後編

  


「…まさか、お前が動画に出るなんて思わなかったわ」


 ザアァァァ…と強烈な横殴りの雨音が響き渡る、学生ラウンジの一番端。

 真っ赤な椅子に腰を掛け、四人用の白い丸テーブルに肘をついてスマートフォンを眺める後ろ姿に、黒のキャップを目深に被った翔が声をかける。


「ハチが何回も『出たら?』って言っても、頑なに出なかったくせに…」


 無言でちらりと向けられる視線を感じながら、翔は空いている隣の椅子に浅く腰を掛ける。

 今日は悪天候で休講になった為、いつも賑わっているラウンジには、誰もいない。バケツをひっくり返したような土砂降りの中、学校に来ている学生なんて、きっとこの二人だけだろう。

 窓の外は、黒の絵の具を水で薄めたような灰色だ。日中なのに、電気を点けていても暗く見える室内で、翔は黙ったままの幼馴染――日葵をじっと見つめる。その刺すような視線が鬱陶しくて、日葵は小さく溜め息を吐くと、スマートフォンに目線を落とした。


「……何であたしがここにいること知ってんの?」

「お前の母さんから聞いた」

「うわ、最悪…今日は一人になりたい気分だったのに…」


 こんな大雨の中、まさか人が――しかも、大切な幼馴染を傷つけた張本人が来るなんて。

 あの活動休止宣言から二週間が経ったけど、未だに腹の虫が収まらない。

 秋への謝罪はメッセージで送られてきた「勝手に決めてごめん」だけ。それ以外の謝罪も、弁明もなし。秋や日葵が送るメッセージを読まず、学校でも家の近所でも、二人に会わないようこそこそ行動している。そんな翔の態度に呆れて「もういいや。考えるのやめよ」と思うけど、毎日気丈に振る舞っては、ふと寂しそうな顔をする秋を見て、「やっぱりあいつ、絶対ぶん殴る…」と、怒りがふつふつ込み上げる。


 ――マジで許せない…一体どの面下げてやって来たんだ、こいつ。


 日葵はイライラしながら足を組みなおすと、2時間経っても未だ雨で湿っているジーンズを掌で撫でた。


「…で、こんな雨の中、何しに来たの?」


 不機嫌を隠さずに言う日葵の指先が、SNSのアイコンをタップする。顔も知らない誰かの呟きを、スワイプしながらただ眺める――そんな、興味を微塵も抱いていない切れ長の瞳を、翔はテーブルに肘をついて覗き込んだ。


「…この前、ハチがお前と一緒に撮って載せてた動画があるだろ。…お前が動画に出るなんて、ありえねぇから…何か企んでるんじゃないかと思って、聞きに来たんだよ」


 普段はヘラヘラしている円らな目が、真剣に日葵を見つめている。まるで、心中を見透かそうとしているような。至近距離で受ける不躾な圧迫感に、日葵は顔を顰めると、荒い動作でスマートフォンをタップした。


「は?企むって何?秋が『開設する個人チャンネルに出て』って言うから、一回だけならいいかなって思って出ただけなんだけど!」


 先日連れて行かれた、レンタルダンススタジオで。

 秋は「久しぶりに二人で踊ろう!」と、満面の笑みで提案してきた。最初はただ適当に、昔踊っていた曲をスマートフォンで流しながら、うろ覚えのダンスをしてははしゃいでいた。しかし、踊っているうちに熱が上がってきたのか、前からダンス動画を撮ってみたいと思っていたこと、どうせなら個人チャンネルを開設して、「5分でダンスを覚えて、どれくらい再現できるかやってみた」という企画を二人でやらないかと、秋に言われたのだ。

 本当は、顔を出すことにとても抵抗があった。自分のSNSアカウントですら、ほぼ見る専用になっているし。

 だけど、笑顔を作るのも辛いはずの秋が、一生懸命前を向こうとしている。傷ついた秋が、少しでも喜んでくれるのなら…そう思って、仕方なく二つ返事でOKした――これが、動画に出た経緯だ。

