまったらその後は地獄。何やっても楽しくない。目新しくない。面白くない」


「それは……苦しいと思いますけど。まさか」


「──兄様はこの世界の全てを調べ、解析し、知り尽くした。そのクソ真面目すぎる性格のせいで、何もかも面白くなくなってしまったんだよ」


 ……言葉が出なかった。

 なんとコメントすればいいのか分からなかったし、信じられなかったのもある。でも、妹であるフランシスカが言うのならそうなんだろうと無理やり自分を納得させた。ごくんと生クリームをに飲み込んで、フランシスカに疑問をぶつける。


「フランシスカは、大丈夫なんですか」


「ああ、ウチ? ウチは大丈夫。ちゃーんと適当に杜撰に大雑把に生きてるよ」


 あははと笑ってフランシスカは言う。


「大体、兄様は真面目なんだよ。何でもかんでも因果関係を見つけようとしてさ。もっと気楽に生きりゃいいのに! !」


「……へ?」


「おっと失言。気にしないで」


「めっちゃ気になるんですけど!」


「いやー、言ったら怒られちゃうからさ。ごめんね?」


 渋々僕は諦めてシュークリームにかぶりついた。正直に言ってしまえば喉から手が出るほど欲しい情報なワケだが、ここで粘ってもフランシスカは教えてくれないだろう。館の住民は皆一様に口が固い。口の端にこぼれたクリームを舐めとる。


「とにかく、兄様はどこまでも吸血鬼に向いていない吸血鬼だよ。話せるのはそんなもんかな」


 ……結局、僕は何者で、ミフネアはなんなんだろう。

 僕はとにかく人間のフリしたバケモノなんだろうなとは思う。詳しい種類は分からないけど、とにかくそう。ここまで絞れただけでも儲け物だ。ちゃんと進展はしているのだから、いつかはわかるだろう。

 問題なのはミフネアだ。この吸血鬼のことはとにかく分からない。今分かっていることはとんでもなく長生きで、吸血鬼として完璧なヒト。でも向いていないというごちゃごちゃな評価だけ。あと暇人。本当によく分からない。本人も分かってなさそうだからどうしようもない。


「……ちょっと聞いていい?」


 思考を回す僕に、フランシスカがチーズケーキに手を伸ばしながら聞いてきた。


「なんです?」


「なんで君はそんなに正体が知りたいの?」


 咄嗟に答えられなかった。何故なんて聞かれても、自分のことを思い出したいと言うのは当たり前の感情なんじゃなかろうか。


「別に思い出せなくても君は生きていけるじゃん? お腹が満たせて、寝床もあって、そこそこ刺激がある生活。イッタイどこが不満なのさ」


「それはまあ、そうですけど……」


「言っちゃうけど、思い出したっていいことは何一つないよ。むしろ地獄が待っている。それでも君は思い出したい? 今までのぼんやりとした生活でもいいんじゃない?」


 ……思い出したら地獄を見る。

 過去の自分は、一体何をやらかしたのだろう。でもやらかしたとしたら僕はソレを知っておかなきゃいけないと思う。そんな気がする。きっと、こんな偶然で忘れていいことじゃない。

 フランシスカは僕なりの決意を察したのか、不貞腐れたように唇を突き出して呟く。


「……君も兄様もメアリーもシンイーもみんなみんな真面目すぎるんだよ。なんでそんなに執着するの。なんでそんなに絶望できるの。飢えない程度に腹が満たせて、凍えない程度の寝床があって、定期的にちょっとした幸せを感じられるならそれでいいじゃない。幸も不幸もどーせ運。絶対値も平均値もないのだから受け流せばいい。感じなければいい。考えなければいい。そんな事ウダウダウダウダ考えてもしょうがないんだから、思考するのをやめてしまえ。……君もそう思うでしょう?」


「フランシスカ……」


「ああ、そうだ。いいこと思いついた」


 にこり、とフランシスカは妖艶に笑う。悪戯を思いついた子どものようでもあり、罠に誘う悪女のようでもあった。目が離せない。


「──君も吸血鬼になろうぜ」


「なん、で」


「君は確固たる『君』が欲しいんでしょう? なら作ってしまえばいい。過去を掘り出すよりよっぽど簡単でよっぽど頑丈な基盤になるよ。どう?」


 僕を新しく作りだす。

 本当にそれでいいのか? 確かに確実な基盤にはなるだろう。でも、そうなったら前の僕はどうなるのだろう? 消えるのか。失うのか。どちらにせよ同じ事だが、それはとても嫌なことだと思った。消してはいけない、消してしまったらナニカよろしくないことが起きると、予感めいたものが僕の脳内を圧迫する。

