第一話 猫と科学者⑥


    6


 石垣に白塀を重ねた堅固な外塀が、交差点から次の十字路まで続いている。上部に備えた忍び返しのてつさくと競い合うように庭木が枝を伸ばし、新緑でさえ視界を遮るには充分だ。

 信号の待機ランプが順に消えて時を動かす。

 恵大は夜空にそびえる破風の屋根に身震いした。

「ゾーイによると、旧オズワルド邸の現所有者はしようせい・オズワルド。初代から数えてヒのフの五親等で、戸籍上の本名はがわ松正さん」

 新家明がスマートフォンに顔を近付ける。

 椅子から立って隣に並ぶと、思いの外の長身だ。猫背を伸ばせば百八十の大台に乗らぬまでも肉迫するのではないだろうか。車輛が通過する度に白衣の長いすそがはためいて、四つつじの幽霊みたいに輪郭がゆらゆらにじむ。

「近年は維持費に困窮しており、特に老朽化の対策を迫られていたようです。親族の強い勧めでレンタルスペースへの転用を決意し、銀行から出資を得て補修及び改装工事に踏み切りました」

「レンタルスペースって何をするんですか?」

「撮影やパーティ会場が想定されていますね。ドラマ、雑誌、コスプレ撮影会、結婚披露宴、演奏会」

 恵大の地元で言う公民館の様な施設になるようだ。無論、使用料はけたちがいだろう。

「利害の一致ですね」

 歩行者用信号が青に変わる。右折待ちのタクシーが目に入って、恵大は小走りで横断歩道を渡った。新家明も当人比では早足だったが、歩きスマホと猫背の所為せいで急いでいるようには見えなかった。

「松正さんはSNSで不満をこぼしていました。翌日には削除したようです」

「失言を反省した?」

「親族に非難されたのかも。記録データには残らない背景です」

「それで、その旧オズワルド邸と黒猫がどうつながるのですか?」

 恵大は結論を迫ったが、新家明は回線が切れたみたいに情報の提示を停止して、目の前にたたずむ黒鉄の門扉を見上げる。

「恵大君。門が閉まっています」

「そうでしょう。時間も時間です」

「中に入れませんね」

「何ですか、その目……」

 新家明が厚い前髪の陰でまぶたを半分下ろすと、まなじりがシャープにり上がって眼光を増す。彼の要求は考えるまでもない。

「こういう時は年上が責任を取ってくれるもんだろ」

 恵大は独りごちて門の格子の間に腕を通した。猫捜しは恵大の責任で、新家明は情報提供者。更に住居侵入罪で訴えられた場合、大学教授と私立探偵ではリスクが異次元だから、背負うなら恵大である。

