1−9

 廊下から2Dが見えた時、真っ先に視線が向かったのはもちろん菜月だ。

 来てる。どうやらあたしより先に事情聴取を終えていたみたいだ。

 ここに来るまで同級生らしきモブたちにチラチラ見られたけど、しょせんモブだからどうでもいい。ただ、あたしがモブたちの名前を知る前にゴミ溜めあそこの住民疑惑が出たから、来年以降同クラになったとしても関わりたくないなぁと思うくらいだ。だから顔くらいは覚えておく。

「あ、ヤナ。おは」

「おはー。ヤナ濡れんかった?」

 いつものように開きっぱなしの前のドアから教室に入ると、教卓まわりにいた安古川と伊葉が、いつもと違うジャージ姿で声をかけてくれた。

「うん、あたしは全然。ふたりは見た感じヤバいね」

「だって帰りの時間は晴れるかもって伊葉が言うからさあー」

「え? てことはもしかして」

「うん。ウチが安古川誘って一緒にチャリで来た」

「正気? ウケる」

 うちの高校は基本制服登校と決まってるけど、雨で濡れた時はジャージへの着替えが許されている。つまりはそういうことだって一目見てわかったけど、さすがにこの雨の中チャリで学校まで来たというのは正気とは思えない。いい意味で。

 水泳の授業で使ってたようなフェイスタオルに髪の水分を吸わせながら、誘われた安古川も誘った伊葉も心底楽しそうに笑っている。ファンでどころかアイラインもマスカラも全然落ちてないから、あとからどこの使ってるか聞いてみよ。

「風邪引かないようにね」

「ん、さんきゅー」

 ふたりに手を振って、自分の席へ向かう。教卓の位置から戻るわけだから、当然菜月の目の前を通ることになる。

 菜月は頬杖をつきながらスマホをいじっていた。顔も視線も下がり気味だから表情があんまり見えない。でも心なしか沈んで見えた。なんで? 謎すぎる。

「おはよー」

 全部に気づかないふりをしたあたしは、いつもと同じ声のトーンで挨拶をした。まあ、当たり前のように返事はない。なんなら耳がなくなったんじゃない? ってくらい動かなかった。背中にいくつかの視線を感じる。菜月の後ろの後ろにいる川崎が明らかに心配そうな顔をしているのはとっくに視界に入っていた。

 今やクラス中が知っている。あたしと菜月の関係が壊れたってことを。

 あたしはたくさんの目を意識しながら川崎を見た。視線が交わったのを確認すると、しょうがないかって感じで肩をすくめて軽く笑う。雪柳奈々は、あくまで前向きだ。

 そのまま菜月を通り過ぎて席に着く。窓際だから、そっちを背にすれば教室内を眺められる。あたしがそういう体勢になると、すすっと視線を逸らす子も、相変わらず心配そうな目をしている子、口元がゆるんでニヤついてるやつ、色々見えた。

 みんな他人事は楽しいよね。大丈夫、クラス全体が面倒になるようなことにはさせないから安心して。LHRロングの議題なんかに挙げられたらたまったもんじゃない。あんなの、事態を悪化させるだけだって先生たちはいい加減知るべきだし。そのかわり、みんなも菜月を今以上に浮いた存在にしちゃダメだよ。雪柳奈々は許してるんだから。

「……どうだった?」

 聞こえるかどうかギリギリの声で、川崎が体を寄せて聞いてくる。一瞬、バスの中で遭ったあの気持ち悪いため息を思い出して変な声が出そうになったけど、必死で飲み込んで、あたしは答える。

「んー別に。問題ないよ」

「ほんとにぃ?」

 まあ今まさに目の前でシカトされた状態を見た川崎は──もしかしたらクラスメイトたちも、問題ないなんて思わないかもしれない。でも他でもないあたしが言うんだからいい。他の人間が口をだす必要はない。学校生活はできるだけ過ごしやすくする、安寧な日常を送るための努力なんだから。

 ──ハァッ……

「はっ?」

「え?」

「今なんか言った?」

「え、なんも?」

「え、でも今確かに──ひっ」

 川崎の向こう、教室の一番後ろの隅に。一瞬だけど確かに見えたもの。

 ゆらゆらと揺れる影のような、何かの集合体のような黒いかたまり。その真ん中に浮いた、グリュッと一回転してからあたしでピタリと止まった──目玉、だった。


*****


 あたしが覚えている最初の嘘は、「今日はなんか遊びたくない」という気分的なものを「お母さんが用事があるからダメって言ってた」としたことだった。小学2年生くらいだった気がする。別におとなしい性格でもなかったし普通に断れたんだけど、その時誘ってくれた子はずっと一緒に遊んでみたかった子だった。だから、二度と誘われなくなったり嫌われたりするのがイヤだった。なら遊べばよかったじゃんと言われるかもしれないけど、その日はどうしても気分が乗らなかった。そういうのは今もある。