 それなのに、何故、何か企んでいると言われなきゃいけないのか。

 日葵は眉間に皺を寄せながら、画面を睨む。すると、翔は


「いや…お前がそんな理由で出ると思えない」


 と、はっきりと言い切って、首を振った。

 驚いた日葵の目が、数秒瞠る。そして、「はぁ~!?」と怒気の孕んだ声を出すと、翔を思いっきり睨みつけた。

 意味が分からない。「お前には悪意や裏がある」と、何故言い切れるのか。


 ――そもそも、こうなったのはあんたのせいじゃん!


 日葵はスマートフォンを置くと、苛立たし気に指先でテーブルを叩いた。


「あのさぁ!あたしが動画に出ることになったの、あんたのせいなの、分かってる!?あんたが勝手に活動休止を決めたせいで、秋が落ち込んでたから!秋に元気になってほしくて、恥ずかしいけど出たの!」

「……」

「それなのに、何っっで翔にそんな言い方されなきゃいけないわけ!?…あっ、てか、何!?もしかして、嫉妬してんの?自分がいなくても、秋の個人チャンネルが初投稿でバズっちゃったから!やめろって言いに来たんだ?」

「あ!?別に、そんなんじゃ…」

「え~っ、じゃあ何!?今更、秋の大切さに気付いたの?あっ、秋のことが好きだって気付いちゃった?」

「なっ…!」

「あ~、そっかそっかぁ!だから、『僕からアキちゃんを奪おうとしないで~!』って言いに来たんだぁ」


 「ウケる~!」と可笑しそうに手を叩いて笑う日葵。まともに話を聞こうとしない態度にイラッとして、翔の目が段々細くなっていく。


「お前…」

「あー、マジで今更すぎて、笑えるわぁ…。秋の気持ちに気付いていながら、ずっと無視してたくせに、ねぇ~…。でも、残念でした!秋は今日、翔以外の男の人と、コラボ撮影しに行ってまぁす」

「!」


 首をコテンと傾けながら拍手をすると、翔はハッと息を呑んで固まる。動揺して瞬きを繰り返す翔を見て、日葵はフンッと鼻を鳴らした。


 ――うわ、傷ついた顔なんかして…腹立つわぁ…。


 活動休止なんかしなければ、秋が誰かと一人でコラボすることはなかっただろうに。

 ああ、イライラする。許せない。秋が受けた悲しみはこんなもんじゃない。日葵は、神妙な顔をする翔を凝視すると、思い出したようにスマートフォンを手に取った。


「あっ、そうだぁ!見てよ、これ!この前、秋とミニブタカフェに行ったんだ~。良いでしょ~」


 もっと追い打ちをかけてやる――と考えた日葵は、嬉しそうに笑いながら、軽快に画像フォルダを開く。興奮気味にミニブタを撫でる秋や、餌を持って楽しそうにはしゃぐ秋。その後に訪れたかき氷屋で、さつま芋シロップがかかったかき氷を美味しそうに食べる秋の写真等を、日葵は次々に見せていく。当てつけのように見せびらかす日葵に、黙り込んでいた翔はギュッと強く拳を握った。


