episode 2. 大洗 (4/7)

時間が早すぎたため、海辺に並んでいる店はまだどこも営業を開始していない。 赤見はその点を指摘し、気絶した春人を一旦車の中に移すのはどうかと提案した。まともな室内ではなく、自動車の内部だとしても、海風が激しく吹きつける外よりは、とにかくましではないかという話だった。


しかし、意外にも日光は赤見の意見に賛成しなかった。


「お嬢さんをお世話しているわけでもないのに、何をそこまでするんですか。 こいつ、意外とメンタルが弱くて、たまにこうやって衝撃を受けて倒れるんですよ。 頬を叩いたらしっかりするから、春人が目を覚ましたら先輩がすぐ催眠術をかけてくれます」


無情にさえ聞こえる淡々とした言葉に、赤見は少し当惑した。


「友達··· じゃないか? かなり近そうだけど」

「は?」


春人の横にしゃがんでいた日光が、首を横に傾けて赤見を見上げ、突然笑い出した。


「さっき車の中で何を聞いたんですか? 俺、そんなのないんだって。 まあ、俺の知り合いの中で春人が一番古い間柄ではありますね。 でも、ただお互いの利益のために一緒にしただけ。 多分春人もそう思うでしょう。 先輩、訳もなく嘲笑される前に、春人にそんなこと言わないでください、わかりますか?」


赤見は目を細めた。 陰で盗み聞きした会話と、二人から漂う雰囲気は同業者ほどの乾いた感じではなかったが…。 勘違いだったのか?確かに、赤見が何を知っているか? 友人と呼ぶほどの関係がないのは赤見も同じだった。


「ところで、催眠術をかけろって?」

「はい、東京に帰さないと。 今の状況を説明するのも難しいじゃないですか?何と言いましょうか? 死ぬ前に最後に遊びに来たって? 春人が理解してくれると思いますか?こいつ、疑い深いし、自分の頭で全部納得しないと気が済まないタイプなんです。今会うには一番頭の痛いやつですよ」

「ふむ···」


赤見はズボンのポケットの中に差し込んだ手を軽くたたいて、太ももをとんとんと叩いた。今日が本当に日光の最後の日なら、初対面の自分と過ごすより、やっぱり知人と過ごした方がいいんじゃない?日光は今、催眠にかかっているので、判断力を失った状態に他ならない。 正常なコンディションの日光だったら、自分よりは当然この気絶した男の方を選んでいただろう。···赤見としては群がるのが不便だろうけど。


「断わる。おれはこいつに催眠をかけない」

「はあ?!ではどうするつもりですか?」

「今日一日、三人で通う。 もちろん、適当な時点になれば、こいつを送り返すだろう。 多分夕方ごろ。 あ、ちょうど店が一つオープンしているね。 明かりがついた」


日光が食べ終わったポテトチップスの袋のようにしわくちゃになった眉間をしてぱっと立ち上がった。


「俺は先輩と二人で一日を過ごしたかったんです! 招かれざる客は嫌いです! これは約束と違うじゃないですか!“

「そもそも約束というものはない。 お前の頼みを私がある程度許しただけ」

「何、そんな···! ふざけるな! わがままなのも程がありますよ、先輩」


歯ぎしりしながらうなる日光を赤見は無心に見上げた。 頭が高い。


「ひざまずけ」


日光はすぐに続くかもしれない自動的な動きにびくっと緊張したが、赤見の命令からはいかなる強制的な催眠術も感じられなかった。


「ひざまずけと言ったはずなのに」


やがて赤見の意図を理解した日光は、湿った砂の上に自らひざまずいた。 赤見を見上げる日光の目には恨みが溢れた。


「表情もほぐせ」


日光の顔はさらにしかめっ面をしている。


「お前の身分は把握できたか? もっと教育してあげたいけど、そろそろ観光客が集まり始めるね。 お前みたいなヤクザの顔がこうしていると、確かに注目を集めるだろう。 起きて」


