1−8

 前を歩く佐野から一定の距離を保ちながら、登校してくる生徒たちとすれ違う。誰も彼もあたしたちを気にする様子はない。

 佐野は時々振り返っては「最近どうだ」とか何とか聞いてくる。「えー?」とか適当に答えながらも、あたしはこれからのことを考えていた。職員室なのか進路指導室なのか知らないけど、とりあえず教師に呼び出されるハメになったのが現実だ。親に聞いても要領をつかめなくて結局当人たちを同席させようとかそういうところでしょ、と思いながら、それにしても最初は普通別々に呼ばない?とも思う。

 2階の進路指導室を通り過ぎたところで「あれ、せんせー?」と呼びかけた。佐野はまた私の方を向いて言う。

「行くのは数学準備室だから」

「そんな教室あったんだ」

「まあ教科委員でもないかぎり知らんだろ」

 そう言っている間に数学準備室に到着し、佐野は引き戸のへこみに手をひっかけてガラガラと派手な音を立てた。当たり前に開いたドアの向こうは──誰もいない。

「あれ」

 思わず出た声に、佐野は少し笑って「なにが」と言いながらあたしを教室内に誘うように手をすべらせる。それに従って中に入り、職員室の超ミニ版みたいな室内のどこにどうしたらいいのかわからずに立ち尽くした。そんなあたしに佐野はまた笑って、佐野のらしかった机の前の椅子に座ると、近くにあったパイプ椅子を引いてポンポンとそこを叩く。

「はい、座って」

「はーい」

 素直に腰を下ろして、時間を確認する。7時47分。朝のSH Rまであと30分以上あるとはいえ、話の内容を考えて内心ちょっと……いや、だいぶウンザリしながらも、佐野には笑って問いかけた。

「せんせー、ショートに間に合います?」

「そんな長くならんよ」

「ほんとにぃ?」

「んー、たぶんな」

 佐野が首のうしろを掻いたタイミングで、あたしは表情を引き締める。ギシギシとうるさくて脚がまっすぐじゃない古いパイプ椅子で姿勢を正すのは難しいけど、できる限り真剣な姿勢で迎え撃つ準備をした。佐野が首のうしろを掻くのは決まって真面目な話をしたい時だ。まだ数ヶ月しか一緒にいない担任だけど、毎日朝と帰りにフリートークを聞くタイミングがあればさすがにそのくらいわかる。

 普段どれだけ明るく親しみやすくてタメ口も許してくれる教師だろうと、場面の使い分けは大事だ。そういうのでも信頼を得られるって、あたしは知ってる。

「……で。なんで呼んだかってことだけど……理由はわかるか?」

 その証拠に、声のトーンが少し低くなった。あたしもいつもより低めにすることを意識して、かつ、言葉遣いだって変える。

「はい。母が先生に聞かれたと言っていたので……」

「そうか」

 キャタン、と不思議な音を鳴らして佐野が椅子ごとあたしを見た。

「単刀直入に聞くけど、巳波みなみと何かトラブったのは本当?」

 マジで単刀直入。でも楽だ。

 あたしは少し考える素振りをしてから、斜めに俯く。そして右手を顎ラインに添えて答えた。

「トラブったといえばトラブりました。ちょっとした喧嘩です」

「……中庭で言い争っていたというのは?」

 やっぱそこかぁ。まあクラスメイトやじうまに聞こえるように、昼休みの約束を取り付けたんだから当然と言えば当然かもしれない。

「本当です」

「そもそもの始まりは?」

 事情聴取的なものを感じながら、あたしは考える。この場に菜月がいると思い込んでいていなかった今、どちらからの聞き取りが先なのかという問題があった。菜月が先だった場合、一体なんて言ったんだろう。まさか裏サイトの話なんかするわけない。今のあたしと同じように、トラブル以上の表現は避けているはずだ。だって、マジのはじまりは菜月の書き込みなんだから。

 雪柳奈々は裏サイトなんか見ない。雪柳奈々は、ある日突然ニコイチだと思っていた相手にシカトされるようになって、その原因が自分にあると思って理由を問いたかっただけ。

 佐野に顔が見えないように俯いて、膝の上に乗せた両手をぎゅっと握りしめる。もちろん、無意識でなんかじゃない。でも佐野が見ているあたしを現実とするために、指先ひとつ表情ひとつ気は抜かない。