 ――そうか…こいつ、わざとやってんのか…。


 二週間前のあの日、翔の身勝手な行動に一番怒ったのは、秋でも親でもなく、日葵だった。

 だけど、上手く説明できなかったから、それなら何も言わない方が良いと思い「ごめん」だけで済ませてしまった。

 あの時の釈然としない憤りを、日葵はぶつけてきているのだ。だとしたら、これは自業自得。自分が怒って言い返すのは、違う。


 ――そうだ…喧嘩してる場合じゃねぇ。俺は、日葵に質問しに来たんだ…。


 秋と日葵はいつも一緒に居るから。わざわざ秋が居ない時を見計らって、大雨の中やって来た。

 一旦冷静になるために、鼻から大きく息を吸う。そして、静かに息を吐くと、ゆっくりと口を開いた。


「…お前は何か勘違いしてるけど…俺は、そもそもハチが…秋が、俺のことを好きだなんて思ったことは、一度もない」


 感情を抑えた落ち着いた声音に、スワイプする指がピタリと止まる。


「…へ~?…秋はずーっと、翔に献身的に尽くしてたのに?本当に一度も、秋の気持ちを考えたことがなかったの?」


 そっとスマートフォンをテーブルに置いた日葵は、頬杖をついて翔を見る。


 ――秋は…翔に言われたことなら、絶対に「嫌だ」なんて言わなかったじゃん…。


 ほぼ毎日行われる撮影にも、休みの日に急に呼び出されても、提案された企画が女の子には過酷なものだったとしても。翔の為なら、秋は全力で応えていた。その行動に、愛以外のどんな理由があるのだろう。


 ――まさか、秋はただ楽しんでやっていただけ…なんて馬鹿な事、考えてないよね?


 いや、この鈍感な男ならあり得る――そう想像しただけで、怒りで目力が増していく。呼吸をするのも躊躇うような鋭い眼光に、翔は思わず怯みそうになる。しかし、グッと奥歯を噛みしめると、負けじと日葵を睨み返した。


「俺は…とにかくお前から秋を離さなきゃダメだと思って、動画の投稿を始めたんだ。…だから、秋を好きとか、好かれてるとか…そんな事考える暇なんて、一度もなかった」

「……は?」


 「お前から秋を離す」――その言葉が引っ掛かり、整えられた綺麗な眉が、ピクッと不機嫌に上下する。


「…お前は出会った時から、秋にべたべた引っ付いてただろ…。秋が誰かと喋ってると、すぐに輪に入っていくし…逆に、秋とお前が喋ってる時に誰かが入っていこうとすると、秋を連れてどこかへ行く…。秋とクラスが離れても、お前は休み時間のたびに、秋のところにやって来るから、秋はお前以外の友達がほとんどいなかった」

「……」

「秋はそれを、自分が嫌われてるからだと思ってたけど…違う。お前が秋に異常に執着するから、みんなが気を使って、秋に近づかなくなっただけだ」

「…そんなんで異常って…女子はそういうの普通だけど?」


 休み時間に決まったメンバーで一つの机を囲んだり、教室の隅でコソコソ話をしたり、手を繋いで一緒にトイレに行ったり。グループで行動したがるのは、女子にとっては当たり前の事であり、「異常」とまで言われるのは心外だ。

 眉を顰める日葵を見て、翔は一瞬、口を噤む。しかし、目を伏せると、躊躇いながらも口を開いた。


「…俺も最初は、周りが言う程気にする事じゃないって思ってた。俺から見るお前は、口が悪いし気が強いけど、明るくて一緒に居て楽しい奴だから…秋に引っ付いてるのは…きっと、秋はもう家族みたいなもんだから、過保護になってんだろうな…って、ずっと思ってた…。でも、俺さ…見たんだよ」

「…何を?」


 先程までの威勢はなくなり、どこか歯切れが悪い翔。嫌な予感がした日葵は、そわそわと体を揺らす翔を怪訝な表情で見つめる。すると、円らな瞳が恐る恐る目線を上げた。


「…お前が、その…秋の写真、いっぱい持ってるの…」

「…は?」


 気まずそうに言う翔に、日葵は片眉を上げる。

 確かに、秋とはよく写真を撮るから、スマートフォンのデータがパンパンになるくらいあるけども。

 「どういうこと?」と問いかける目に、翔の視線が不自然にきょろきょろと彷徨い始める。言おうか言うまいか。暫し考えあぐねていた翔だったが、ぎゅっと目を瞑ると、勢いよく頭を下げた。


