第二話 機械じかけの心①


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 容姿、身なり、作法、年齢、人種。

 外見はその人物の一要素に過ぎない。

 広大な宇宙に浮かぶ地球という球体の表面、日本という島国の関東エリア、東京都の片隅に位置する三鷹市、更にその一部、宇宙から見ればグラニュー糖一粒より小さな世界で、八十一億分の一たる彼が右を向こうが左を向こうが、バタフライ・エフェクトすら起きないと言い切れるだろう。

 志貴恵大はうっかり開けてしまった扉の横で壁に寄り、呼吸音を絞った。

 集積分析研究室。床に積まれた本が塔の様に林立する所為せいで、視界はひどく不自由だ。倉庫同然の雑然とした室内は先日と何ひとつ変わりないが、耳に聞こえる会話はさながら各国首脳が集う国交会談で、徒歩の道中でにじんだ汗が一気に引いた。

ざんしんなお話を伺えて大変有意義でした」

 かんろくある男性が革のアタッシェケースに封筒を収める。ケースの金具が冷たい音を立てる。

「そうですか。どうも」

 こたえる表情は春の日差しを受けて、微睡まどろむテディベアの様だ。

「研究援助の件、社に持ち帰り、現実的に慎重な検討を重ねた上でお返事させて頂きます。貴重なお時間をありがとうございました」

 男性は親しげな笑みで席を立ち、本の塔の陰に入ると、陽がかげると同時にへきえきとした顔をあらわにする。彼は扉横に立つ恵大を見て、同じ目的で呼ばれた同業者とでも思ったのだろう。これ見よがしに俗っぽいちようしようを浮かべて、顳顬こめかみの横で人差し指を回転させた。

「それでは、失礼致します」

 明の死角で差別的なジェスチャーをしておきながら、退室の声音だけは朗らかだった。

 仲間扱いされるのは気分が良くない下品さだが、心情は解らないでもない。恵大は本の塔の間から、姿勢を崩して椅子の背にもたれかかる明を眺めた。

 だらしなく投げ出された手足、間抜けに開いた口。マッシュの黒髪はくしを通したこんせきがなく、よれよれの白衣の下は部屋着同然の黒トレーナーにワイドパンツで、スニーカーのかかとは履きつぶされて平になり、スリッパ同然である。

「おや、恵大君。お早いお着きで」

 いる事に気付いてもいなかったらしい。明が寝ぼけた顔で尋ねるので、恵大は下がったまゆを上げ直して背筋を伸ばした。

「人のコーディネートにケチを付けるくらいだ。そのセンスを自分に使えよ」

「ああ、恵大君も視覚情報に依存するタイプの人類か」

 明がおつくうそうに靴を脱いで宙にり上げる。スニーカーが靴底を上にして床に転がると、何処からともなく猫の鳴き声がして、黒猫の6が傍に降り立った。6が前脚で靴にじやれる。スニーカーがひっくり返って天を向いた。

「雨のち晴れ」

 明と猫に似合いの気まぐれな占い結果だ。恵大は嘆息で視線を落とした。

とげは身を守るよろいだ。とがった言葉はおびえの裏返しに聞こえるぞ」

「あたしを薔薇ばらたとえるとは奥深い感性ですね」

「薔薇要素は何処だよ。靴を脱ぎ散らかして、靴下は片方裏返し。白衣で隠してるがトレーナーのすそにトマトソースが飛んでるし、髪は寝起きみたいにぼさぼさじゃないか」

 恵大がありったけの粗探しをぶつけているというのに、明は満足げな笑みを浮かべる。恵大はすぐに気付いてレモンをまるかじりした時と同じ顔になった。

「何を着ても大差ないけどな」

「後夜祭~」

 それを言うなら後の祭りだ。恵大は正したい衝動をぐっとこらえた。手遅れを自ら強調するのは御免である。

 明が机の下に足を突っ込んで左右に振り、探り当てたサンダルを爪先に引っかけて手繰り寄せる。

「人は見た目で七割を判断する。誤認を直感と誤認する欠陥オセロを抱えた生き物です」

「誤認を誤認で……いや、惑わされないぞ。直感は経験則だ。生まれてからの経験、もっとさかのぼれば遺伝子に記録された情報と現状を照らし合わせて好感や嫌悪といった信号を発して身を助く、生存本能だ」