 幸い、かんぬきに錠は掛かっていなかった。把手を回転させ、鉄の棒を横へスライドすると、鉄扉は何なく開かれた。

 門扉だけではない。玄関扉も開いている。

 廊下の奥から物音がする。

 人がいる。

「何処に行った!?」

 げきこうする声とビニールが荒々しく擦れ合う音を頼りに走る。

 スマートフォンのフラッシュライトでは足元しか照らせない。床に貼られた保護シートが靴底に引っかかって足をからめ捕ろうとする。

 がらんどうの部屋を幾つも通り過ぎて、最奥の果てにかすかな明かりを見た。

 恵大は入り口に背を寄せて、室内をうかがった。

「どれだ。お前じゃない。お前か?」

 男性らしき体格の人影がビニールを踏みしだいている。彼が抱え上げたのは、猫。

 黒猫だ。

 恵大は気管がすくんで、詰まった呼吸を大声で押し出した。

「そこから一歩も動くな。猫を解放しろ」

「くっ」

 男性は全身をこわらせたかと思うと、猫をビニールの塊の上に放り投げて、恵大の方に突進して来た。否、逃げる気だ。

「待て!」

「よいしょ」

 緊迫した空気に、間の抜けた声かけとまぶしいライトが細波さざなみを立てる。

 新家明が大仰に息を吐く。工事現場用の照明器具がスタンドごと入り口に下ろされて、その巨体と光で逃げ道をふさいだ。

「おお、写真と同じ御尊顔だ。松正・オズワルドさん」

 新家明の口調は表情豊かと表するには淡白で、厳粛かと言えば場違いなこつけいさがある。

「松正さん」

 恵大が視線を向けると、男性は光から顔を背けた。

 五十絡みと見るのが妥当なところだろうか。髪は短く、ひげはなく、まゆが整えられてれいな印象を受ける。

 丸首の白いカットソーに濃い色のチェスターコートを合わせた装いはカジュアルながら紳士的だが、コートと同系色のスラックスは粉まみれでほとんど真っ白だ。

 恵大は松正に注意を払いつつ、ビニールに投げ出された黒猫の傍にしゃがんだ。

 アメリカンカールの黒猫だ。毛足が長くて分かり難いが、弱々しい呼吸に上下する腹はせて手足はわずかに震え、月色のひとみには力がない。

 衰弱している。

 恵大は及び腰の松正をめ上げた。

「何をしたんですか?」

「私は何もしていない。その猫が勝手に入り込んでいたから、追い出そうとしていただけだ」

 たじろぐ松正は疑わしくも否定するには根拠に欠ける。トラ猫の晴太郎と同様、突き止めたのは居場所だけだ。恵大はそう思っていた。

「何もしなかったのは本当トウルー、後半はフオルス

 新家明が太い電源コードを引っ張って照明の足元を安定させる。それから、電灯のかさを調整して、部屋全体を光にさらした。松正の影が真後ろに伸び、ボードに彼自身より背高の影が縫い付けられた。

「黒猫を捕まえて、食事を与えず、助けを求めて鳴く力すら奪って、死なない程度に放置したんです」

 恵大の手にアメリカンカールのぜいじやくな吐息が触れる。

「最低だ」

 湧き上がるけいべつの感情を、恵大は抑えておけなかった。一人では生きられない生命体を捨て置く暴挙に飽き足らず、監禁して生き延びる自由をも奪った。

 松正の行動は全く理解出来ないが、彼がこの期に及んで迷惑そうに頰をゆがめる道理が恵大には解らない。

貴方あなたは旧オズワルド邸を一般に貸し出すのが不満でした。不安と言った方が近いのかな。だって、迷信に頼って建物を守ろうとしたのですから」

「猫で何を守れるって言うんですか。いけにえにして魔女でも呼び出す気ですか?」

 恵大の過ぎた怒りが、ひようひようとした態度を崩さない新家明に飛び火する。八つ当たりで語気を荒らげた恵大にも、新家明は依然データを音読するみたいに無感動に答えた。

「そんな伝承は聞いた事がありませんが、発想は似たような部類です」

 スリッポンの足が壁沿いを歩く。

「昔々、モーガン・ル・フェイの領地、コンブールという村に四世紀をかけて城が築かれました。幾度にもわたる戦争を乗り越えたその城には、四つのけんろうな塔が建っています。その内のひとつは通称『猫の塔』と呼ばれました」

 愛猫家が建てたのだろうか。だとしたら、話の流れにそぐわない。恵大の疑問はすぐに解消した。

「後に、塔の石壁から無数の猫のミイラが発見されたからです」

「噓だろ」

「残念ながら史実です。十三世紀のヨーロッパから、黒猫は邪悪な存在とする考えが広まりました。数々の迫害の中には建築に関わる迷信もありました」

 絵本に描かれたおとぎばなしの様に語られる残虐な歴史。

「『黒猫を生きたまま壁に塗り込めると、建造物が災厄から守られる』」

 恵大はがくぜんとしてビニールを握り締めた。この世の物質をつかんでいなければ、脳がゆめうつつさせて現実逃避してしまいそうだった。

 新家明が壁に立てかけられた建材のボードを退かす。

 余りにも耐え難い。

 おぞましい光景が、そこにはあった。

「最悪だ。最悪だ最悪だ」

 恵大は奥歯をんだ。

 壁の中にケージがある。今は扉が開いているが、外に出ようとするものはいない。

 衰弱して、目を開ける事すらままならない黒猫らが、痩せほそった身を寄せ合うように横たわっていた。まだ辛うじて身体を動かす力がある者には口輪が取り付けられて、発声を封じられている。