「~~ごめんっ!お前の部屋に、秋だけが写ってる分厚いアルバム、あるじゃん…辞書みたいな厚さのやつ…あれ、見た!」

「…!?えっ、はっ…えっ!?もしかして、あたしの机の引き出し、勝手に開けたの!?」


 「いつ!?」と目を見開いて叫びながら、ドンッ!とテーブルを叩く。

 小学生の事から使っている学習机の、一番下の引き出しの奥。パッと見ても分からないよう、大きなお菓子の缶の中にしまっている真っ赤な表紙のアルバムを、日葵は思い出す。

 あの存在は親だって知らないはずだ。

 嫌だ。何で。どうしてバレたの――戸惑う心臓がドクッドクッと騒ぎ、額にブワッと冷や汗が浮かぶ。


「…よ、よく日葵の家で、秋と俺と母さん達で集まってただろ?…母さん達はリビングで話してて、俺達は日葵の部屋で遊んでた…あの時に、つい…」


 まだ、男女の垣根なく遊んでいた小学4年生の時。

 子供達同様仲が良い母親達は、「ご飯会」という名の「愚痴大会」を月に一度必ず開いていた。キッチンでジュースを用意してくれている日葵を置いて、先に部屋に入った翔は、何の気なしに、日葵の机を開けてみることにした。

 文房具の中に紛れている不自然な缶は、まるで宝箱のように見えて。

 「赤点のテストがあったらおもしれぇな」…そんな軽い気持ちで、缶の蓋を開けてしまった。


「あたしが居ない時に勝手に開けたの!?最っ低…っ!」

「悪かったよ!でっ、でも、入ってる写真が、全部秋だったから…俺は見ちゃいけない物を見たんだ思って、すぐに引き出しは閉めたぞ!」

「そんなの関係ないわよ!だって、見たんでしょ!?最悪!…もう、最悪っ!あれは、あたしが、あたしだけの…っ」


 あたしだけの秋なのに――そんな気持ちが膨れ上がって、日葵の顔がくしゃりと歪む。


 こんなの作るなんて、どうかしてる。


 そう、分かっていながらも、行き場のない気持ちを吐き出す代わりにこっそり作っていた、秋のアルバム。

 それは、小さい時から一緒に過ごしている2人が、出かけた際に親に撮ってもらった写真が沢山入っている――だけではない。

 遠沢家に遊びにきた秋が食事をしている姿や、お絵描きをしている横顔。遊び疲れて寝てしまった秋や、真剣に宿題をしている秋。学校行事の際に専任のカメラマンが撮影し、親向けに販売されていた写真から、ダンスレッスン時の隠し撮りのような写真まで。優に200枚を超える写真たちが、大切に保管されている。

 いつ、こんな写真を撮ったんだろう…とゾッとする、まるでストーカーが作ったようなアルバムを見て、翔はとても恐怖を覚えた。

 そして、同時に気づいてしまった。日葵は秋の事が恋愛対象として好きなんだ――と。


「ねぇ…それ、秋は知ってるの?」

「いや、その時秋はスマホいじってたから…気づいてない」

「……」


 首を振る翔を見て、日葵は小さく溜め息を吐く。そりゃそうか。もし知られていたら、今の今まで仲良くしてくれている訳がない。


 ――…この気持ちは、墓場まで持ってくつもりだったのに…。


 いくら性的マイノリティに世間が寛容になってきたとは言っても、偏見はつきものだ。だから、誰にもバレないよう、ずっと心に秘めておくつもりだった。なのに、とっくのとうに翔にはバレていたなんて。


「……」


 最悪だ。消えたい。今すぐ、誰も知り合いがいない場所へ逃げてしまいたい。

 日葵は額に手を当て、無言でテーブルを見つめる。

 怒りと恥ずかしさと、惨めさと――色んな感情がごちゃ混ぜになって、もう意味が分からない。


「正直…俺は、あのアルバムを見て、お前が少し怖くなった」


 力なく俯く日葵を見つめ、翔はぽつりと呟く。


「俺の知ってる日葵からは想像もできない一面だったから…もしかして、俺、お前のことよく分かってないのかも…って思って…それから、注意深く見るようにしたんだ」


 「お前の事…」と零す翔の声を、日葵はぼんやりとした思考で受け止める。無表情のまま、反応を示さない日葵。目に見えて落ち込んでいる日葵を気にしつつも、翔は話を続ける。