「中身を知る前に視覚で判断してますね」

 オセロのわなか。否定をしたはずが肯定に裏返っている。

「君、何でもかんでも自分に都合の良い結論に結び付けるのは、学術として客観性に欠く悪手じゃないのか?」

「そうですね。学術的に、実例を取り上げますか」

 恵大の異論を軽やかにいなすように、明が長い指を伸ばしてマウスをクリックする。スリープ状態だったパソコンとモニターが目を覚ますと、明の操作に応えて数枚のファイルを表示した。堅苦しい英文に写真やグラフが添付されている。

ひとれから始まり、結婚に至った二人は互いに顔のパーツバランスが類似している傾向にあります。ある映画の撮影では、集合時は服装や人種で幾つかのグループを形成していた演者達が、特殊メイクを施した後は自然と架空の種族ごとに集まったそうです」

「顔立ちは知らないが、服装はまあ、分からないでもない」

 恵大の経験上、大学で服の傾向が近い学生に話しかけておけば、会話のペースも大きく外れる事はそうなかった。

「他人にどう思われてもあたしという人間は変わらない。物事を本質で判断しない人とは仲良く出来る気がしないので初見で消えて頂いてどうぞ御自由に」

「じゃあ、その白衣は何だよ。前にも言ったが、君の研究には無用の長物だろう」

「防寒対策です。研究室にながそでの上着がこれしかないんですよ。それを言うなら探偵さんの方が、ね」

 同意を求めるように視線を流した明に、6も金銅色アンバーひとみで恵大を見つめる。

 恵大は思わずネクタイに触れて、形が崩れていない事を確かめた。

 さわやかなブルーグレーのスーツにこけもも色のネクタイ、キャメル色の革靴はスーツを買う時に店員に勧められたコーディネートだから外れはない筈だ。今日こそ何処から見ても理想の探偵である。

 顔立ちや髪質、身長などの身体的要素は選んで生まれて来る事が出来ない。

 ならば、言葉遣い、身なり、所作を整えてなりたい自分に近付ける。服装の近い学生同士の話が合うように、そこには必ずこうと金銭感覚、価値観、倫理観が表出した。後天的な外見は、そう存りたいと思うその人の理想を知る手がかりとなる。

「そうとも。俺は容姿で人を判断してるんじゃない。あらゆる要素を手がかりにして内面の表出を見てるんだ。探偵として当然の素養と言うべき──」

「で、これなんですけどね」

 かつてこれほど会話を無に帰す人間が存在しただろうか。

 まだ切り替えきれない恵大を待たず、明が器用な手付きでマウスを動かす。新たに開いた画面は論文でもお得意のAIでもなさそうだ。

「ナァオ」

 猫ののんな鳴き声に興ががれる。

 恵大はためいきで反発心を解放して、明の隣に立ち、モニターをのぞき込んだ。

 どうやらメール画面らしい。差出人は『瀬橋大学事務局』、題名は『Fw:警告』とある。事務局から明宛てに転送されたようだ。

「読んでも?」

もちろん

「それじゃあ……『瀬橋大学。学内違反者、新家明を告発する』。え」

 読み上げる方に神経を奪われて、理解が一秒、遅れて来る。急に上体を引き起こした所為だろうか、恵大の頭から血の気が引いて、明が距離以上に遠く感じられた。

「これって君の」

 明が机を手で押して椅子を引き、身体をこちらへ回転させる。

「依頼です、探偵さん。謎の密告者の目的を明らかにしてください」

 息をむ音ががいの内側から聞こえて、それが恵大自身のものだったと気付く。

 6が首をもたげる。ブラインド越しの陽光がつややかな黒い毛並みを美しく照らした直後、太陽が翳ってはじけるような水音と振動が研究室内に響いた。

 暗い。雨雲が空を覆ったみたいだ。静寂がいやな予感を呼び覚ます。

 恵大は明と本の塔をかいして、一息にブラインドを上げた。

「!」

 視界が赤に染まった。

 窓一面に真っ赤な液体が飛び散り、その粘度故に時間をかけて滴り落ちようとしている。明は目をみはって動けない。逆に6は興奮した様子で足元を走り回る。

 恵大はまつの少ない窓に駆け寄って、かぎを外す手で窓を開け放した。

 ここは二階。窓に液体を浴びせるなら同等以上の高さから掛ける必要がある。人が登れる足場らしい足場は桜の木くらいだ。

 新緑越しに目を凝らしても、地上に動く人影はない。恵大が上半身を乗り出して左右を確認する傍を擦り抜けて、6が勢いよく外へ飛び出した。

「危ない!」

 恵大はバランスを崩しながら左手で窓枠につかまり、右腕を差し伸べたが、6は木に軽やかに飛び移って見えなくなってしまった。

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