藤野秋は、幼馴染。
櫻野りか
前編
真っ黒なローテーブルの目の前に、ドーナツのような丸いリングライトと小さな三脚を立てる。やんちゃに整えた片眉を上げ、三脚に乗せたスマートフォンの角度を慎重に調整した青年は、「うしっ」と小さく呟くと、深緑のソファにドスンと座った。
「見て見て~!おばさんが、スタバの新作買ってきてくれたよ~」
両手にトールサイズのプラカップを持った女性が、扉のドアノブを肘で器用に開けて入ってくる。零れ落ちそうな程大きな目を爛々と輝かせ、苺の香りが漂うピンクのホイップを見つめる彼女の名は、
「おっ、サンキュ~」
「わざわざ買い物のついでに新作買ってきてくれるなんてさぁ、おばさん、めっちゃ動画の事分かってくれてるよね~」
「そやな」
手を伸ばす翔にカップを渡して、秋もポフッと隣に座る。長い黒髪をポニーテールにした秋は、カップを一旦テーブルに置き、「STARBACKS」と書かれたカフェのロゴをスマートフォンのカメラに映るように向ける。
そして、画面を見ながら、胸元に小さな豚の刺繡がされた白いTシャツの皺をパンパンと叩き、黒のロングタイトスカートを足に沿って撫でると、秋はニコッと笑顔を作った。
「もういけるよー」
口角を上げたまま、肩で息をする秋。横から見ても高さがある、真っすぐで綺麗な秋の鼻をチラリと見ると、翔はテーブルに身を乗り出した。
慣れた手つきでスマートフォンの画面をポンポンとタップしていき、二人が最近お気に入りのキラキラエフェクトをつける。
「押すぞ?」
シュッと尖った顎先を人差し指で掻きながら言うと、秋は「うん」と笑顔を張り付けたまま頷く。「LIVE」と書かれたボタンを押し、サッと身を引いてソファに戻る。わざとクセがあるようにセットした、爽やかな短髪を少しだけ直すと、翔は食い入るように画面を見つめた。
不自然な笑顔のまま固まった二人――という、奇妙な時間が流れる。数秒して、「moe♡」と書かれた名前がパッと画面に表示された瞬間、二人の顔から緊張が抜け、一気に明るくなった。
「おー!moeさん!」
「こんにちは?こんばんわー!かな?いつもありがとうございま~すっ」
「あざーっす!」
嬉しそうに手を振る秋に釣られて、翔も右手を振る。すると、二人のライブ配信に気付いた人達が、わらわらと集まってくる。
「『今日はいつもより配信早いね』…そ~なの~。授業が急に休講になったんだぁ。『大学生活には慣れた?』うん!慣れてきたよー!」
「『それ、スタバの新作ですよね!』…そうそう。おかんが買ってきてくれた」
二人はテンポよく流れていくコメントを読みながら、カメラの向こうに居る人達へ笑顔を向ける。
あっという間に視聴者数は3000人を超え、さらに止まることなく増えていく。折角いただいたコメントやギフトを見逃すまいと、丁寧に反応していた秋だったが、
「『アキちゃんの分も買ってきてくれるなんて、親公認の仲なんですね♡』」
と書かれたコメントを読んだ瞬間、にこやかな口元がピクッと引き攣った。
「…も~、よく間違えられるんですけど、翔はただの幼馴染です!」
「そーそー!俺がハチと付き合うわけないじゃん」
「うわっ、言い方ぁ!こっちだって願い下げですけど~」
円らな瞳を細めて、顎を突き出しながら手を振る翔の肩を、秋は呆れ顔でペシッと叩く。すると、緩やかになりかけていたコメントの流れが、一気に早くなる。
「はいはい、痴話喧嘩」「これで付き合ってないって言われても信じられん」「今日もイチャイチャしてる~」「アキショウはこのカップルみたいな兄妹みたいな絶妙な距離感が最高なんよ」
二人のじゃれ合いを見て、どんどん増えていくコメントと、視聴者数。
ズキッと痛む胸を笑顔で隠す秋の横で、ヘラヘラと笑う翔は何となく目についたコメントを読み上げる。
「え~、『何でアキちゃんの事をハチって呼んでるの?』」
「!」
軽やかな口ぶりで言う翔に、秋は一瞬息が止まる。
あぁ、やめて。言わないで――と思ったのも束の間。翔はニカッと歯を出して笑うと、口角を上げたまま固まっている秋の頭を、両手でガシッと挟んだ。