 からからに乾いた喉をなんとか震わせて、返答する。


「え、遠慮しときます……」


「ふーん。……ま、そうだよね。そうなると思った」


 呆れたように、諦めたようにフランシスカはため息を吐いた。店につけられた可愛らしいパステルカラーの時計を確認する。


「……時間だ。そろそろ帰ろうか!」



 ……



 店を出た後も僕たちは言葉少なく、会話らしい会話もしないまま、暗い裏通りを歩いていた。表通りからはネオンサインの光と喧騒がうっすら感じられて、距離はそれほどあいていないはずなのにやけに遠く感じられた。

 かつかつ、かつかつ、足音がする。きっかり二人分しか聞こえないので多分ここには僕たちしかいない。


「……止まって」


 押し黙っていたフランシスカが唐突に口を開いて、反射的に足を止めた。その後から疑問がわく。


「どうかしましたか?」


「喋っちゃだめ。じっとしてて」


 ナニカから隠すようにフランシスカは僕を背中に隠す。珍しく真剣な声色に、僕は黙って従った。

 フランシスカは暗闇に問いかける。


「……いるんでしょう? 面倒なのでかくれんぼはやめていただけませんか」


「あーあ! 見つかっちゃった!」


 楽しそうに笑う、まだ幼い少年の声が暗闇の中から聞こえてきた。

 人気のなかったこの道の奥から、五、六歳程度の、愛くるしい顔つきをした少年が歩いてきた。真っ白いワイシャツにサスペンダー付きの黒ズボン。どこかのお坊ちゃんのような格好をした少年は、ゆっくりこちらに歩いてくる。


「……お久しゅうございます。公爵様」


「久しぶりだねえ、フランシスカ嬢? お兄さんは元気かな?」


「兄が元気なことなどありませんよ。……して、今回はどのようなご用件で?」


 ひどく冷たいフランシスカの声に心の中だけで驚きながら縮こまる。公爵様と呼ばれた少年が僕を指さして言った。


「……同族かもしれない彼に、散歩ついでにご挨拶をと思ってね」


「どう、ぞく?」


「あー、もう! 喋っちゃダメだって!」


 やっちまったと思ったが後の祭り。フランシスカに心の中で謝った。

 嘆く吸血鬼を嘲笑い、少年は僕に語りかける。


「そう、同族。きみがなりたいと一瞬でも思ったのならボクは歓迎するよ?」


「黙ってください。そもそも、この子はそんな括りで区別できる子じゃないでしょう」


「さあ? それは分からないじゃないか。箱を開けなければ猫の死は確定しない。試してみないと分からない」


「何千回も試した結果です。千回箱を開けたら千回猫は死んでいたのです。もう試すことすら馬鹿馬鹿しい」


「そうかな? 中に噴射する毒ガスを変えれば、猫は生き残るかもしれないぜ?」


「毒は毒であり薬にはならない。猫を殺すことに変わりはありません」


 もういこうと、フランシスカは僕の手を引いて違う道に足を向けようとする。

 少年は、苛立ったように舌打ちをして、可愛らしい少年の声を紡ぐ喉からしわがれた声を捻り出した。


「吸血鬼の小娘がボクを無視する気かよ」


「……ええ、そうですよ。ウチは不変を愛する吸血鬼。これ以上貴方が変化をもたらそうとするのなら、それは我が一族に向けた宣戦布告としてミフネア兄様にお伝えします」


「コウモリ風情がいい度胸じゃないか。やってみるか? テメエのクソ兄貴はこういうの好きだろう?」


「残念ながらそんな暇はないのです。兄様は貴方が手に入らなかったオモチャで遊ぶのに忙しいので」


「……つまんねえヤツ」


 再度舌打ちをして、ガシガシと乱暴に頭をかく。すぐさまニコリと笑顔を浮かべて僕に向き直った。


「ボクたちの仲間になりたかったらいつでも言ってよ。一番いいお肉でお祝いしてあげるからさ」


「……は、はあ」


 バイバーイと手を振って、彼は暗闇の中に消える。

 それから一分たって、ようやっとフランシスカが安心したように息を吐き出した。


「……心臓が止まるかと思った」


「す、すみません。声だしちゃって」


「いーよ、どうせああなってた。全面的にあいつが悪いから」


 あーびっくりしたと言いながらグーンとのびをする。


「……あいつの仲間だけにはならないでよ」


「なりませんよ……」


「いやマジで。兄様泣いちゃうから」


 軽口を叩き合いながら僕とフランシスカは歩いていく。街頭の明かりがゆらゆら揺れた。

 水銀燈の陰気臭い生冷たい光で、死人のような色をしたフランシスカが僕に笑いかける。


「……与えられた幸福を疑問を抱かずに享受して、適当なイベントで脳みそを快楽物質に浸す。それを繰り返し繰り返し繰り返していくの。これが、ある意味間違っててある意味正しい、吸血鬼のもっとも気楽な生き方」


 同じように死人の色をした僕に、フランシスカは言っておく。


「吸血鬼となり、不変の時を歩みたいのなら、ウチはいつでも歓迎するぜ?」

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