第一話 猫と科学者②


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 瀬橋大学が通称セバスと呼ばれるのは、何代目かの学長が入学式のあいさつで一言目に校名をみ、皆が震えてこらえる中、学長自ら高らかに笑い出して、会場がこうしようの渦に包まれた件に由来するという。

 駅からは広い公園を突っ切るのが近道だ。

 横断歩道を渡って校門でガラス張りの校舎を望み、恵大はスマートフォンの着信メッセージを開いた。雅乃から送られたテキストには、

『情報科学科、集積分析研究室、新家明(にいのみあきら)』

 とある。

 授業中だと言うのに午前の構内を歩く学生の姿は多く、恵大の年齢を考えれは辛うじてまだ溶け込めそうなものだが、流石にスーツはまない。

 銀色の案内板で情報科学科の場所を確認する。研究室は各階の東にまとめられているようだ。情報科学科は二階、後は行けば分かるだろう。

 有名な建築家が手がけた校舎は自然との一体化をうたっているらしい。表から見るとガラス張りの外壁が空を映して景色を反復し、建物の中に入れば明るく開放的で、春風さえ感じられそうだ。

 ラウンジは海外のカフェとまがくつろぎの空間を実現し、講義室は湾曲した席が教壇を囲んでまるで劇場である。

 研究室はスウィートルームかヴィラか。

「ここだな」

 恵大は扉に掲げられたプレートを確認して、軽く握ったこぶしでノックをした。

 二拍を数えて今一度。

「入りたければ入ってどうぞ」

 投げりな返事が入室を促す。

 余り良い印象ではない。が、雅乃の知り合いで、猫を引き取った人格者であるはずだ。猫を育てるには生涯で二百万から三百万円かかると言われている。まぐれや酔狂で出来る事ではない。

「失礼します」

 恵大は襟を正してドアノブをひねった。指先で静電気がパチとはじけた。

 スウィートルームかヴィラか。恵大の予想は完膚なきまでに裏切られた。

 倉庫だ。床から目の高さまで積み上げられた本、棚から雪崩を起こして床に折り重なったままのファイル。何より狭い。

 廊下を歩いて来る間、通過した扉はどれも等間隔に並んでいた。素直に考えれば扉間の距離が部屋の間口と等しくなる筈だが、この部屋はその半分もない。

 それに、妙な音がする。誰もいない夜の公園で聞こえる、鼓膜をかすかに圧迫するような、けれどその正体を確かめようと耳を澄ます頃には脳が継続的なノイズとして排除して聞こえなくなる音。こうしている間にも聴覚がそれをとらえられなくなっていく。

「?」

 林立する本の塔のひとつと目が合う。

 そこに鎮座していたのは、一匹の黒い猫。

 筋肉質な身体はしなやかで毛並みはつややか、座する姿には気品がある。金銅色アンバーひとみが凍るような冷静さで恵大を捉えて、驚く視線をくぎけにした。

「誰?」

 猫がしやべった、ように聞こえた。恵大が狼狽うろたえて答えあぐねると、声は再び、今度は出所も明確はつきりと尋ね直した。

「対応が必要な用事なら一分待ってもらえます? 作業中」

 こもったような声がボソボソと言う。

 本の後ろに誰かいる。この部屋に入った時から、妙な寒気が四肢に絡んで動きを鈍くする。恵大は猫と本の塔をかいして部屋の奥へと進んだ。

「こんにちは」

「シィ」

 こちらにいちべつもくれる事なく沈黙を要求される。

 椅子に胡座あぐらをかき、机に向かっていたのは、恵大が想像していたよりずっと若い青年だった。とは言え、研究室を持つくらいだから、若々しく見えるだけで年齢はずっと上なのだろうと考えを改める。

 マッシュカットの黒髪がうわまぶたにかかって印象を定めさせないが、横顔に見る通った鼻筋と形の良い唇はギリシャ彫刻に似て、恵大にはないせいかんさをたたえる。一方で、白衣をまとった背中は丸まって、ストイックさはじんもない。ゆったりしたサルエルのパンツも雰囲気にゆとりを持たせるのだろう。

 彼は胡座の足に開いたファイルをめくってはキーボードを打つ。何かのデータ入力をしているようだ。

 一分、二分、数えるのをめて早十分。

 彼はようやく手を止めて大きく伸びをすると、ペットボトルの水でのどを潤した。

ろく

 呼びかけにこたえて黒猫が彼のひざに飛び乗る。

 彼は猫のあごでて表情を緩め、不意に恵大の方を見た。視界の端に入って漸く気付いたとばかりに。

「え、誰?」

「十倍待たせてそれ?」

「何処から来たの、その数字。怖」

「一分待てと言われたから待っていたんだが?」

 恵大は初対面を忘れて語調を荒らげた。自分の方が筋が通っているのに、暴論で押し切られるのは我慢ならない。

「えー」

 対する当の本人は自覚がないようで、目を丸くしている。

(雅乃さんの知り合い。猫の引き取り手)

 恵大は力業で心を鎮めて、声のトーンを半音下げて整えた。

「長門雅乃さんの遣いで新家明さんに会いに来ました。志貴恵大といいます」

「はいはい、雅乃さんの。恵大君ね」

貴方あなたは?」

「お察しの通り、あたしが新家明です。よろしく」

 彼は黒猫を抱え上げ、椅子をこちらに回転させた。

 正面から見ると思いの外、目力が強い。黒曜石を埋め込んだような瞳に凝視されてしゆくしそうになる気持ちを、恵大は胸を張る事で物理的に前に押し出した。

「雅乃さんが、黒猫は元気にしているかと」

「突然またどうして。まさかお体を壊したり……」

「違います」

「噓だったら三代末までたたりますよ」

 新家明がろんまなしで恵大をはすに見る。

「ペナルティが重過ぎるでしょう。じゃない、ただ、僕が探偵で」

「ほう。探偵さん」

 言わなくて良い事を口走った気がした。

 恵大は誤魔化す道を考えたが、新家明と黒猫は揃って目を光らせている。

 大学で研究職に就く人には変わり者が多いと聞くが、新家明の『あたし』という落語や洒落しやれ話にでも似合いの一人称もあいって、たらと心の奥底までのぞかれているかのような据わりの悪さに囚われる。

 恵大は引くに引けなくなって、渋々言葉の先を継いだ。

「猫捜しの依頼が立て込んでいると話題にした所為せいで、不安にさせてしまったのだと思われます。様子を見て来て欲しいと頼まれました」

「へえ。探偵さんってリアルに猫捜しとかするんだ」

「珍しくです。今月に限って偶然、いや本当に今月は多いんです」

 言い訳めいてしまったが、実際の話、先月に比べて件数は増えている。口コミで噂が噂を呼んでいるのかもしれない。改めて考え始めると違和感さえ覚えるほどに。

「──多いなあ」

 これでは猫に忙殺されて他の依頼が入る隙もない。そも入る兆しもないが。

 恵大の口からぼやきが零れる傍らで、新家明と猫が顔を見合わせた。

「雅乃さんの不安、あながゆうとも言い切れないですね」

「でも、新家さんの猫は御無事でした」

「6」

「はい?」

「ロクです、猫の名前」

 恵大が黒猫の顔を見ると、素っ気なく鼻筋を背けられる。フォルムは美しいが、可愛げがない。

 何かを察知したように、黒猫がサルエルの膝から本の塔に飛び移る。

「お見せしましょう。情報科学科、集積分析研究室のえいを」

 新家明は椅子を再び机の方へ回転させて、無線のキーボードを引き寄せた。


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