「始まりは……多分、あたしがなんかしちゃったのかなって」

「心当たりはないのか?」

「わかりません。菜……巳波さんとはいつも一緒に行動してたんですけど、いきなり、そうしないでって言われて、その理由を知りたくて、中庭で話をしようとしたんです。昼休みならと巳波さんが言ってくれたので……」

 菜月とは呼ばない。うっかり呼びかけたけど先生の前だから「巳波さん」と呼び直して、あたしは肩を落とした。もちろん全部演技だけど。でもまあ、客観的に見た通りを言ってるだけだから心も傷まない。いつも明るく振る舞ってる雪柳奈々あたしは今、かわいそうだから。

「……そうかぁ……」

 顔の見えない佐野から同情的な声が聞こえる。あたしはまだ顔を上げない。そのまま何も言わない佐野の気配を感じながら3秒我慢して、そして改めて顔を上げた。

「まあ大丈夫です。学校生活あるあるですよ。そのうちほとぼりも冷めるかもしれないし、このままかもしれませんけど」

 全然大丈夫じゃない笑顔を作りながら言うと、佐野は少し左に首を傾けて、あたしと同じように笑う。

「……そうだなあ。女子は特に難しいから……あー今のは差別とかじゃないぞ」

「わかってますよ。ありがとうございます、お気遣いいただいて」

「……本当に大丈夫か?」

 佐野の表情からは純粋な心配しか感じない。よかった、信じてもらえたようだ。嘘はついてないけど、本当真実でもない。ごめんねせんせー。けどありがとう。

「はい。大丈夫です」

「……そうか。……じゃあもういいぞ、教室戻って」

「え。先生は?」

「先生は1回職員室に戻るから」

「はーい」

 素直に従って立ち上がり、ドアに歩いて行く。引き戸のへこみに手をかけた時、

「雪柳」

 呼び止められた。佐野はそこまで頭の悪い教師じゃないこともあたしは知ってる。それでもそれに気づかないふりをして、あたしは振り返った。

「はい?」

「……本当に大丈夫か?」

「しつこいですよー。大丈夫です」

 ばあ! とでもいうように両手をひらひらして笑ってみせると、佐野の目尻がふっと垂れた。よし。これで当分は問題ない。

「まあ雪柳は安心か。友達も多いしな」

「先生からそう見えてるならよかったです」

 答えながらドアを開けて、室内に残る佐野にぺこりと頭を下げる。

「失礼しました」

 ガラガラ、カタン。数学準備室のドアを閉め切ったことを確認して、あたしは回れ右をする。2Dに戻るために歩き始めながら、ポケットのスマホを手に取った。後ろに誰もいないことを確認してブクマゴミ溜めを開く。


匿名

『ヤナが呼び出しされたっぽいけど、ガチ?』

匿名

『ガチぽい。さっき見たよ』

匿名

『つか校内でこんなとこ見んなw』


 数十分前の書き込みを見て笑ってしまった。

 マジでな。こんなのゴミ溜め学校で見んなよ。あたしもだけどさ。

 と思っていると、パッと書き込みが増えた。まじでみんな暇だねとツッコミかけて、次の文面に釘付けになった。思わず足を止めて、階段の踊り場の壁に背中をつける。間違ってもスマホ画面を誰かに見られないように改めて気をつけながら、もう一度確認する。


匿名

『ヤナシカトしてんのって、M波でしょ? パパ活女子のw』


 昨日の今日で、菜月はすっかりパパ活女子確定されているらしい。さっすが裏サイトゴミ溜め。にやけかけた顔を引き締めて、あたしはタップする。


匿名

『てことは、エム波ってヤナのおかげで垢抜けてパパ活で稼いでんのに、今はその恩人シカトしてるんだ? やばすぎん?』


 はい、そーしん。

 あたしが送った文面がパッと画面に現れたのを確認して、サイトから出る。そしてスマホをポケットにしまうと、教室に向かった。




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