「そしたら、気づいたんだ…。お前にバレないように、秋とこっそり仲良くなろうとするやつが現れると、お前が陰でそいつに嫌がらせをしてるってことに…」


 焦点が合わない視界の隅で、翔の拳がぎゅっと固くなる。


「……」


 違う、あれは嫌がらせなんかじゃない。あの女の子も秋が好きだったから、お互い陰で牽制しあっていて、そう見えただけ――と、言い返したいけど、さっきのショックが大きすぎて、反論する気力も湧かない。

 だが、首を振ることも否定もしない日葵を見て、翔は「日葵が肯定している」と受け取ってしまう。


 ――やっぱり、いじめてたのかよ…!いくら秋のことが好きだからって、それは違うだろ…!


 心配で揺れていた翔の目が徐々に険しくなっていく。

 心の中に長年漂っていたモヤモヤが、確信を経て、怒りに変わった瞬間だった。


「…じゃあ、あれもお前、わざとだろ」


 背を正した翔は、語気を強めて話し出す。

 喧嘩腰の翔に、「今度はどんな言いがかりよ…」と心の中で呟きながら、日葵は耳を傾ける。すると、翔は一呼吸おいて、ごくりと唾を飲み込んだ。


「秋が膝を怪我した原因…歩道橋の階段で、お前が落ちそうになったのを秋が庇ったからだって聞いたけど、本当はお前が引っ張ったんだろ?」

「……は?」


 てっきり、またいじめがどうとか言われると思ったのに。予想だにしなかった話を…しかも、聞き捨てならない言葉を耳にして、日葵は弾かれたように顔を上げる。


「あの時、秋はお前じゃない奴とペアでダンスの大会に出ることになったって言ってた。だから、お前はそれが気に入らなくて、秋が怪我するように――」

「違う!!」


 カッと湧き上がる怒りのまま、日葵は腹の底から叫ぶ。


「確かに秋が他の人とペアになるのは嫌だったけどっ、一生懸命頑張ろうとしてる秋に、そんな事するわけないじゃん!」


 緩いパーマを振り乱し、日葵は大声で否定する。

 だって、そんなのあり得ない。自分にとっては秋が一番大切なのに。私利私欲の為にわざと秋を傷つけるなんて、するわけがない――そう、必死に訴えるけど、翔は全く聞く耳を持たない。


「でも!お前がわざと秋の腕を引いて落ちるのを見たって奴が何人かいるんだよ!」

「何よそれっ…!そんな他人の話、信じるの!?」

「ああ、お前ならやりかねないと思ったからな!俺はその時思ったんだ…このまま秋をお前と一緒にいさせるのは良くないって…だから、動画の投稿を始めたんだ」

「なっ…」


 翔は呆然とする日葵を見つめながら、「秋からお前を離すには、秋の友達を増やすしかないと思った」「秋の良いところを広めるのには、動画が一番手っ取り早いと思った」「お前の強すぎる独占欲から秋を守りたかった」「離す時間をとにかく作りたかった」――と、長年蓄積していた胸の痞えを、淡々と日葵にぶつけていく。だけど、翔が語るどんな言葉も、頭の中に入ってこない。

