第一話 猫と科学者⑤


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「どうして晴太郎の居場所を特定出来たんですか?」

 林立する本の塔を潜り抜けて机際まで詰め寄った恵大に、新家明は気の抜けた表情でまばたきだけ返した。まるで食べ終わった後の皿には関心が持てないとでも言いたげに、胡座あぐらひざに広げた絵本に視線を落としてしまう。

 机を平手でたたく。絵本を取り上げる。膝の上に頭を滑り込ませて強引に目線を合わせる。どれも実行には移せない。わがはいは猫ではないのだ。

 恵大はしわになった二枚の紙を机の端に置いた。

「晴太郎を人は瀬橋大学、アメフト部の二年生です。校内をびしょれで歩いていた猫を拾い、自宅アパートに連れ帰りました」

 本人に聞いたので間違いない。迷い猫の貼り紙を見た事はあったが、写真が独特の表情をとらえており、同じ猫だと思わなかったそうだ。

「疑問なのは、彼が猫の話を誰にもしていない事です」

「情報を解析したのはゾーイです。あたしは何もしていません」

「その情報を教えて下さい」

 恵大が食い下がると、新家明はようやく絵本を閉じた。

「晴太郎は以前からセバス学内で目撃されていました。いなくなったのは先週の水曜日。セバスでは新入生を対象とする勧誘の為、各部、サークルが中庭に長机と看板を設置していた頃です」

 門から校舎に至るまで、学生でごった返して歩きづらくなる時期だ。恵大は専門に特化した三年制の短期大学だったからサークル活動にさほど積極的ではなかったが、それでも頻繁に引き止められたのを覚えている。

 新家明が続ける。

「学生課の掲示板によると、同週末に臨時で清掃業者が入っています。また、水曜の時点で粗大ゴミ置き場にテニス部の看板が捨てられていました。目撃した学生の話では、塗料をぶちけたようなひどい汚れがあったそうです」

「ライバルサークルの嫌がらせですね?」

「いえ、部員が塗料缶をり倒したんです」

 目を光らせたのが恥ずかしくなる。恵大が小さくなるのに気付いた様子もなく、新家明がパソコンの画面に数枚の写真を開いた。

 ゴミ捨て場で撮影されたテニス部の立て看板は、下三分の一が青い塗料でつぶれている。地面を写した別の写真にも同色の塗料まりがあり、縁から脱出する小さな足跡が画角外まで続いていた。

 猫の足跡だ。

「これ……」

「塗料缶を倒したテニス部員は、足元に猫がいた所為せいだと証言しました。同日、校内の生協で除光液が品切れになっています。監視カメラの録画で、経済学科の学生が購入したと分かりました」

「監視カメラの映像を盗み見ているのですか。教員でも職権濫用なのでは?」

「まあまあ、さておき」

 新家明が恵大の糾弾を雑に流す。

「除光液と同時に一泊お泊まりパックもレジを通されました。シャンプーとトリートメント、ボディソープの使い切りセットです。ここから、ゾーイはテニス部で塗料を浴びた猫を、経済学科の学生が洗浄した可能性を示しました」

「そうか、晴太郎が濡れていたのは洗われたから。且つ、乾燥前に逃げ出したので、洗う時に外した首輪が置き去りになったんだ」

 首輪が収集車から発見された事から、経済学科の学生はGPSに気付かなかったと推測される。

「以降、校内で該当猫の目撃はありません。ゾーイは誰かが連れ帰った確率が最も高いと判断しました」

「それだけでアパートの特定は出来ないのでは? 実家暮らしの学生もいます」

「統計を元にした確率の問題です。家族がいる場合、飼い猫として役所への届出や獣医師での受診など、猫を迎え入れる上で正規の手順が期待出来ます。程なく、飼い主がいたと知るでしょう」

 降水確率が八十パーセントと聞き、傘を持って出かけるようなものだ。雨が降らない可能性もあるが、多くの人は雨を前提に行動する。

「セバス生が入居している近隣アパートで、ペット可の物件はカーサ鏡山のみ」

 今回は雨が降った訳だ。恵大が黙り込むと、遠い鐘の音が鼓膜をかすめた。

 研究室の前を話し声が通り過ぎる。太陽が西へと傾き始め、ブラインド越しの陽光が熱を弱める。

 恵大は口を固く閉ざした。

 敗北宣言をしたくない。しかし、AIの成果は無視出来ない。

(それ以上に)

 推理の基盤となる膨大な情報を集めて入力したのは、新家明だ。その情報網は大学教員の域にとどまらず、さいな話も軽んじない情報への忠義さえ感じさせる。

 同じ情報を得ていたら恵大もトラ猫の居場所を突き止めていたはずだ。しかし、同量の情報を得られた自信が持てない。得たとしても、新家明より確実に時間を要していただろう。

