黒猫とショコラトリーの名探偵

高里椎奈/角川文庫 キャラクター文芸

第一話 猫と科学者①


    1


 わがはいは猫でなくてよかった、とつくづく思う。

 けいは脳内に毛筆でつづるが如く、気取った調子で独りごちた。

 大きな窓から差し込む朝日は上質なレースのカーテン越しに一層優しく、春先の肌寒さが鼻の頭を冷やしたが、全身を包む毛布の温かさをより幸せに感じさせる。

 そして、この香り。

 恵大は冷たい鼻先をスピスピと鳴らした。

 甘いほうじゆんなチョコレートの香りがこうからしんまで満たす。

 起き抜けのコーヒーにボンボンを一粒添えようか、ミルクを温めてホットチョコレートにするのが良いか。否、ここは定番、貴婦人の御好意に甘えさせて頂こう。

 恵大はベッドから足を下ろし、ひんやりした床を踏んで寝室を横切ると、クローゼットの扉を開き、人差し指をネクタイハンガーに走らせた。

 色は控えめだが柄と生地にはこだわったネクタイ達の中から、今日の気分に合わせて赤みが勝った濃紫のペイズリー柄を選ぶ。白シャツは肌触りの良い天然の綿製、スーツは遊び心を取り入れたダブルで、ブラウンのチェック柄が幾分かきやしやな体型をたくましく底上げしてくれた。

「あ、寝癖」

 恵大の柔らかい髪質はふかふかの枕にも負けがちである。この所為せいで学生時代は同級生に散々揶揄からかわれたが、花も二十七歳、今は緩いパーマを当てた洒落しやれたセットと言い張れるだろう。そう願いたい。

 暗いリビングを経由して洗面所で顔を洗い、ジャケットを羽織る。

 真新しい革靴で階段を下りる足取りは羽の様に軽い。

 一階に近付くにつれてチョコレートの香りにパンの焼けるかぐわしさが加わって、恵大は心を誘われるまま最下段を飛ばして着地すると、意気揚々とクリスタルビーズの暖簾のれんを潜った。

「おはようございます」

「あら、探偵さん。おはようございます」

 白基調の明るいダイニングで、白髪の女性が上品に振り返った。

「今日は朝食を召し上がるお時間はあって?」

まささんとの食事を棒に振るに値する用事など、この世に幾つもないですよ」

 恵大は彼女の手からランチョンマットを引き受けて、テーブルに二枚、向かい合わせに広げた。

 彼女はなが雅乃、恵大が暮らす住居兼事務所の大家だ。

 たかという好立地に居を構えるには数年の準備期間で蓄えた貯蓄ではこころもとなく、わずかな資本と高額な家賃のかいで苦悩する彼に、良心的な条件で部屋を提供してくれたばかりか、こうして朝食をそうしてくれるのだから故郷の両親に匹敵する恩人である。

「卵は両面焼きね。パンにチョコレートを載せましょうか」

「何度も言うようですが、僕はいい大人ですよ」

わたくしから見れば孫も同じです。皆には内緒にしてあげますから、素直に今食べたいと思う方をおつしやって」

「……では、ビターチョコで」

「粉砂糖も振りましょうね」

 雅乃に善意しかないのが救いであり、あらがえないところでもある。

 歴史と文学史に名を連ねる先人方に倣い、探偵かくあるべしと知的でクールな紳士を志す身だが、新人ということで少々は御容赦頂きたい。

「パンが焼けるまでお手伝いする事があれば」

「そうねえ」

 雅乃はトースターの扉を開けて、少し考えてから、あ、と口を開いた。

「玄関に荷物が届いているの。お店の方に運んでおいて頂ける?」

「朝飯前です」

「まあ、お上手」

 恵大は冗談のつもりではなかったので、雅乃に拍手をされて、気恥ずかしさでダイニングを飛び出した。

 階段の前で廊下は左に折れて、正面と左側に扉が現れる。正面は木製の玄関扉、左側はガラス窓に二重の十字格子をめ込んだ黒い扉だ。雅乃が言う荷物とは、壁際に積み上がった段ボール箱の事だろう。

 恵大は左の扉を開けてドアストッパーを嵌め、動線を確保した。

 途端に強くなる甘い香り。

 恵大が猫でなくて幸運だったと思うのはこの為である。

 段ボール箱を運び入れる先は小さな店だ。前面が弧を描くガラスのケースには金色のトレイが並び、様々な形のボンボンショコラが陳列されている。店に灯りがともれば宝石然とキラキラ輝くに違いない。