 翔には分かるのだろうか。

 理解ある幼馴染だと思っていた人物に、「お前は秋を独り占めするためなら手段を選ばない人間だ」と言われる辛さを。

 傲慢で残酷な人間だと言われる悲しさを。

 勝手な想像で、勝手な噂話で、人の心をかき乱すだけ乱して、こちらの話は聞きもしない。


 ――何でよ…何で、周りの奴らなんかよりも、ずっと一緒に居るあたしの言葉を信じてくれないのよ…。


 一緒に過ごした16年は何だったのか…と虚しくなる一方で、やっぱり、あのアルバムを見たことが原因なのかな…とも思う。

 きっとあのアルバムを見てしまったから、自分には異常だというイメージがついてしまったのだろう。


 ――良いじゃん、写真くらい。どうせ、あたしの恋は報われないんだから…。


 どんなに願ったって、翔にはなれない。秋のパートナーの候補にすらなれない。一生、自分は友達止まり――次々と浮かんでくる現実が、ただでさえ傷ついて弱った胸に、鋭い爪を突き立てる。

 ああ、ダメだ。このままだと惨めすぎて泣いてしまう。翔なんかの前で、絶対に泣きたくない。


「……もう、いい」

「ちょっ!まだ話が…」


 日葵は震える声でボソッと言うと、引き留めようとする翔を振り切り、立ち上がった。

 足早に去っていく日葵の背を、翔は溜め息を吐きながら見つめる。


 ――クソッ…日葵が動画に出たのは、秋とずっと一緒に居る為だろ?って聞きたかったのに…。


 アキショウチャンネルを開設したせいで、毎日べったりくっついてた日葵を無理矢理離してしまったから。4年間我慢した反動で、嫌いな動画にも躊躇いなく出演して、公私共に秋の横に居るポジションを得ようと企んでいるのかと思っていたのだが。


「……」


 去り際の、今にも泣きだしそうな日葵の顔が脳裏に浮かぶ。

 きつく言い過ぎてしまったのだろうか。でも、いじめも、故意の事故もいけないし…。


「ぅあ~~~…クソッ…」


 どうしたらよかったのか…と、翔は頭をガシガシと掻きながら、背凭れにだらしなく寄りかかる。


 ――…俺だって、秋が大切だったんだよ…。


 出会った時からずっと、秋を妹のように思っていた。

 お互いの家を自由に行き来していたし、自分の親も、秋を娘のように可愛がっていたから、勝手にお兄ちゃんになったつもりで接していた。

 秋はいつもニコニコしていて、おっちょこちょいで、人を疑うことをしない。

 見ていてとても危なっかしいから、「俺が守らなくちゃいけない」と思っていた。

 でも、配信中にソファで秋の上に覆いかぶさってしまった時。

 少し触れただけでも分かる体の柔らかさと、くるんとカーブされた睫毛。そして、ふわっと漂ってきたサボンの香りに、秋は妹ではなく異性なんだという事実を突きつけられた気がした。

 それからは、もう、秋とどう接すればいいのか分からなくなってしまった。

 自分が秋から離れたら、また日葵が…なんて考える余裕もなく、この戸惑いは何なのだと、四六時中頭を抱えていた。

 これが秋への好意なのか、そうじゃないのかは、今でもまだ分からない。

 …いや、もしかしたら。「ハチ」なんて失礼なあだ名で呼んだり、秋を雑に扱っていたのは、無意識のうちに、秋を異性として見ないようにしていたからなのかも――と考えて、翔は「うぐぅ…」と苦しそうな声を上げた。


 ――ああ、もう、わかんねぇ…。ぜんっっぶ、わかんねぇ…。


 目元を掌で覆い、「はあぁぁぁ…」と深い溜息を漏らす。

 外は未だに、ザアザアと雨が降り続いている。

 翔は叩きつけるような雨音に耳を傾けながら、この纏まらない思考が、雨と一緒に流されてしまえば良いのに…と思った。




「あれーっ、日葵じゃん!」


 激しい雨粒を弾く傘の音の中に、軽やかな声が響く。

 重たい足取りで歩いていた日葵は、後ろから聞こえてきた、世界で一番耳馴染みの良い声に驚いて立ち止まった。


 ――…そうだった…秋に一瞬でもいいから会いたくて、帰ってくる時間に合わせて、学校を出ようと思ってたんだった…。


 折角、秋からちゃんと予定を聞いていたのに。翔のせいで、気にせず飛び出てきてしまった。良かった、偶然会えて…とホッと息を吐く日葵の横に、秋がバシャバシャと水を蹴りながらやってくる。撮影衣装が入った黒のリュックを胸の前に抱えた秋は、嬉しそうに日葵の顔を覗き込む。と同時に、ギョッと目を見開いた。