 AIはいままゆつばで、民間療法の方がまだ身近だ。

 だが、新家明が収集する情報は紛れもない事実である。

「新家先生」

「ほ?」

 新家明がきょとんとする。

 恵大はこぶしを作り、骨のきしむ痛みでつまらないプライドをにぎり潰した。

「僕は雅乃さんが犯人だとは思いません。現段階では到底、信じられない。だから、協力して下さい」

「情報を提供しろと?」

「主張の相反する人間に塩を送れとうて、虫が良過ぎるのは承知の上です。でも、解析結果と真実を照合出来れば、貴方あなたの研究にも役立ちますよね」

 新家明は値踏みするような薄目で恵大を眺めて、表情は一ミリと動かさない。恵大は最後の意地もかなぐり捨てて額が膝に付くほど頭を下げた。

「お願いします」

 新家明のデニムスリッポンが爪先の角度を変える。

「探偵さん。専攻は?」

 問いの意図が読めない。恵大は恐るおそる上体を起こした。

「看護系の短大で看護師資格を取りました」

 調査に役立てる目的で医学と悩んだが、現実的な都合に加え、医学といえば助手ワトソンのイメージがあったというのも大きかった。

「ゾーイに貴方のデータを学習させたらこう言うでしょう。理屈と感情のどっち付かず、理想と常識に縛られて、自己矛盾を抱えては外的要素に原因を求めて均衡を保つ非合理主義者」

「う」

 言葉の端々が鋭利な破片となって恵大の胸を刺す。危機一髪、急所を突かれて首が飛び出しそうだ。

 新家明が両手を合わせて指先を開く。

「つまり、地球に八十億余りいる、人間らしい人間です」

 恵大は目をみはった。

 世界全人口を一まとめにする、彼の声音は相変わらずこもったように低いが穏やかだ。

「サルトルは言いました。『実存は本質に先立つ』。生まれ持った素質より、実際の言動が人を作るという意味です」

「俺の行動……」

あこがれを見据えて、手段を講じる。貴方からは自身の人生への誠実さを感じます」

「そんな事、初めて言われました」

「欲深いとも言えますね」

「上げて下げるのめて下さい。情緒がバグります」

「全ての感情は脳のバグですよ」

 新家明は身もふたもない理屈を述べ、パソコンの画面に向き直った。マウスを操作してデスクトップに無限にあるアイコンの中から、最新のPDFファイルを開く。

 表示されたのは細かい文字と二色の棒グラフだった。

 恵大は身を乗り出して画面に顔を近付けた。見出しのタイトルは、

「『猫の種類別統計』とありますね」

「色々な条件でデータを並べ替える内に、明確な偏りが抽出されました。今月に入って猫のしつそうが増えた話は覚えていますか?」

「はい。過去二年分の記録と比較して明らかに多いって」

「ここを見て下さい」

 棒グラフはいずれも異なる長さで三本ずつ並んでいるが、ある二つの項目だけ、グラフが等しい数値を示している。

「各年同時期の増加分が、黒猫の失踪件数とほぼ一致しています」

 結論を言語化するより早く血の気が引く。恵大は研究室内を見回した。

「探偵さんの言う『犯人』がいる場合、黒猫に固執していると考える事が可能です」

 新家明が慎重な言い回しをしたが、恵大も既に確信していた。

「6は? あの猫は何処ですか?」

「散歩中みたいですね。御心配ありがとうございます」

「違うんです」

 恵大は椅子の背に手を掛けて、新家明の顔をのぞき込んだ。耳が冷たい。恵大の顔は今きっと土気色をしているだろう。

「俺に付いて来て、ショコラトリー長門の前でいなくなりました。雅乃さんを疑っている訳ではないけど、危険度の高い場所で目を離して、捜しもしなかった」

「そうですか」

 新家明はあごに人差し指を当てて少し考え、その手を絵本の表紙に重ねた。

「探偵さん。ショコラトリー長門付近に建設中か改装中の建物はありませんか?」

「急に何の話を」

「お城、洋館、豪邸だと尚良いです。この際、ビルと民家も含めましょう」

 新家明の提示する詳細に触発されて、恵大の記憶の浅い所で雅乃がミトンの手を広げて見せる。

「旧オズワルド邸」

 彼女は差し入れの大量注文を受けたと話した。

「文化財に指定された建物で、現在、改装工事中です」

「十中八九、猫達はそこにいます。急がなければ」

 新家明が絵本を机に置く。

 表紙にはき火を囲んで踊り、ほうきで飛び回る魔女の絵が描かれていた。

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