立ち食いうどん

星咲 紗和(ほしざき さわ)

本編

都会の喧騒に溶け込むように、駅前にポツンと佇む一軒の立ち食いうどん屋。古びたのれんが風に揺れ、すえた醤油の香りと、出汁のふくよかな匂いが漂っている。店の外観はどこにでもある、普通のうどん屋だ。だが、その日はちょっと様子が違っていた。


仕事帰りの女性、佐々木由美(32歳)は、普段通りにうどん屋に足を運んだ。職場でのストレスが溜まりに溜まり、「こんな日は、さっと立ち食いして帰るに限る」と心の中で呟きながら、いつもの天ぷらうどんを注文した。


「おまたせ、天ぷらうどんね!」と、店主が元気よく声をかける。中年の店主は、頭にバンダナを巻き、手早くうどんを茹でながらも、いつもと変わらぬにこやかな笑顔を浮かべている。


「いただきまーす」と、由美は箸を手に取った。サクサクの天ぷらをスープに浸して食べる瞬間は、何とも言えない至福のひとときだ。けれど、その日の天ぷらには、どこか違和感があった。少ししなっとしているような…。いや、いつもと同じだろう。疲れているせいかもしれない。そう自分に言い聞かせて、一心不乱にうどんをすすった。


しかし、食べ進めるうちに、店内の雰囲気が徐々に変わっていくことに気づいた。いつも賑わっているはずの店内が、やけに静かだ。ふと顔を上げると、他の客が一人、また一人と、静かに店を後にしている。店主もなぜか後ろ姿を見せると、奥の厨房に消えた。


「え? あれ?」と、由美はキョロキョロと店内を見渡した。誰もいない。立ち食いとはいえ、そんなに急いで食べるものか? ふと冷たい風が店内に流れ込む。おかしい、ドアが閉まっているはずなのに…。じわりと背筋に寒気が走り、思わず由美は体を縮こめた。


「まあ、いいか…」気を取り直して、残りのうどんを食べようとしたその瞬間、ポン、と胸のボタンが外れて弾け飛んだ。「えっ!?」驚く由美。しかしその驚きも束の間、急に全身がふわっと軽くなり、目の前が真っ暗になった。


次に意識が戻ったとき、由美は何か温かいものに包まれていた。じんわりとした心地よい温かさ。まるで温泉に浸かっているかのような気分だ。


「ここは…どこ?」と、由美はぼんやりと周りを見回した。そして、自分がどこにいるかを理解したとき、全身の力が抜けた。


「え、寸胴鍋の中に…!?」


そう、由美は巨大な寸胴鍋の中に浸かっていた。目の前には湯気が立ち込め、グツグツとお湯が煮立っている。まさに、うどんを茹でる寸胴鍋の中だ。鍋の縁に手をかけてなんとか顔を上げると、そこには信じがたい光景が広がっていた。


巨大な厨房の真ん中に、ひとりだけ立っている。見上げると、鍋の外側は天井のように遠く、まるで自分が小さくなったような錯覚に陥る。


「どうして…こうなったの?」由美は自分に問いかけたが、もちろん答えは返ってこない。ぼんやりと自分の状況を呑み込もうとする彼女の前に、突然、異様なものが現れた。


「うおっ…熊!?」


目の前に現れたのは、大きな熊だった。いや、熊の着ぐるみを着た何者か…? 由美の混乱はさらに深まる。だが、その熊はただ立っているだけではなかった。音楽が鳴り出し、熊が突然踊り始めたのだ。ぎこちないステップを踏みながら、熊は楽しそうに踊っている。


「何これ…シュールすぎるでしょ…」


由美は頭を抱えたくなったが、手はまだ寸胴鍋の中。どうにもならない状況で、ただ熊の踊りを見守るしかない。


「お前、うどんの神だぞ」


突然、熊が口を開いた。え? うどんの神? 何を言っているのかわからない。だが、熊は真剣な表情(に見える)で彼女を見つめている。


「お前、毎日うどんを食べてるから、もううどんになっちまったんだよ。だから、ここで一緒に茹でられてるんだ」


「うどんになった…って、どういうこと?」由美は困惑しながら聞き返すが、熊はそれ以上何も言わず、再び踊り出した。


「待って、私うどんになりたくない! ただ、普通に食べてただけじゃん!」と叫びたかったが、声は出ない。全身が次第に麺のように感じられ、体がどんどん柔らかくなっていくような気がした。


「これは…夢? それとも…現実…?」


由美の意識が混濁する中、熊の踊りがどんどん激しくなり、ついには鍋の湯が溢れんばかりに煮え立ってきた。由美はそのままふわりと湯の中に沈んでいき、視界がだんだん遠のいていく…。


「――お客さん、寝てるんですか?」


ふと目を開けると、そこは立ち食いうどん屋のカウンター。店主が不思議そうな顔でこちらを見ている。


「え…あれ…私…?」


由美はあまりにも鮮明な夢に混乱しながら、立ち上がろうとしたが、足元が妙にふらつく。ふと胸元を見ると、先ほど弾けたはずのボタンはしっかりついている。


「夢…だったのかな?」


そう自分に言い聞かせながら、店を出ると、外の冷たい風が顔に当たる。なんだか不思議な体験だったけど、まあ、そんな日もあるか、と苦笑いを浮かべながら家路を急ぐ。


背後で、微かに熊の着ぐるみが踊る音楽が聞こえた気がしたが、振り返ることはなかった。

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立ち食いうどん 星咲 紗和(ほしざき さわ) @bosanezaki92

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