「えっ!?どっ、どうした~?日葵…なんかあった?」


 いつもは凛々しい切れ長の目尻に、まだ乾いていない涙の跡がある。しかも、鼻水を啜る鼻先が赤く染まっている。

 幼馴染の泣き顔を久しく見ていない秋は、おろおろしながらも、落ち込んでいる猫背を摩る。その温かな掌が愛しくて、日葵はフフッと微笑んだ。


「…さっきたまたま翔に会ったんだけど、酷いことたくさん言われて…泣かされた」

「えっ、翔!?もっ…もう!酷い事って何!?何で日葵を泣かせるんだろ!」


 「翔」と聞いてドキッ!と肩を跳ね上げつつも、秋はムッと顔を顰める。

 そんな寄り添ってくれる優しさに、元気がなかった日葵の顔が自然と綻んでいく。

 秋が傍にいると、不思議だ。

 翔にある事ない事を好き勝手に言われて、自分なんか居ない方が良いんじゃないかな…と思い詰める程、心が傷ついていたのに。ああ、やっぱりまだ居たいな。ここは呼吸がしやすいな…と感じるくらい、心が温かく満たされていく。


 ――あー、好きだなぁ…。


 日葵は胸に広がる不思議な心地良さを嚙みしめるように微笑むと、プンプンと怒る秋に、お道化て肩を竦めてみせた。


「うそ!本当は傘が開いた時に、尖ったやつが目にぶつかったの」

「う、えっ!?大丈夫なの!?それ!」

「うん。秋に会ったら元気出た」

「えぇ~…そんな事ある?…泣くほど痛いんでしょ?病院行った方がいいよ?」

「ふふ。大丈夫。ありがと」


 眉をハの字にして心配する秋に、日葵は二カッと笑ってみせる。それでも秋は病院に行って欲しそうだったが、やがて「何度忠告しても日葵は行かないだろうな…」と悟り、「はぁ…」と小さく溜息を吐いた。


「…あっ。そう言えば、お母さんが日葵に感謝してたよ」

「感謝?」


 二人で並んで雨を蹴りながら、ゆっくりと帰路を歩く。


「うん。お母さんね、翔と私が活動休止する事になった時、私が落ち込んで、暫く立ち直れないんじゃないかなーって思ったんだって。でも、すぐに日葵と楽しそうに踊ってる動画を見たから、めーっちゃ安心したんだって!『日葵ちゃん、いつもありがとね~』って言ってたよ」

「そっ、か…。秋のお母さんも喜んでくれたなら、良かった」


 母の安堵した顔を思い出し、隣でニコニコと笑っている秋。

 こんなに嬉しそうな姿を見られるなら、頑張って動画に出てよかったな――と、日葵は思う。


 ――大好きな秋の為なら、何だってするよ~。


 秋には直接言えないから、心の中でそう呟く。

 秋は、出会った時から日葵の特別だった。

 引っ越しの挨拶の為に、お母さんの足に引っ付きながら恥ずかしそうにしている秋を見た瞬間、日葵は「お姫様がやってきた!」と思った。

 お世辞でも比喩でもない。本当に秋が輝いて見えたのだ。

 顔の半分が目なんじゃないかと思うくらい、お目目が大きくて、肌が真っ白で、華やかなオーラを纏っていて。目で追うつもりはなくても、何故か目で追ってしまう――そんな秋に一目惚れした。


