1−2

 ザワザワと落ち着かない朝の学校の空気は、けっこう嫌いじゃない。

 片道25分かけてチャリで通うあたしは汗をミニタオルで拭きながら、駐輪場から歩いて昇降口に向かう。1本遅れたとか先に乗ったとかいうバスや電車と違って、始業に間に合いさえすればいつ家を出てきてもいいチャリ通はあたしに合っている。坂道もあるから、慣れるまでは大変だったけど。体力はついたし、まあ悪くない。

 2Dの下駄箱に辿り着くまでの数メートルで、すでにチラチラ視線は感じていた。入学してから3足目になる革靴を脱ぎ、校内指定スリッパと履き替える。出席番号順に並んだ下駄箱で、菜月の靴をチェックした。

「いるねー」

 誰にともなく声に出したものの、同クラの人間はまわりにいない。いつもより少し遅めに登校したから、まだスリッパ状態なのはあたしを入れてあと3人だけだった。

 いつもより少し遅めに来たけど、理由は「ほぼ徹で動画を見てたから」。一緒にカラオケに入ったメンバーの中にゲーム実況を見てるって子がいて、熱心におすすめされたのだ。だから見てみたらうっかり朝になっちゃった、ということにした。

 ほんの少しだけ照れたように笑った顔を作ったら、「ホラーゲームはあんまり得意じゃないけど、上手な人がやってるの見るとなんか映画見てるみたいで面白かった! またなんかあったら教えてね!」とあの子に──川崎美桜みおうに話しかける。

 うん、こんな感じでいいかな。

 階段をのぼりながら、今朝考えた台詞を頭の中でくり返す。職員室のある二階を通り過ぎるところで、学年主任の吉川よしかわが「おーい雪柳―、少しは焦れー」と苦笑しながら声をかけてきた。だからあたしは、階段をのぼる脚は止めないで返す。

「おはよーセンセー。廊下も階段も走るなって言うじゃないですかあ」

「時と場合によるだろー」

「そんなの困りまーす。けどちょっとだけ走りまーす」

 ついでに軽い会釈をしてからバッグの肩紐を掴み、軽い足取りで一段飛ばしをしながら四階へ向かう。うちの高校は1年が5階、2年は4階、3年は3階。学年があがるごとに楽になるというわけだ。

 3階を通り過ぎてもまだ生徒たちのざわつきは続いているから、朝のLHRにはまだ遠いんだろう。内心急ぐ必要は特にないと思いつつも、「頑張って急いで来ました」を体現するため、一番飛ばしをやめないまま4階に着いた。

「あ」

 大きく広がるF組前の廊下にいた女子生徒が、あたしの顔を見るなりにそう言った。 

 けど、あたしはその子の名前も知らない。去年も違うクラスだったということだろう。部活も違えば委員会も違う。そんなモブの名前なんていちいち覚えていない。

 あ、って何?

 それでも不思議な顔を作って首を少しだけ傾げ、なんとなく会釈を返してみた。相手の女子は気まずそうに目をそらして、何も言ってこない。

 じゃあわざわざ「あ」とか言うなっつーの。

 イラッとしながらも、あたしは行き場が失くなった顔を前に戻して歩みを進める。あの調子だと、クラスメイトどころか学年に広まってるかもしれない。

 開け放たれた廊下の窓からは秋口の涼しい風が入り込み、あたしの頬を冷たく撫でる。これから教室で何が待ち受けているのか、なんだかワクワクしてきてしまった。何も知らないって顔をして話しかけてくるのか、それともさっきのモブ女子みたいな態度を取られるのか。

 2Dの前のドアは開いていた。まあ、閉まっているところなんて下校後に先生たちが戸締りしたあとくらいだけど。

 他の階や教室と同じくざわついたそこに、あたしはいつもの笑顔で入っていく。

「おはよー」

「あ、ヤナ。おは」

「ヤナおはー。遅かったね。ギリだよ」

 最初に話しかけてくれたのは、教卓まわりにたまってた安古川あこがわ比奈ひな伊葉いば咲希さきの二人。この二人は典型的なインフルエンサーに憧れてる意識高い系の女子たちで、ネットは自分たちがいかに映えるかくらいしか気にしていない。学校の裏サイトなんてチマチマした空間に興味あるはずがない。彼女たちは自分たちが発信するSNSのコメントのみに生かされている。

