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「菜月ぃ、おはよー」

 あたしはそんな内心を悟られないよう、いつものように──いつもは菜月から声をかけてくるからいつもとは違うんだけど、それでもいつもと変わらない態度で声をかける。こんなにわかりやすく拒絶を感じながら声をかけるっていうのはそれなりに勇気はいるけど、仕掛けたのは菜月そっちで、あたしはただ応戦こたえただけ。

 菜月、あんたは何を望んでんの?

 未だに答えない菜月の背中にあたしは呼びかける。

「……おはよ」

「おーす。みんな揃ってるかー」

 微かに聞こえた菜月の声を遮るように、担任の佐野が教室に入ってきた。タイミングが最悪とも言えるし、良かったとも言える。だって、菜月はやっぱり振り返らなかった。首を動かす素振りすら見せないで、口だけであたしに応えた。

「まだでーす。和田と島野がきてませーん」

 学年委員(中学でいうところの学級委員)の須加すがさんのよく通る高い声が響いて現実に戻る。目の前の菜月の背中はムカつくくらいに姿勢正しく、佐野の方へ身体を向けていた。

 右頬と綺麗に上がったまつ毛が見える。まつ毛は密度より長くしたいという菜月の希望を聞いて、あたしが一緒にドラッグストアで選んだ安物だけど質がいいって重宝してるマスカラを使ったんだとすぐにわかった。

 どんどん可愛く、綺麗になっていく菜月を見ているのが楽しい。菜月がSNSに載せた自撮りをコメントで褒められるのをみる時、あたしと二人でいるときに大学生に声をかけられて「初めて」ってはしゃいでる菜月を見た時、あたしが菜月をそうしたんだっていう自慢みたいな気分でめっちゃ気持ちよかった。

 メイクでもファッションでも恋愛でも菜月が一番に相談するのはあたしで、菜月のことを一番知ってるのはあたしなんだって思うと、本当に幸せだった。菜月の隣に並ぶあたしは何でも菜月に頼られるようにしなくちゃって、自分磨きにも今まで以上に力を入れた。

 ただでさえイラストを描くのが趣味だなんて言うとオタク呼ばわりされて最悪なのは中学で思い知ったから、高校に入ってからは絶対にそう見えないように頑張ってきた。今では「こんな綺麗な子が、イラストとか描くんだ!?」って驚かれることに快感を覚えていた。

 平たく言ってしまえば、菜月はそういう、あたしが生きていくのに必要な自己肯定感とかそういうのを育てるのに、すごくちょうどいい相手だった。

 だけどちゃんと好きだった。大事だったし、ずっと一緒にいたいと思った。菜月はあたしなんかが入れるわけない頭のいい大学に進学希望だし、菜月なら合格する。それでもたとえば東京でシェアルームとかしたりして……とか、楽しい未来を夢見ていなかったわけじゃない。

 あたしは美容系かクリエイター系の専門に行きたい。親には失望されるだろうけど、女がひとりで生きていくには資格が一番だ。それに、好きなことで生きていきたいくらいと宣言するくらいには夢を見たっていいじゃんとも思う。だって、まだ高2だよって。

 冷たい風がまたカーテンと一緒に頬を撫でて、あたしを現実に引き戻す。

 気づけばLHRが終わり、佐野が教室から出て行ったところだった。教室にざわめきが戻り、1時間目の選択授業のため、みんな移動のために立ち上がったりしている。

「菜月、行こうよ」

 さっきの消えかかった挨拶が聞こえたことにして、あたしはまた菜月に話しかけた。たっぷり数十秒の間を置いたあと、ようやく菜月はあたしを振り向く。視線が合うか合わないか微妙なラインで菜月は瞳を彷徨さまよわせたと思ったら、あたしの机に手をそっと置いて俯いてしまった。

 そして、言った。小さめだけど、はっきりした声色で。

「……もう奈々と一緒に行動したくない。私に近づかないでほしい」

「え。なんで?」

 とぼけた声と顔で首を傾げる。あたしは何も知らないから。雪柳奈々あたしは、裏サイトなんてネチネチした場所で何を言われているのかなんて興味ないキャラクターだから。

 やわらかく握られていた菜月の手のひらに、グッと力が入ったのがわかった。自分の陰湿な書き込みが奈々あたしにバレたとは思っていなさそうだ。だとしたら、菜月があたしを避けたい理由はただひとつ。あたしがわざと書き込んだ、あのコメント。

「……まわりに変な勘違いされたくないんだよね。だからごめん」

 決定打とも言えることを口にして、菜月は立ち上がる。日本史を選択してるのはあたしも同じだから、というか一緒に選択したんだから、隣の2Cに移動する時はいつだって一緒だったのに、「ついてこないで」と言わんばかりの視線を寄越してくる。教科書と資料集、そしてノートと筆箱をさっと抱え込んだ菜月は、あたしを待つことなく立ち上がった。

「えっ、ちょっと待ってよ」

 何も知らない雪柳奈々あたしは当然、納得がいかない。顔中に戸惑いという戸惑いを浮かべまくって、わざとらしく慌てて教科書たちを持ってから菜月を追いかける。一連のあたしたちを見ていたらしいクラスメイトたちの何人かは心配そうな目を向けてきたけど、何人かは顔を見合わせて可笑おかしそうに笑った。それを視界の端でチェックして、記憶しておく。

 佐伯さえき晶良あきらたつみ祐太郎ゆうたろう。伊原あずさと藤沢由子ゆうこ、それに斉藤穂乃果ほのか。あんたらはあの裏サイトの住民決定ね。

「ねぇっ、いきなり何? あたしなんかした?」

 菜月との距離は1メートル未満。手を伸ばせばすぐに肩を掴めるのはわかっていたけど、万が一にでも菜月が痛いとか言い出したら面倒だからしない。雪柳奈々あたしはあくまで突然親友に拒絶されたってことを、教室内外にアピッておかないといけない。この先ただの喧嘩以上に面倒なことになった時のために、せっかくの目撃者を利用しない手はないんだから。

 丁寧に手入れされた菜月の髪先が風に揺れ、あたしの手の甲をくすぐりそうになる。そのくらいの距離まで近づいてようやく、菜月が立ち止まった。2Cに入る直前だった。

 雪柳奈々あたし生徒たちやじうまを充分に意識して、大げさに安堵したように胸を撫で下ろす。そして申し訳なさそうな顔を作り、改めて菜月に声をかけた。

「ねえ菜月、何が──」

「今は無理。……話すなら昼休みにして」

 だからそんな大きな声出さないで。

 聞こえないはずの菜月の声が聞こえた気がした。だから雪柳奈々あたしは、それに気づかないふりをして喜んでみせる。

「うん、わかった! 昼休みね! ありがとう菜月!」

 屈託なく答えたあたしの声は、きっと近くにいた生徒たちやじうまみんなに聞こえたはずだ。


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