 出会ってから、16年。


 翔だけに見せる頬を染めた笑顔を、自分にも向けてもらえたらなぁ…と、何度も思った。だけど、そんな夢が叶わないことも、この16年でよく分かった。

 お人形のように可愛かった幼少期から、すっかり綺麗なお姉さんに成長した秋の横顔をちらりと横目で見る。

 あーあ…何で女に産まれちゃったのかなぁ…。あたしが男だったら、絶対秋の事幸せにするのになぁ~…――なんて、考えてもどうしようもないことを、日課のように今日も考える。

 思わずじーっと秋を眺めていると、秋が「そうだ!」と言って日葵を見た。


「今日、荻原君とコラボ撮影してきたんだけどね」

「!あっ…そうだったよね。どうだった?」


 やばい。ずっと見てたの、変に思われなかったかな…とドギマギしながら、日葵は慌ててニコリと笑う。

 先日、カフェテリアで偶然会った荻原湊。

 彼は日常的にダンス動画を漁って見ているらしく、秋と日葵が動画をあげた翌日に、二人に声をかけてきた。

 「二人ともめっちゃうまいじゃん!」「ダンス習ってるの?」「俺も動画撮ってるから、藤野さん、一緒にコラボしない?」と目を輝かせる湊に誘われ、秋は二つ返事で頷いた。

 すぐに撮影しようと思ったのだが、ちょこっと有名な二人は何かと忙しく。スタジオに入れる日がこの日しかなかったので、大雨の中、撮影してきたのだ。


 ――はぁ…翔と動画を撮るのは、秋が翔にベタ惚れだったから、仕方なく我慢してたけど…それ以外の人とは、あんまり二人っきりになって欲しくないんだよなぁ…。


 秋は飛び切り可愛くて優しくて笑顔が素敵だから、一緒に居たら好きになってしまうに違いない。


「……」


 秋と湊が並んでいるところを想像して勝手に下がっていく口角を、日葵は無理矢理指で押し上げる。

 そんな日葵を不思議そうに見つつも、秋は「楽しかったよ」と微笑む。


「でねっ、荻原君が『今度は遠沢さんも一緒に踊ってくれないかな?』って言ってたんだけど…日葵、どう?」

「……え?」

「日葵のしなやかなダンスが、いいなぁって思ったんだって!ねっ、一緒にやろ~?」

「えっ…えぇぇぇ?」


 キラキラと輝く目で見つめられ、日葵は思い切り口をへの字にする。

 翔にも言ったが、自分は人前に出たり、注目されるのが、本当に苦手なのだ。ダンススクールだって、秋に誘われたから入っただけで、発表会の時はなるべく後列で踊らせてもらっていた。


 ――え~…嫌だなぁ…。でも、荻原君って女子にキャーキャー言われてるし…あんなにモテる男子と二人で密室に居たら、秋もそのうち好きになっちゃうかもしれないしなぁ…。


 嫌だなぁ。阻止したいなぁ。でも、動画には出たくないなぁ…と、同じ言葉がぐるぐると頭の中を巡っていく。日葵は「う~~…」と唸り声を上げて、顔を顰める。しかし、横から感じる熱視線に耐えきれず、ガクッと大きく項垂れた。


「…わかった」

「えっ!?いいの!?」

「うん…一回だけね」

「やったぁ!ありがと~!」


 渋々頷く幼馴染に、秋は拍手をして飛び跳ねる。

 水飛沫が足にかかるのも気にせず、キャッキャと楽しそうにはしゃぐ秋。そんな無垢で無邪気な姿を見ながら、日葵は困ったように微笑んだ。

 嫌で嫌で仕方ないけど、愛しい幼馴染のお願いだから、しょうがない。


「なんの曲で踊ろっかな~…楽しみだね!」


 目を細めて笑う秋は、昔と変わらず、可愛くて清らかでとても眩しい。


「…そうだね。楽しみだね」


 いつか必ず訪れる、秋から離れなくてはならない日。

 その日まで、できるだけ長く秋の隣に居続けるために。

 日葵は自分の心に嘘をついて、笑顔で頷いた。

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藤野秋は、幼馴染。 櫻野りか @sakuranorika

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