episode 1. 渋谷 (3/3)
「にっ…」
日光は右足を上げて赤見の口を殴った。身慣れたようにすっきりとした素早い動きだった。激しい苦痛に悲鳴さえあげられず、身悶えする赤見を日光は冷淡な目で見下ろした。
「どうしたかは分からないが、俺のことでよく遊んでたな。おかげで久しぶりに退屈しない時間を過ごしたよ。正直俺は退屈なよりはクソなことでも起こる方がましだという主義だったんだが、やられてみたら別にそうでもないんだ。だからちゃんと聞くんだ、赤見彰。貴様の正体がなんなのかなぜ俺を狙ったのか聞きたいのが山ほどあるけどさ、俺はね…」
日光が片手で赤見の気ままに伸びた後ろ髪をつかみ、自分の目の前に引き寄せた。日光は不謹慎に赤見の目をにらんだ。当然のことながら、赤見の瞳が真っ赤に沸き上がった。
「赤見先輩!」
日光が慌てて赤見を抱き上げた。やっと頭が胸より上になった赤見がくよくよとうめき声を上げた。頭がくるくる回って、口の中では生臭い血の味がして胸がむかむかした。赤見が息を整えている間、日光は赤見の体に巻かれていたロープをほどき、天井から彼を引きずり下ろした。赤見は床に足が着くや否や、そのまま大の字に体を伸びてしまった。倉庫の床では死体のにおいであることが明らかな悪臭がしたが、今の赤見にそんなことを気にする余力は残っていなかった。
「私に何をしたんだ、日光…」
「本当にごめんなさい! 俺たちが行ったカフェの裏で潜伏していて、先輩が出てくるやいなや後ろを狙ってここに連れてきたんですが、それでも怒りが解けず気絶した先輩を死なない程度に殴って吊るしておきました」
そんなに素直に全部答えろという意味ではなかったけど。とにかく状況把握に役立った。赤見はまだズキズキする口元を撫でながら、そばにひざまずいて赤見の状態を探るのに余念がない日光に再び尋ねた。
「何て言おうとした?」
「え?何がですか?」
「今だ。 聞きたいのが山ほどあるけどさ、俺はね、次に何と言おうとした」
「ああ」
日光が理解したようにうなずいた。
「貴様には何も聞かないぞ。 貴様がまたその吐き気するような舌でいたずらをさせておかないでそのまま殺してやると言おうとしたんです」
「はぁ…」
だから口を蹴ったんだ。 日光は、赤見が言葉で自分を操ったと思ったのだ。実はそんなに悪くない推理だった。赤見が日光の立場だったとしてもそう思っただろう。
「まず、私を起こして… いや、ちょっとこのままでいて。 全身がうずく。 今は何時で、ここはどこだ?」
「先輩が気絶して一日が過ぎました。 今は午後3時になって··· 」
日光がしばらくためらった。 この場所について説明するのは困難なようだった。どうせすぐ話すことになるので、赤見はあえて催促せずに待っていた。赤見の予想通り、日光はすぐに口を再び開いた。
「ここは俺の隠れ家であり作業場です」
日光はどんな種類の作業場なのかというバカな質問はしないことにした。
「どの辺? 渋谷にあるか?」
「…はい」
短いしためらい返事。よほども教えたくないらしい。どうせこんな体では今すぐ身動きができない。日光に自分を持ち上げて移すよう命令するしかないし、赤見までここの正確な座標上の位置とかは知る必要がないので、これはそのままほうっておくことにした。もっと重要な質問は別にあったから。
「お前は一体何だ」
「日光じゃないですか、先輩。 先輩の元職場の後輩。 もしかして 俺がさっき顔を蹴って脳に何かけがでもしたのは?!」
「やっぱり催眠にかかる前のことを覚えているじゃないか」
赤見はため息をついた。何かがひどく間違った。忘れろと命令したのに、催眠状態の記憶も催眠が解けた後の記憶もすべて残っているなんて。
「もし何か間違ってるんですか? それとも先輩を殺そうとして、俺がもっと怖くなったとか? 俺が謝っても、また昨日のように許してくれず俺を捨てるんですか?」
日光が少し不安そうな作り笑いを浮かべながらひざまずいた膝の上に置いた両拳をさらに強く握った。 今見るとあれが日光が緊張する時の癖のようだった。赤見は青い血筋がぴんと突き出た日光の手の甲をぼんやりと眺めながらつぶやいた。
