第一話 猫と科学者④


    4


 校舎の廊下は硬質なシート張りのビニル床。構内の地面はランニングを想定したタータンで覆われている。アスファルトの横断歩道を渡り、公園の歩道は土を用いた舗装材で景色にも足にもむ。

 芝生で小学生とじやれていたテリアが尻尾しつぽの動きを止めてこちらを見た。

 小犬の好奇心をいたのは恵大ではないだろう。

「何だっけ、名前……黒じゃなくて『6』?」

 返事を期待した訳ではなかったが、名を呼ばれたのが分かったか、声に反応しただけか、黒猫の6がニャァオと鳴いた。ヴィオラの様な、高過ぎず低過ぎない滑らかな音である。

「研究室に帰れよ。付いてくるな」

 恵大は邪険に手の甲を振った。ところが、6はきびすを返すどころか悠々と恵大を追い越して先を歩く。まるで、付いてきているのは恵大の方だとでも言いたげだ。

「猫と散歩する気分じゃないって……」

 恵大は肺の空気をためいきで吐き切ったが、ゆううつは一向に晴れなかった。

『中心点はショコラトリー長門』

 範囲特定にける平均値の精度は当てにならない。仮に犯人が自転車で行動しているとして、西に三キロ、東に四キロの地点で犯行に及べば、自宅の予想位置には五百メートルの誤差が出る。

 それとも、新家明は確実に絞り込めるほどの母数を確保しているのだろうか。

「馬鹿げてる」

 6は恵大の歩幅に追い抜かれては抜き返し、とうとう家の前まで付いて来てしまった。こうなっては完全に無視を決め込むより他ない。猫を懇ろに構ってやるには恵大の機嫌は悪く、新家明の印象は最悪だった。

 狭い敷地を限界まで利用して建てられた三階建ては、一階がショコラトリーの店舗、二階を恵大が間借りしており、三階に雅乃の自宅がある。

 本来は二階で雅乃が暮らす想定で、三階は子供達が泊まりに来た時用のゲストフロアだったのではないだろうか。二階に探偵事務所が入ってくれれば防犯になると雅乃は言うが、三階への階段の長さを思うと彼女の善意を感じずにはいられない。

 そんな人が小動物を拐うとしたら宇宙真理の敗北だ。先月も店を訪れた夫婦間に常習的な暴力がある事を察知して、果敢な態度で被害者を保護したきようの人である。

「…………」

 恵大は頭を振って、ショコラトリーの扉を開けた。

 不用心にも、店内に雅乃の姿はなかった。ガラスケースの上にベルが置かれており、『御用の方はお呼びください』とメモが添えてある。

 恵大は左手の黒い扉を見やった。二重の十字格子を備えたガラス窓に鹿撃ち帽のシルエットと矢印がレタリングされている。入居時、探偵事務所名を大々的に書けば良いと雅乃は勧めたが、恵大はショコラトリーの特別感ある魅力を損ないたくなかったので辞退した。

 依頼人にとっては不案内だと思うが、大抵、雅乃が声をかけてくれたと言って問題なく事務所を訪れるのだ。

 雅乃と新家明、どちらを信じるか。愚問である。

 恵大が黒い扉の前で立ち尽くしていると、曇りガラス越しに人影が動いて、扉が向こう側から開かれた。

「探偵さん。お帰りなさい」

「あ、雅乃さん」

「ドアの前に立っているから、依頼のお客様かと思ったわ」

 雅乃が笑顔で半身を開き、恵大に道を譲る。扉を押さえるのと反対の手には分厚いミトンをめて、ショコラティエの制服にエプロンを着けている。気付けば、キッチンの方から菓子の焼ける香りがしていた。

