シティ・グロリアは雨模様

風見カオル

第1話

 シティ・グロリアは階層都市だ。1層から100層までで構成されており、番号と治安は概ね反比例の関係にある。最新型のスマートシティとスラムが隣り合わせの世にも珍しい、住人付属型のテーマパークだ。


 その日の授業は、我らが偉大なるシティ・グロリアの理念と沿革についての授業だった。つまり、お為ごかしとプロパガンダを受け入れるための四十五分だ。思わず欠伸が出そうだが、欠伸などをすると、ただでさえ悪い教師からの覚えが最悪になる。

 四十五分の格闘の末、退屈な授業に勝利した僕は、迷わず教室を後にした。そして、母親には授業が長引いたから遅れる、と連絡をした。母に嘘をついてでも行きたい場所があったのだ。


 いつもの道を通って、大階段まで出る。そこから階段を下へ、下へと降りて、掠れかけた矢印に沿って迷宮を抜けた先に、その横丁はあった。噂通り、ボロボロの横丁の軒先には何が何だかわからないが如何わしそうな謳い文句が踊り、これまた如何わしい客引きが屯している。正直なことを言うと、ここに来たのは怖いもの見たさ故だ。21層には如何わしい店が軒を並べており、内側には非合法の店もある、という噂だった。

 隣のカップルがさっきからうるさい。見ると、男の方が裏路地に入りたがっているらしい。馬鹿だな、としか思えなかった。裏側へ踏み込んだ先に人を護る為の法など存在しない。結局、押し切るような形で少女の手を引いて、少年は裏路地へ消えていった。

 少しして、耳をつんざくような少年の悲鳴が辺りに響いた。あーあ、やっぱり。誰も助けに行く様子はない。どうやらここの日常はそういうものらしい。少年と思しき声が何事かを泣き叫んでいる。叫び声の切れ間からは少女らしき足音と、荒々しい靴音が聞こえた。足音は裏路地の奥へと向かっているようだった。可哀想に、裏路地の向こうに彼女を慰めるものは何もないだろう。慰みものが慰められることはない。

 かぶりを振って、階段を上がろうと、一歩踏み出す。踊り場の向こう側では、雨粒の薄いカーテン越しに、ネオンが輝いている。その下で何が起こっていようと、シティ・グロリアは何事もないかのように眩い光を放つ。ゴミだめとショーウィンドウを無理やり繋いで、なんとか形を保っている。ここはそういう街なのだ。

 そろそろ帰らないと、などと思っていると、軽快な時報が耳に飛び込んできた。五時だ、街頭ホログラムを確認しなければ。見上げた空には相変わらず鉛色の雲が垂れ込め、地上の眩さを引き立てている。報道によると天気は今日も、雨のち豪雨らしい。傘をお忘れなく、とホログラムの若い女が微笑んでいる。冗談じゃない、この雨じゃ傘なんて役に立ちっこないだろうに。舌打ちを一つ、聞こえないようにする。  

 一ヶ月ほど前からずっとこうなのだ。初めの頃は皆慌てていたが、一週間ほど経った頃から当局が「安全性」を唱えだして、一ヶ月経った今では天気の話をするのは学者だけだと相場が決まりつつある。

 雨は嫌いだ。ぐずついた空は泣いている女みたいで鬱陶しいことこの上ないし、雨が降ると空気が嫌に生ぐさくなるからどうにも好きになれない。けれども、この雨は、少しだけ、好きになる余地があるかもしれない。なんだか、空は泣いてなどいないような気がしたからだ。

 それにしてもすごい雨だ。少々の雨では都市機能は破壊されない、というのが当局の見解だったし、実際、今のところは街の日常はつつがなく回っている。けれど、いつまでこの街は保つのだろう? いつか排水が追いつかなくなって、この街は水底に沈んでしまうのだろうか?  

 僕は、とふと考える。街ごと水底に沈んでしまったなら、この街を愛せるのだろうか? 答えはイエス、なのかもしれない。人の代わりに魚が住んだなら、この街は今よりずっと綺麗になることだろう。


 事情が変わりだしたのは、雨が降りだしてから一月半くらい経ったあたりからのことだっただろうか。まずおかしくなったのは貯水システムだった。貯水槽の水が、いくら使ってもなくならなくなったのだ。初めは皆、諸手を挙げて歓迎していた。けれど、次第にそうも言っていられなくなった。とうとう貯水槽から水が溢れ出したのだ。この時点で、低層階は見捨てられた。そして、上の住人は皆、大挙して押しかけてくる下の住人達と、ひたひたと上がってくる水への対応を迫られることになった。

 対策は、シンプルだった。下の住人を使って水を汲み出す。それだけだった。55層にあった僕の家も例外ではなく、僕と弟の教育資金は、水位の維持代に化けていった。それでも、表面上の平穏は保たれていた。今まで通り、水面下で何が起こっていようと、シティ・グロリアは輝くことにしたわけだ。


 その日の授業が余りに退屈で、貯水槽が壊れる前のように、僕は例の通りで暇を潰していた。例の通りに居たことが教師にバレた場合、反省文では済まないだろう。もっとも、もう今はそれどころじゃないのだけれど。

 20層から下の階段は水没していて、辺りには誰もいなかった。当たり前だ、じき沈む場所に来るなどという馬鹿をやる者は既に水没してあの世にいる、と相場が決まっている。何をしたかったわけじゃない。ただ、もしかすると僕はあの日、何かを待っていた、のかもしれない。


 辺りを彷徨っては棄てられた商品達を漁るのにも飽きてきた頃、それは唐突に現れた。カツン、という足音がして振り向くと、そこには黒い髪の少女が立っていた。彼女は僕の目を見て、それから、にこりと笑った。彼女の目の中には蒼い、ただ蒼い海が広がっていた。ああ、そうか、彼女の目からこの雨が降っているのだ、とその時確信した。理由はわからない。

 それから、少女は僕に、止めますか、止めませんか、と尋ねた。僕は迷わず後者を選んだ。


 それからというもの、僕の心にも止まない雨が降っている。雨粒が音を立てて僕を糾弾し、絶え間なく僕を責め苛んでいる。弾劾の雨から己を守る傘など持っていないから、僕は雨をまともに喰らうしかない。多分、これは僕への罰なんだろう。間接的に、とはいえ、沢山の人を殺すこの手が、血塗れにならないはずがない。


 なぜ、僕は雨を止めなかったのだろう。神にでもなってこの街を裁いたつもりだったのか? この街の一部に過ぎない癖に。

 理由などわかっている。誰かに裁いてほしかったのだ、この浅ましい己自身を。けれどもこの街が嫌いだった。それも本当だった。だってこの街と僕はそっくりだったのだから。


 雨は止まない。この街がすっかり沈んで、僕の息が止まっても、きっと止むことはないだろう。

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