起きろという最後の言葉には強制性があった。 あっという間に足を伸ばしてまっすぐ立つようになった日光は、よくもすぐにバランスを取って、膝にくっついた砂の粒と砕けた貝殻を払いのけながらぶつぶつ言った。


「先輩、本当にずるいですね」

「あえてこの私にわがままにはい上がった奴が悪いのだ」


赤見がにっこりと微笑んで日光の額に指を弾いた。 両手で額を包んだまま一歩後ろに退いた日光は、少し戸惑ったが、すぐににニヤリと笑いながら赤見にくっついた。


「あのさ、あれ知ってますか? 先輩が笑ったら、ちょっと俺の好みだよ」


今度は赤見の眉間がくしゃくしゃになった。


*


大洗サンビーチにすぐ接しているファミリーレストランでは、3人の男性がそれぞれの不満を胸いっぱいに抱いたまま、3人用の円形テーブルに向かい合って座っていた。気がついた春人は、全身についた砂をはたいてくると嫌がってトイレに入った後、その間にレンズを着用したのか、胸元についたシャツのポケットに眼鏡を入れてきれいな素顔で帰ってきた。


春人は自分の分で出されたブラックコーヒーには視線も与えず、冷気がにじみ出る美声で赤見に刺すように質問を飛ばした。


「赤見さんですって?」

「そ、そうです。そしてそちらは黒崎さん···」

「それはどうでもいいです。 情報屋でかなり長く働いていたそうですが、同じ業界の私としては全く聞いたことがないのですね?」

「あ、それは、それは、だから···」


見るに見かねた日光が差し掛かった。


「赤見先輩は、君とは分野が違う。 先輩は清掃業は任せないから、君が知らないのも当然じゃないか。 俺が先輩の下で働くことになれば、清掃業者から引退しなければならないのも同じ理由だ」


周辺には数組のカップルや家族が別のテーブルを埋めていたので、日光は殺人請負依頼という直接的な言葉の代わりに清掃業という隠語を使った。


「情報屋をしながら清掃業に関する情報を全く扱わないのであれば··· 申し訳ありませんが、正直に言います、一般人の不倫写真でも撮っていらっしゃると思いますが? 都合があまりよくはないでしょう? 赤見さんにスタッフを置いてもらえるだけの金銭的な余裕はありますか? それもマーくんをですね」


妙にマーくんという呼称を強調する言い方だった。赤見は日光をちらっと見た。日光は困ったようにも見える曖昧な笑みを浮かべていたが、赤見としてはそれがどういう意味なのか見当がつかなかった。


「お金ならたくさんあるのに」


その言葉を最後にテーブルがぎごちなく静かになった。 アカミとしては特に言うことがなくて口をつぐんだだけだったが、催眠術を使わずに交わす対話には生半可な自分がただでさえ良くもなかった雰囲気をさらに台無しにしたのかと思った。 何か違うことを言うべきか悩んでいた赤見がいくつかの言葉を付け加えた。


「だから、日光にはもちろん、今よりもっといい待遇をしてくれるはずです。 だから、だから、安心しても···」


しかし、それを聞いて、春人は突然テーブルを叩きながら怒りを爆発させた。


「今よりもっと良い待遇というのは不可能だと!マーくんはもう業界最高の実力者だ! キャリアの頂点に立っているところだし! ところが今あなたはそんなマーくんをたかが低級情報ばかり集めるのに浪費させようとしているじゃないか! そんなことは納得できない! マーくん、君は本当にこれでいい?! 君の名声は?! 実力は?!」


赤見がまばたきしている間、日光が短い前髪を掻いた。


「これはきまり悪いな。ああ、俺が掃除なら、ものすごく上手なんですよ。 このように両側でヘッドハンティングしようと大騒ぎしているだけだから、こちらは気にせずに良い時間を過ごしてください」


日光が周辺テーブルの興味深いという視線に向かって、笑いを漏らして言い繕った。それからすぐ荒々しい表情で帰ってきた日光は、さっきより少し小さい声で春人に向かってカチカチと音を立てた。