「商品の追加ですか?」

「ええ。旧オズワルド邸で改装工事をしているのは御存じ?」

「すぐそこの、文化財にも指定された家ですよね。僕は由来に詳しくありませんが、今後レンタルスペースとして貸し出すとか」

 一帯は古い街で、昔は何処ぞの富豪が建てたという邸宅が点在していた。現代に至るまでに相続や維持費の問題で取り壊しが相次いで、今でも残る建物は企業が買い取って店舗に改装されるケースが多い。

「工事現場への差し入れにガトーショコラの大量注文を頂いたの」

「今朝、運んだあの段ボールって」

「臨時発注の小麦粉でした」

 雅乃が種明かしみたいに、にっこりと手の平を広げて見せた。

「お店のオーブンでは足りなくて、キッチンまで天手古舞なのよ。慌ててスパイスを取り違えたり、今も仕上げの粉砂糖が何処かに行ってしまってもう大変」

「僕が店番しましょうか?」

「大丈夫。探偵さんは探偵さんのお仕事をなさって。6は元気だったかしら」

彼奴あいつなら」

 恵大は振り返ったが、6も流石に店の中までは入って来ないようだ。単にいつもの散歩道だったのかもしれない。

「雅乃さん。あの」

「何でしょう?」

 言いした恵大に、雅乃が小首を傾げる。

 恵大は続きを躊躇ためらった。

 彼女が新家明の研究を知っていて恵大に紹介したのだと考えると、とても犯人の取る行動とは思えない。しかし研究内容を知らなかった場合、彼女は『徒歩圏内で飼われる黒猫の様子を見に行かせた』事になる。

 雅乃が恵大を見つめている。微笑み慣れた顔は裏にある本心を読ませない。

「忘れ物を取りに戻っただけなので、もう行きます」

 恵大は下手な噓がばれやしないかと不安で、早々と店を後にした。

 みゃあ、と猫の声がする。6ではない。自転車のかごに乗せられた長毛の白猫が向かい風にひげあおられて鳴いたのだ。

「帰ったのか。……どうでもいいけど」

 恵大は意識的に6の存在を頭から追い出して、スーツのポケットから四つ折りの紙を取り出した。

 新家明に教えられた猫の情報解析結果だ。

 トラ猫の名前ははれろう。飼い主はさいとう家で、事務所の西二キロ地点に住んでいる。新家明は任意の迷い猫ポスターを選んだようだが、運悪く恵大の依頼人の一人だった。

 最後に目撃されたのは先週の水曜、平素からよく外を出歩いており、首輪にはGPSが付いていた為、その日、窓の隙間から出て行く時も家族は気に留めなかった。

 しかし、日没を過ぎても帰らず、位置情報を検索してみると、首輪はゴミ収集車に回収されて集積所に向かう道中にあった。

 迷い猫のポスターには、仰向けに転がってだらしない顔をしたトラ猫の写真が載っている。特段、猫好きでない恵大はもっと良い写真もあっただろうにと思ってしまうが、家族はたまらなく愛おしい瞬間を写したのだろう。

 好物はささみジャーキー、鼻先で動かすと釣られて左後脚を振る癖がある。

「丸で囲まれてるのは『カーサかがみやま』?」

 アパートだろうか。斎藤家からは三キロほど離れている。

 猫の行動範囲は一般平均で半径五十メートルらしい。餌を探す等の目的があったとしてもせいぜい二キロが限界である。普通に考えれば辿り着けない距離だ。

 依頼の猫は発見したい。だが仮に予想が的中した場合、新家明が勝利する上に恩も売られる事になるのだから、全く不運ではないか。

「大先生様の研究が迷走だと分かれば万事解決だ」

 恵大は地図に従って一路、カーサ鏡山を目指した。

 もつたいぶらずに結果から述べてしまうと、トラ猫はそこにいた。

「こら、マリー。危ないぞ」

 二階の狭いベランダから短い首を伸ばして、家主らしき大学生に抱え上げられる。

 家主がペーストフードのスティック状の袋をちらつかせる。

 トラ猫の興味は即座に外の世界からおやつに移り、袋の動きに釣られるように左後脚をパタパタと揺らした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る