「警察に知らせます」

 恵大がスマートフォンを手に取ったせつ、鈍い衝撃が当たってそれがはじき飛ばされた。懐中電灯が遅れて床に転がる。

「旧じゃない。ここは今でもオズワルド邸だ」

 松正が振り抜いた腕をだるげにもたげた。

「オズワルド家の歴史も建造物の価値も知らないやからに、この邸宅で好き勝手されると思うとむしが走る」

「維持費確保の為の合意でしょう? 取り壊しになったらその歴史も断たれる」

「腹立たしい、何でも金だ。現代社会にかぶれた猿知恵は、金さえ払えば下品な承認欲求を満たせると学習した挙げ句、他人の尊厳を損なう事もいとわない」

「だからって」

 恵大は反射的にろんばくを試みて、失速した。一理ある。全面的に賛同はしないが、インプレッション稼ぎに旧オズワルド邸を借りる人間も現れるだろう。もしショコラトリー長門が世界遺産に認定され、金に飽かして雅乃を追い出す者がいたら、恵大も矢面に立って反対する。

「だからって……」

「貴方の懐古主義も大概だと思いますけど」

 新家明が指先に付いた粉を払って壁を離れ、恵大の隣に立った。

「私は過去を懐かしんでいるんじゃない。先祖の遺志と人類の文化を受け継ぐ使命を負って、未来を見据えた上だ」

「経済力が足りないのも、他人に頼るしかないのも、貴方の都合ではないですか。人の住まなくなった家は朽ちるだけです。猫を生贄にするより、他人に貸し出した方が余程効果的では?」

 新家明が淡々とたたみ掛ける。

「そもそも、改装しているという事は、損傷しても現存の建材で補修出来ますよね。砲丸が飛んでくる時代でもなし、火事を警戒するなら煙感知器とスプリンクラーを付けた方が有益でしょう。理解不能です」

「お前みたいな奴が、当事者を無視して物事を滅茶苦茶にするんだ」

 松正の怒りがのどの奥から低音を絞り出す。彼は頰から耳まで紅潮させて、チェスターコートの懐に手を差し入れたかと思うと、突如、スプレー缶を構えた。

 催涙スプレーか、ラッカー塗料か、見定める間もない。

 恵大は思考を通さず、せきずいで動いていた。

 看護学校では授業の一環で護身術を覚えさせられた。院内への侵入者対応のみならず、混乱した患者を鎮静化するにも装備が慈愛だけでは共倒れだ。

 恵大はポケットの中でくしゃくしゃに丸まったネクタイを摑み、引き抜く動作から腕をしならせて、松正の顔面にたたき付けた。

「う」

 松正がうめいて体勢を崩す。その隙にスプレー缶を持つ手首を取って、ぶら下がるように脇から背中に潜り、松正の腕をひねり上げた。

「痛い、痛いです。放してください。お願いします、警察だけは」

「その厚かましい台詞、猫の飼い主さん達にも言えますか?」

 恵大はスプレー缶を取り上げて新家明に渡し、少しだけ力を緩めると、松正の両手をネクタイで後ろ手に拘束した。松正はぐったりして床に横倒しになる。

 新家明が恵大の陰から顔を出した。

「やりますね、探偵さん」

「はあ」

 これではどちらが探偵だか分からない。恵大は生返事で濁してスマートフォンを拾った。案の定、画面は見事に割れていてまた肩で息を吐いた。

 邸宅前にパトカーと救急車が駆け付けるのを見て、道行く人が歩みを緩める。

 さて、どう説明をしたものか。

 頭を抱えながら門の外に出た恵大を現実に引き戻すかのように、6が他人ひとごと顔で悠々と通りかかり、尻尾しつぽを一度だけ波打たせる。

「何処に行っていたんだ」

「ナァオ」

 砂場で遊んでいたのだろうか、腹に白い汚れを付けて何となくほこりっぽい。

「丁度いい。口実に使わせてくれよ」

 恵大は疲れた腕に6を抱え上げて汚れを払い落とし、押し寄せる警察官と救急隊員に声を掛けた。

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