「いい加減にしろ、春人。俺の決定に君が何と口を挟むんだ? そして俺は今、君とこういう時間がない。 赤見先輩と海での特別な時間を楽しむべきだと」

「何···? なになに、どういうことだ···? そんな、君らしくないことを···!」

「大体の話を全部聞いたら、もう帰って。 邪魔するな」


赤見は春人が青くなった顔で唇だけがゆらゆら震える姿を眺めながら、自分が誤った判断を下したと認めることにした。


「黒崎さん、ちょっと私を見て」


春人が思わず赤見を見つめるやいなや、赤見の目が赤く染まった。


「今日の記憶はすべて忘れて自分の家に帰れ」


春人は従順に席を立ち、ファミリーレストランの駐車場に駐車しておいた自分のベンツに向かって歩いた。 ベンツが無事に道路に抜けるのを窓から見守りながら、日光が椅子の背もたれに背中をもたせ、長い腕を伸ばして伸びをした。


「だから最初から催眠をかけていればよかったじゃないですか」

「私なりの考えがあった。 今となっては意味がなくなってしまったが···」

「どういうつもりだったんですか」


赤見は答える代わりにアイスティーをすすった。 その姿をむっつりと眺めていた日光は、ため息をつきながら再び窓の方に首を回していたら、ガラスに映った隣の席のカップルと目が合った。


カップルは驚いた様子もなく、じっと視線をそらした。 カップルの中で男の血走った瞳がレストランの2階の席をちらりと見た。馬鹿か、あんな部分が水準未達だということだ。 ディテールが落ちる。 俺だったら、他人の私生活に過度な関心を示したことがばれて、恥ずかしそうにぎこちない笑みを浮かべただろうと。 やはり愚かなことは、この業界では罪のようなものだ。


日光がブラックコーヒーを口元に近づけながら、コップで唇を覆って赤見にささやいた。


「先輩、走りはどれくらい上手ですか? 1から10まで」

「はあ?」

「声が大きいです。 小さく答えてください。」

「えぇ、5··· ぐらい?いや、4ぐらいかな。 あまり自信はないんだけど」

「ふむ、そうですか···。まあ、かまわないのか」

「なんで急にそんなこと聞くんだ?」


日光はコーヒーを一口飲んだ。 最初に出た時よりは当然冷めたが、まだ舌がひりひりするほどデールだけは熱い。 ちょうどいい。


日光がさっき視線が合ったカップルにコーヒーを激しく撒き散らし、空のコップは2階で待機していた男に向かって投げつけた。 コップは恐ろしいスピードで飛び、男の鼻に正確に当たった。 状況をワンテンポ遅れて認識した一般客が一歩遅れて悲鳴を上げた。 日光は自分が攻撃したターゲットが倒れることも確認せず、すぐに振り向いて赤見を肩に担いでレストランを飛び出した。


「日光···!」

「ちょっと許してください、先輩。 不本意ですが、春人がお客さんを連れてきたようです」

「お客さんだって?」

「春人のやつ、渋谷最高の情報屋だと自慢するのに、たまにこんなにお粗末なところがあって」


日光はレストランの建物に沿って後ろに戻り、赤見を降ろし、壁に取り付けられたエアコンディショナーの室外機に背を向けて立った。 ビーチの方には行けない。 もし狙撃手がいるなら、広く開けている空間は専用の猟場と変わらない。 今では十分に混ざり合うほどの人波が集まったが、日本の男子平均よりはるかに高い背に、休暇先でスーツを着て赤見まで巻きつけた自分は目につきすぎた。


日光は赤身からジャケットを乱暴にはぎ取った。 シャツ姿になった赤見があきれた顔をした。 そうであろうとなかろうと、日光は赤見のジャケットを床に放り投げた。


「先輩のことは、春 人も知らなかったから、やつらが狙っているのは、一応、俺だけ。 俺が引退するというから、弱くなったと勘違いしたのか、その前に処理して自分たちの身代金を少し高めようという考えのようだが」