「お前は、お前が私の催眠にかかって私を尊敬する事を知っている。お前が実は私の後輩ではないという事も知っている。 私がそのように命令したことを覚えているから」
「先輩の言う通りです。 俺は全部知っています」
赤見は目の前が遠くなった。胸が重苦し。殴られたからだろ。そうはずだ。
「それでも、お前は、なんともないのか?」
日光の血筋が規則的に脈動するのを見て、赤見は改めて日光が生きている人というものを気づいた。日光は生きている。 この男は人間だ。体と、もしかしたら魂を持っている。 赤見の人形じゃない。
「何ともないわけないでしょう」
やっぱりそうだろう? 赤見は抑えた息を吐いた。今胸の中で渦巻いている何かが良い方のものか悪い方のものか分からないほど赤見は混乱していた。しかし、日光の低く柔らかい声は、赤見の予想とは全く違う方向につながった。
「俺は今、先輩の催眠術のせいで先輩を尊敬し、誇らしくて耐えられません。 先輩が俺に何をしても大丈夫。 先輩が俺に後輩になれと言ったら俺は先輩の後輩になり、他のことを命令するならそれに従う」
血筋が立った大きくて威嚇的な拳がそっと広がり、長い指がまるで卵を握るような微弱な力で赤見の腕を握ってきた。
「だから先輩、お願い」
力が少し加わる。
「捨てないで」
赤見が手を上げて日光の頬の上を通る水気をふいてあげた。ただそうしなければならない気がした。めまいがする。赤見はそのまま目を閉じてしまった。
*
赤見が再び目を覚めた。ここはまたどこだ。首の後ろに感じられる枕がいて、天井には家庭用などがついているのを見ると、少なくとも日光の作業場ではないのは確かだった。あえてズキズキとした頭を使ってみれば、日光が赤見自身を移したはずだから、おそらくここは日光の家だと判断した方が正解に近いだろう。
赤見がよろめきながらベッドから起き上がり、部屋を出た。居間は電気が消えた部屋とは違って明るく、おいしそうな食べ物の匂いがした。居間とくっついている台所で長身の男が半袖テシャツに膝まで来るハーフ・パンツを着てフライパンに油を引いていた。台所と居間の間のアイルランドのテーブルには、国籍が多様に見える料理がぎっしりと並べられていた。 日光の頭がひょっこりと回った。
「起きたんですよね? すぐ夕食の時間だから起こそうとしたが、よかった。 何が好きなのか分からないからあれこれしているんですけど。今でも言ってくれば作れますよ。こう見えても料理に自信あるから」
「…多すぎる。 そして調子悪いから食べない」
「ええ、じゃあこれ全部どうするんですか」
「知らないよ。勝手にしろ」
あれこれ指摘したいことはたくさんあったが、赤見は一応思い浮かぶままに言った。
「ここは?自宅?」
「買ったのではなくレンタルです」
「それを聞いたのでは… はぁ、とにかく。 立派だね」
「まあ、危険手当が高い職業ですから。 分かると思いますが」
「…あ、そう」
返事するのも面倒くさい。赤見は、ぱっと見ても高級そうなソファーに行き倒れそうに座り込んだ。立派だと言っても、金持ちを相手に脅して金を巻き上げるのが仕事である赤見本人の家よりは素朴な方だった。
料理道具を適当に整理した日光は、鋭くつり上げていた目尻が折れるほどにこやかに笑いながら、赤見が座った長いソファの横の一人用ソファにどっかりと座った。
「ぽろぽろ泣いていたくせに今はよく笑うね」
別にからかおうとして言い出したわけではないのに、日光は一気に耳が真っ赤になって眉をつり上げた。
「うっ、それは、先輩が俺を怖がるんじゃないかと…! 」
「で、その悩みはやめろとしたのか 」
「先輩が… 優しくしてくれたから、違うかもしれないという可能性ができたことでしょう」
ぶつぶつ言う姿が少し子供のようでもあった。そういえば十歳も若いやつだね、こいつ。しかし、だからといって殺人請負業者を侮ると困る。赤見は日光に水を持ってくるよう命じた。日光はすぐに立ち上がり、台所の冷蔵庫から水を取り出した。赤見は水を少し飲んで、手に持った冷たいボトルを頬に向かってそっとずつ転がした。