 その子は笑って納得してくれたし、それが理由で嫌われることもなかったし、それから何回も一緒に遊んだ。

 ああいうのを「嘘を吐いた」って表現するのは正しいのかな。人間関係をうまくいかせるためのちょっとした──何て言えばいいんだろ。処世術みたいな大袈裟なもんじゃないけど、誰にも迷惑かけないレベルの嘘は、嘘とか言わないと思う。

 あたしは今までそうやって生きてきた。その場でベストと思われる行動もしたし、言動もしてきた。全部全部、その場をうまくいかせるために。ただ媚びへつらうことだけはしたことない。そこまですると八方美人って言われたら否定できなくなるし。

 だから今回も同じこと。

 ちょっとの嘘を混ぜ込んだだけ。

 そもそもの始まりは菜月で、あたしは被害者に過ぎない。

 あたしをサゲた菜月には同じくらいサゲ返す。それだけ。だいたいパパ活くらい今時珍しくないし、パパ活してるって噂に対して「まさか、あんなんじゃできないよ」って言われないだけいいじゃんね? それだけ菜月が可愛くなった証拠だ。

「……ん……?」

 耳の奥がツキンと痛んで、あたしは目を覚ます。クリーム色の天井とLEDライトが見えた。学校の電気といえば蛍光灯じゃなかったっけ……と数年前の懐かしい光景を思い出しかけて、ふと気づいた。どこここ。

「あ、気づいた?」

 シャッと音がした方を振り向くと、何かと隔てるためのカーテンから白衣を上着のように引っ掛けた女の人が入ってくる。誰これ。どっかで見たことあるような、ないような。

 体を起こしかけたあたしを「あー駄目、いきなり起き上がらないで」と制したその人は、あたしをじっと見てから、白衣のポケットに手を突っ込んで、定期のパスケースサイズの何かを差し出した。

「……あ。保健の……」

「佐藤です。貧血でも起こしたの? 教室で倒れたんだよ」

「え。マジで」

「マジです」

 ふ、と小さく息を吐きながらベッド脇にあるパイプ椅子に座った佐藤という保健教諭は首を傾げる。よく見たらお腹がちょっと大きいかも。妊婦さんなのか。

「生理中? 重い方?」

「や、今は違います」

「あ、そう。じゃあ眠れてる?」

「あー……」

 眠れてるとは言えないかもしれない。一応寝てるつもりではいるけど、今まではけっこう朝までぐっすりだったのが、最近夜中に2〜3回起きることが珍しくない。

「なら間違いなくそれ。睡眠大事だよ。若いからわからないだろうけど」

「まあ、わかります」

「身に染みてわかるのはまだ先だから。若さに甘えたら駄目。睡眠不足は確実に着実に体を蝕んでいくんだから。いい? 色々わかるのは10年後だったりするの」

「はあ……」

 そんな熱弁されてもと思いながら、あたしはゆっくりと起き上がった。今度は何も言われない。ゆっくりならいいんだ。よくわかんないけど。

「なんかすみません。もう大丈夫なんで教室に」

「まだ終わってないから。眠れないっていうのは、夢見が悪いの?」

「えっ?」

 佐藤先生の顔がいつの間にか真剣なものに変わっている。手に持っていた小さなタオルを渡されて、あたしははてと疑問の目を返した。

「すごい汗かいてる。嫌なことあったんじゃないの?」

「え……?」

 言われて気がついた。おでこから、首筋から、いつものあたしなら信じられないくらいの汗が流れていた。慌ててそれらを拭きながら、あたしは夢を見る前のことを思い出す。

 ……川崎と話してる時に聞こえたため息。あれは、バスの中でのアレと一緒だ。ヘッドフォンも何もしてなかったのに、あんなにリアルに聞こえるなんて。

 それに、あの真っ黒なやつ。いや真っ黒なやつはこの際どうでもいい。こないだネットで見た飛蚊症とかなんとかいう、ああいう目の何かかもしれない。それはそれで病院行かなきゃだけど、今はそんなこと問題じゃない。

 あたしは確かに見た。赤くて……ホラー映画とかで見たことある、血走った目玉。あれは何? あたしはあれを見て倒れたってこと? いや、ていうか、そもそもあれは現実だったわけ?

 ぐるぐる考えても答えは出ない。思わず首を動かしてベッドの周りを見てみても、さっき見たはずのアレらは影も形もなくなっていた。





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