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 気持ち悪いほどの湿気が充満するバスの一番後ろの窓側で、あたしはカバンからヘッドフォンを取り出した。

 チャリ通といっても限界がある。小雨くらいならカッパを着ていくけど、今日みたいな土砂降じゃどうやったって危ないのはわかっている。さすがに身の危険を感じるし、学校に着く頃にはビシャビシャどころの話じゃない。入学して初めて強い雨が降った時には頑張って行ってみたけど、濡れそぼった髪と制服を見てクラスメイトたちから若干引かれた。すぐにジャージに着替える運命にしかならないし、あれからあたしは無理はしないでバスを使う。

 でも面倒の極みなんだよな。

 ヘッドフォンとBluetoothで繋げたスマホで聴く曲を選びながら、あたしは朝から何度目かのため息をついた。

 あたしの家から学校まではチャリで約25分。でも、バスを使うと軽く倍以上かかる。なんでかって言ったら、最寄りのバス停から学校の最寄りまでは1本で行けないからだ。一度ターミナル駅まで出る必要がある。そこで乗り換えて、学校に向かわなくてはいけない。

 本当にバカバカしい。動画を見たり音楽を聴いたりする時間が取れたと思えばいいと言い聞かせてはいるけど、油断するとすぐにダメになる。この時間で他にできることあったじゃん、と思ってしまう。

 今日は音楽を聴く気にならなかったので、YouTubeを開いた。川崎が送ってくれたオススメ実況リストから、何となく面白そうだと思うものをタップした。再生前に一時停止をして、軽く目線をあげる。正面を見たところで同じ制服や近所の付属中高の生徒たちがひしめき合っているのが見えるだけなので、窓の外に視線を移した。

 ターミナル駅からまだ1つ目のバス停にさえ着いていない。学校の最寄りは7つ目。30分はかからないから、乗り過ごさないように一応スマホに到着予定時間手前に合わせてアラームをセットしておく。

 改めてスマホに目を落として再生をタップすると、中性的な声の男性配信者が『こんばんはー』と挨拶を始めた。視聴者が夜に見ることを前提としての挨拶なんだろうか。生配信じゃないみたいだし、どんな時間に見ても違和感のない挨拶にすればいいのに。

 そんなどうでもいいことを思っている間にもゲームはスタートした。薄暗い森の風景──ゲーム画面と思えないほどのクオリティで、映像は進んでいく。カラスの羽ばたく音がリアルすぎて、思わず肩をビクつかせてしまった。「うわっ」と漏らした声が誰にも聞こえていないことを祈りたい。

 あたしが「上手な人がやってるの見るとなんか映画見てるみたいで面白かった」と褒めたからだろう、リストにあったゲームは全部ホラーだった。前回は理由に使わせてもらっただけで実際ろくに見てないから、川崎にちょっとだけ罪悪感を覚える。ごめん川崎。これは見るね。

『この奥に行けばいいって言うけどさあ……えーマジか』

 画面では、FPS視点でゲームの主人公が明らかに怪しい森を散策している。パキパキッと足元で枝が折れる音、サワサワと揺れる葉擦れの音、遠くで鳴いているカラスの鳴き声。目からの情報と比例して、すべてが耳元でリアルタイムに聴こえてきた。

 川崎に言った時はただの言葉のアヤというか口から出まかせというか、とにかくそんなものではあったけど、まさしく「映画みたい」。この前とは違うゲームだけど。

『ちょっ待って……静かにして……や、オレしかいないんだった……ごめん今からちょっと静かにするから……放送事故じゃないから……』

 宣言通り声がなくなり、ゲーム内の環境音と思われる音だけが続く。微かに右上の方から聴こえてくるピーヒョロロロという鳴き声はなんだろう。鳥かな。ザクッ、ザクッ、と草むらを踏みつける足音の合間に、パキッという枝が折れる音。

 ──ハァ……

「……ッ!?」

 突然、左耳を舌で撫ぜられたような感覚に襲われた。反射的にヘッドフォンを取り外して、ついそれを見つめてしまう。スマホの画面は相変わらず進んでいて、ヘッドフォンから微かに音漏れがしている。

 視線を感じて顔を上げると、同じ制服の何人かがチラチラとあたしを見ていたことに気づいた。あたしと同じ動きをしてる人があたしの前にいたら同じように見ちゃうだろうから、どれだけ今の自分が挙動不審だったかを思って恥ずかしくなった。

 誤魔化すように動画を閉じて、Bluetoothも切る。ヘッドフォンをカバンにしまって、無意味だとわかっているけどまだバクバクしている左胸を右手で一生懸命抑えつけてみた。

 ……なに、今の。

 なんか、でかいため息と一緒に左耳を舐められた気がしたんだけど。

 ベロって。なに今の。めっちゃキモいんだけど。

 左耳を掻きむしってしまいたい、なんなら千切ってしまいたい不愉快な衝動を必死で抑えながら、あたしは他の誰とも視線が合わないように俯いた。それとなく、自然な動きを装って左耳に触れてみる。当たり前だけど、何もない。耳たぶを引っ張ってみても、さすってみても、何かがくっついているような感触は全くしなかった。

 気のせいというにはあまりにもリアルな──ため息、と似ていた。心底嫌になったみたいな、そういう種類のため息。耳に息を吹きかけられながら舌で舐められたような、生理的な嫌悪感。

 あたしの左、通路側に座る他校生を見遣ってみる。同い年くらいの女の子で、おそらくノイキャンのイヤフォンを耳に突っ込んでいた。聴いている何かに夢中なようで小さく身体を揺すっているし、こっちを気にする素振りなんてカケラもない。

 キモい。キモいキモいキモい。

 降りるバス停まであと1つに迫っても、あの感覚は離れてくれなかった。

 なんて言ったらいいのかわからない、生理的な嫌悪感。言っちゃなんだけど、痴漢に遭った瞬間のような、全身の毛が逆立つレベルにあたしの全部がそれを拒否る。

 知っている言葉を並べたててみても、すべてがその通りのような微妙に違うような。うまく説明ができない。これまで経験したどの感覚にも似ているようで、どれも違う。とにかく気持ち悪かった。

 バスが揺れる。最寄りに着いたのがわかり、あたしは立ち上がった。

 隣の女の子に軽く頭を下げながら通路に出て、同高の生徒たちの列に混じってバスを降りた。たくさんの頭の中にふと菜月の姿を探してみたけど、どこにもいなかった。

 パスンと軽い音がしてお気に入りの傘が開く。学校指定は黒か紺。この色指定の意味は全くわからないけど、校則を破ってわざわざ先生たちの心証を悪くするほど傘への情熱はあたしにはない。

 みんな同じような傘をさして、誰が誰だかわからないまま正門へ向かう。同じバスに乗っていた生徒たちが一斉に歩くものだから、横2列以上に広がることができず、ディズニーのアトラクション待機列レベルに詰め詰めで歩かなきゃいけない。これも雨の日が憂鬱な理由のひとつだ。

 物理的に避けられない水溜りを革靴でピシャピシャと鳴らしながら、ふう、と小さくため息をついたその時。

 ──ハァ……ッ

 アレが聴こえた。今度は、右耳に。背筋が粟立った。鳥肌がすごい。口から悲鳴にならない声が出た。と思ったけど、

「え?」

「なに、どした」

「今の何」

「誰か叫んだ?」

 完全には抑えられていなかったらしい。一瞬だけあたしのまわりがざわついたけど、激しくなる雨の音と比例して、大した騒ぎにならずに正門をくぐった。

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