 だから、あたしが昨夜ネットでどう言われていたのかも知らないし、あのことも知らない。

 安古川と伊葉に軽く手を振りながら、自分の席のある窓側へ向かう。それまでに数人のクラスメイトと挨拶を交わしたけど、昨夜の書き込みを知ってるのか知らないのかは読めない顔ばかりだった。

 ちょっと期待外れだったけど、よく考えればそれが普通だ。昨日の今日であたしに対して不自然な態度を取ったら、あんなゴミの掃き溜めに自分がいると認めるのと同じなんだから。

 そんなふうに思いながら机にカバンを置いたところで、気がついた。

 窓際、うしろから2番目。あたしの前の席は菜月だ。

 菜月は市外からの電車通学組で、学校に来るのがめちゃくちゃ早い。だから今日も当たり前にすでに席に座っている。それなのに、挨拶するどころか一切こちらを振り向こうともしない。

 おはよう菜月、と声をかけようとしたところで──

「おはよーヤナ。ギリじゃん、寝坊?」

 後ろから川崎美桜が話しかけてきた。

あたしは椅子を引いて座りながら川崎を振り向き、用意していた台詞で答える。

「はよー。昨日川崎から教えてもらった実況見てたらさぁ、気づいたら朝だったんだけど」

「うっそマジ!? 見てくれたの!?」

 予想以上に大きなリアクションで返してきた川崎は、身を大きく乗り出した。文字通り目と鼻の先に迫ってきた川崎のマスカラが今日は失敗してるなと思いながらも、にこにこと笑ってみせて頬杖をつく。

「そりゃーあんだけオススメされたら見るでしょー」

「やだー神! で、どうだった」

「ホラーゲームはあんまり得意じゃないんだけど、上手な人がやってるの見るとなんか映画見てるみたいで面白かった」

「やだぁ……マジで見てくれてんじゃん……」

「あたしのことなんだと思ってんの」

「わかんないけど。実況には興味ないとは思ってた」

「興味あるなしっていうか、単に知らんかっただけだよ」

「またオススメ教えるね!」

「リスト作って送ってよ」

「おけ!」

 川崎との会話を終えて、あたしは改めて前を向くとカバンのファスナーに手をかけた。春に行った修学旅行で、菜月とお揃いで買ったマヌケなタヌキのキーホルダーがついている。ファスナーを下ろし終え、大して入っていない中身に手を伸ばした。下敷きと筆箱、あとは時間割通りじゃない教科書ノート一式が何組も揃っていてかなり重い。

 基本置き勉でカバンには財布と下敷きと筆箱しか入ってないのに、昨日までテストだったから全部持ち帰っていたのだ。「ふっ」と気負いを入れて机の上に置くと、わりと重量感ある音が耳に届いた。

 いつもならとっくにあたしを振り向いて話しかけてくる菜月が、ここまで一度もあたしを見ない。誰かと話してるからというわけでもない。菜月はあたしの前に座っていて、頬杖をついて窓の外を眺めている。派手寄りのあたしと仲が良いわりに、菜月はどっちかといえば真面目寄りだった。始業十分前にはちゃんと席に着いて、先生が来るのを待っている。今は見た目韓国風を極めつつあるけど、性格は出会ったときと変わっていない。

 だから先月の席替えで前後になった時は、先生が来るまでずっと喋っていた。立ち上がる必要はないから注意をされることもない。ただ前を向けばいいだけの今の席位置は、あたしにとっても菜月にとっても楽だったし、楽しかった。

 なのに、まだ菜月はあたしを見ない。

 それが、あたしにとっては答え合わせになった。


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