「催眠は効いているようだが、記憶を消せないからどうしようもない」
日光がきれいな歯並びを見せながらにっこりと笑って, 赤見は日光に拳で自らの顔を打つよう命令した。
「ひどいじゃないですか、先輩。 こんなかっこ悪いことするんですか“
「やらせることは全部やるんだって?“
「もちろんそうします」
日光は少し悔しそうに答えた。
「でも催眠をとけた瞬間、お前は私を殺そうとするだろう」
「それもそうです」
日光は意外と真剣に同意した。 日光は腕を組んで赤見の前の低いテーブルに座り、赤見と向き合った。
「必ず殺します。 俺は殺すと決めた後は途中で心を変えたことは一度もないし。そして、その作業場。誰もそこを知りません。 俺が知らせたくないですから。でも俺は先輩の目も隠しませんでした。 理由は分かるんでしょう。加えて前もって言いますが、海外に出たらそれでいいという考えはしないでください。俺は先輩の本名も、顔も身体条件も分かるし、現在の位置も分かるから先輩が今から逃げるとしても24時間以内に見つける自信があります」
赤見が沈黙していると、日光は手の甲であごをこすりながら眉をひそめた。日光の整った顔に真剣さが加わると、深刻な状況にふさわしくなく、赤見は「こいつ、本当に見た目はいいかも」という愚かな思いがした。
「先輩のこの催眠術。 どのくらい通じますか? 期間的に。 発動条件は? 全部言ってください」
日光の目が機敏に輝いた。 なぜ赤見はこんな男を単なる暴力団だと誤解しただろう? こいつは知力でも自分より優位にあるかもしれない。 赤見はそんな予感がした。
「…私がどうしてそれを言わなきゃならない?」
「ええ、そんなに警戒しないでください。 傷つきますよ? 完全に先輩の味方である今の俺に情報を隠しても、先輩がくれた情報と俺が知ってる情報を組み合わせて俺が先輩を助ける道を阻むだけです。 先輩もバカじゃないなら分かるでしょう」
説得力のある提案だった。 あるいは、赤見が疲れすぎたせいかもしれない。 とにかく、赤見は完全に自分の味方であることが明らかな今の日光に正直であることにした。
「催眠がよく効いたと仮定した場合、平均的に期限は3日。 条件は目と目が合わなければならない。 それ以外の条件は実はない。 話すことは自分でよく意識するためで、考えるだけで操縦は可能だ」
ぞっとするかもしれない発言なのに、日光の表情は少しも変わっていなかった。むしろより一層考え込む顔がなんとなく平和に見えると赤見は思った。 変な考えではあったが。
「それでは先輩は俺を三日、いや、安全のためなら二日に一度ずつ会って催眠をかけ続けなければなりませんね」
「そういうわけだ…」
赤見もそれが今のところ、自分が生存できる唯一の方法だという結論に至っていた。 残り一生の間、このキラーと付き合い続けるしかない。赤見は黙ってソファに垂れ下がって天井を見上げた。 昨日のあの横断歩道に戻れるなら… 落ちたラテなんか何が重要だとこんなに命をかけるようになったのか?
「俺が死にましょうか」
赤見が日光を眺めた。
「俺が死んだら、先輩が生きられます。 殺す方法は俺が全部知っているから、先輩は俺に死ねと命令さえすればいいんです」
「お前… 死にたいのか?」
「いえ、でもできますよ。先輩にやれと言われたら」
日光は膝の上で拳を握っていなかった。 日光は気楽に話していた。赤見に自分を捨てるなと頼む時とは違って、深い目が確信に満ちていて、赤見に捨てられるより赤見のものとして捨てられる方が良いと言っていた。
赤見は日光の手のぬくもりと重さをまだ覚えた。 自らに催眠をかけ、それを消すことができればと思いながら、赤見は命令した。
「そうしろ。お前が死ね」
*
渋谷エピソード完
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