「あいつらって誰だ? お客さんって誰?」

「他の殺し屋たちです」


日光の固い両手が驚いて固まってしまった赤見の肩を強い力でつかんで引き寄せた。 二人の鼻がほぼ触れ合いそうな距離で、日光が赤見と目を合わせた。


「先輩。今、俺に新たに催眠術をかけてあげてください。 俺が今からできるだけ長く先輩を尊敬できるように」

「···」


赤見の目が赤くなってから沈んだ。 日光はうめき声を上げながらゆっくりと目を閉じた。 赤見へのあこがれで胸の中がちくちく鳴って、あっという間に気分が浮き上がった。


「いいですよ、先輩。 もう、俺の言うことをよく聞かなければなりません。 今から会う人ごとに催眠をかけながら駐車場まで行きます。 必ず会う人ごとに歩かなければなりません。 誰が敵なのか先輩は見分けることができません。 俺たちが乗ってきた俺の車はすでにばれたと見なければなりません。 ビーチがオープンしたばかりなので、今ちょうど到着して駐車中の人が必ずいるはずです。 適当な人に催眠をかけて車を奪って乗ってください。 そして無事に車に乗ったら、先輩は家に帰ればいいんです」


赤見は日光の真剣な目を見ながら聞くしかなかった。


「じゃあ、お前は?」


日光が顔を少し後ろに向け、にやりと笑った。


「明日、先輩が俺 を放してくれた渋谷のあのスタバでまた会いましょう。 時間は断言できませんが、必ず明日中には行きます」


赤見はうなずいた。 赤見としてもこれといった方法が思いつかなかった。 戦闘が起これば、赤見は今のように日光に重荷になるに違いない。 日光が赤見の肩をつかんだまま、くるりと回して背中を押した。 強い力で赤見は危うくそのまま前に倒れるところだった。


「うっ、日光!」

「行ってください、先輩。 明日会いましょう」


赤見は何度か振り返った。 日光はその度に笑顔で手を振ってくれた。 日光が立っている席からは見えない方に赤見が消えると、日光はようやく手を下ろして腰を伸ばして前髪をかき上げた。


「はああ、くそ···」


日光はジャケットの内側から小さなプラスチックや金属の部品を取り出し,組み立て,1丁のピストルを製造した。拳銃のモデルはパズルのようにはめ込むだけで組み立てが機能するように改造したグロック18。反動が激しく正確度が落ちる方なので、銃器愛好家の間では反応が交錯する方だったが、集中力と筋力が優秀な日光にそのような短所はあまり問題にならなかった。日光にとってピストルというのは毎分発射速度が高く、気持ちよく連射さえできればどうでもよかった。


弾倉をはめた拳銃を手にした日光は、最後に銃列に消音器を装着しながら、さっきから建物のコーナー越しでうろうろしていた奴に声をかけた。


「ごめん、ごめん、ねずみ小僧のように隠れている姿を見ると、よく打ってくれても工具くらいしか持っていないようだが、俺がいきなり銃を取り出してしまって、ちょっと驚いただろうね。 でも、その気持ちまで優しく推し量るには、今ちょっと怒っている状態だからね。 いいことを言う時に出てきてくれ」


コーナー越しの男もその言葉を聞いて、状況を察したかったのか、少し頭をもたげた。 言うまでもなく軽率な手落ちだ。 日光は男が意識する前に発砲して男の眉間を突き破ってしまった。 怒りが解けていない日光は、すでに倒れた男のところに歩いて行き、頭を足で蹴飛ばした。 男の頭に生えた9ミリの狭い穴から赤い血が流れ出てアスファルトの床を汚す。


「これらはここで処理しなければならないな。そうしてこそ先輩と俺の将来が明るいだろう」


さあ、掃除の時間だ、この廃棄物たちよ。

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