 丸テーブルの上に置かれた空のかごは、開店前にはブラウニーやフォンダン・ショコラでいっぱいになる。ちなみに恵大のお勧めはチョコナッツマフィンだ。チョコレートのチヤンクと複数の種類のナッツがふんだんに使われていて、少し粗目の生地とのごたえの調和が楽しい。

 猫にはチョコレートが毒だと言う。

 もし恵大が猫だったら、この家に住めないところだった。

「幸運も探偵に欠かせない重要な要素だな」

 あとは、冒険たんにもなり得るような華々しい依頼が舞い込めばかんぺきなのだが。

 恵大は段ボール箱を残らずガラスケースの陰に積み終えて、じっくりひじを伸ばしてから、息を吐いてダイニングに戻った。

「終わりました」

「ありがとう。ちょうどパンが焼けますよ」

 雅乃が食パンを移した磁器の皿をテーブルに置く。

 こんがり焼けた耳は狐色、チョコレートの表面は天鵞絨ビロードの様に深く滑らかに光り、縁が溶けてじゅわじゅわと泡立つ。カカオの香りはより濃厚だ。

 雅乃が小さなこなふるいで粉砂糖を降らせる。

 ランチョンマットの上には目玉焼きとベーコン、生野菜が待ち構えていた。

「はい、牛乳。どうぞ召し上がれ」

「頂きます」

 恵大は雅乃の対面に腰を下ろし、両手を合わせてお辞儀をした。

 静かなダイニングで湯が沸く音が心地い。カトラリーの音も耳に障るに及ばず、真夜中の静寂とは打って変わって朝の空気は全てを穏やかに感じさせる。日中は通りを走る車に人の声、工事の音と、けんそうが店を街の一部に取り込むが、今この部屋はまだ世界とつながらないまま。早朝はまさに静と動のはざだ。

「探偵さんは今日もお出かけ?」

 雅乃が玉子の白身とベーコンを切ってフォークで刺す。

 恵大ののどにパンの欠片かけらが触れてせた。

「ええ、まあ。たまたま、本当に偶々、飼い猫捜しの依頼が何件か重なってるんです。普段はそんな事はないんですけどね、全く」

「御家族がいなくなって、さぞ胸を痛めていらっしゃるでしょう」

 雅乃が悲しげにはくひそめるので、恵大は喉のつかえをせきばらいでなした。

 一時の見栄より、依頼の大小を語る方が探偵として恥ずべき行為だ。

 難解な謎や凶悪犯人に立ち向かうだけが本分ではない。依頼人の為に全力を尽くし、あらゆる事件を華麗に解決してみせるのがあるべき探偵の姿である。──往年の名探偵達へのあこがれは消せないが。

「必ず見付けますとも。特に黒猫は目立ちますから、人の記憶にも残り易い」

「黒猫?」

もちろん、黒猫以外も捜しますよ。最新の依頼を思い出してつい」

 恵大が慌てて付け加えると、雅乃が微笑んで椅子を引いた。彼女は戸棚からティーポットを下ろし、茶葉のふたを開ける。

ばし大学の辺りを通る事があったら、知り合いを訪ねてみてもらえないかしら」

「雅乃さんのお知り合い……教授の方ですか?」

 戸棚を閉める音が若干大きく鳴って、雅乃が肩をすくめる。手が滑ったようだ。彼女は両手をぱっと開いてはにかみ笑いをすると、ポットに熱湯を注いだ。

「以前、店先で黒いねこを拾った事があるの。うちでは飼えないから知り合いに引き取ってもらったのだけれど、お話を聞いてどうしているか気になって」

「成程」

「様子を見てきて頂くという依頼をお願い出来ますか? 依頼料と達成報酬も御規定通りに請求してください」

「いやいや」

 恵大は頰張ったトマトをしやくの途中で飲み下した。

「お世話になってる分、手伝いをすると最初に言い出したのは僕の方です。お知り合いと猫に会うくらい朝飯ならぬ昼食前ですよ」

「申し訳ないわ」

「それに好奇心おうせいな学生達の目撃証言にも期待出来ます。一石二鳥です」

 チョコレートパンに牛乳がよく合う。

「お紅茶は?」

「もう行きます。美味おいしかったです」

 恵大は食器を重ねて食洗機の前に運ぶと、雅乃の前で紳士的に敬礼した。

そうさまでした」

「はい。行ってらっしゃい」

 れたての紅茶がさわやかな湯気を上らせた。


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