「見てみ~、この頭!めっちゃハチが張ってるじゃん?だから、子供のときからずっと『ハチ』って呼んでんの」
ヒヒッと楽しそうに笑う翔に、コメント欄が「さいてー」「デリカシーない!」「全然気にする程じゃないのに!」「アキちゃんは頭がデカいんじゃなくて顔が小さすぎるんだよ!」と憤慨の言葉で溢れかえる。しかし、翔は全く気にならないようで、
「だって、ずっとこう呼んでるし!ハチも気にしてないよなぁ?」
と言いながら、秋を見る。まるで「こいつら分かってないなぁ」と言うように。お道化て話す翔の姿に、秋の心臓がギュッと潰されたように痛くなる。
――気にしない訳ないじゃん…。好きな人に、こんな事言われて…。
そう、口から出してしまいたいけど、出せない。
何故なら、翔は「気を遣わない、家族のような異性」という自分に価値を感じ、傍に置いてくれているから。
もし自分が「好きだ」と言ったら、この関係は終わってしまう。それなら、どんなに雑な扱われ方をしたとしても、傷ついた素振りを見せず、「特別な友人」の枠を維持していたい。
――手の力、強っ…。
幼児がおもちゃで遊ぶように。頭を小刻みに揺さぶってくる大きな手に、秋は一瞬イラッとする。その一方で、こんな扱われ方だったとしても、触れられて嬉しいと思ってしまう自分がいて空しくなる。
「アキちゃん、嫌な時は嫌って言いな!」「ひどーい!」と秋を擁護するコメントの中に、「これがアキショウのスタイルなんです~」「いつものやりとりなのに、それも知らんやつが一々言うな」と、棘のある言葉がちらほら出てくる。
このままでは不穏な空気になってしまうと察した秋は、慌てて嫌そうな顔を作り、翔を指差した。
「えっ、今時やばいよ?そのノンデリ発言。それに、私の事バカにするなら、私も言っちゃうからね?じーつーはー、翔のお尻にはぁ、大きなぁ――」
「うお~~~~~~~い!!」
ニヤリと不敵に上がった口角を見て、翔は慌てて秋の口元に手を伸ばす。まるで、全力で飛びかかってくる大型犬のように。ドン!と勢い良くぶつかってきた翔に押され、秋はソファの肘掛けに倒れ込んだ。
「ぶふっ」
肩を肘掛けに強打し、秋はギュッと目を瞑る。びっくりするくらい肩がジンジンして痛むが、ここで痛がる姿を見せてしまったら、見てくれている人達が心配してしまう。秋は急いで体勢を整えようと、痛みを我慢しながら片目だけを開ける。すると、目の前に鼻先スレスレまで近づいた翔の顔があった。
驚いて固まる秋の視界の端で、目にもとまらぬ速さでコメントが書き込まれていく。
「え!顔だけ見えないんだけど!?どうなった!?」「もしかしてチューしてる!?」「事故ちゅー!?」「きゃ――!!」「てかアキがショウのお尻事情知ってんのヤバない!?」「お祝いや~~!」
視聴者が見ている画面には、ソファに横たわる秋の体と、秋に覆いかぶさる翔の首から下だけが映っている。果たして、カメラに映らぬ場所でどんな事が起こっているのか。
大人気幼馴染チャンネルに突如訪れた少女漫画のような展開に、人々は色んな妄想をして盛り上がる。
「ちょっ、翔…!」
こんな至近距離、心臓が爆発して死んでしまう。それに、息がかかるのが恥ずかしくて、全然呼吸ができない。このままでは、酸欠で死んでしまう。
早くどいてよ!と、自分の耳の横にある逞しい腕を叩くも、翔は何故か秋をジーッと見つめたまま動かない。
「~~~っ」
今も尚、この醜態が配信され続けているというのに。
何故、この幼馴染は元の体勢に戻ろうとしないのだろうか。
――恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい!
ああ、顔が茹ったように熱い。
首も頬も耳も真っ赤に染まった秋は、ムッと顔を顰める。そして、「どーいーて!」と言うと、ぽけーっとアホ面をしている翔のおでこに勢い良く頭突きをした。
「ぐふぁっ!」
ゴンッ!とトンカチで叩かれたような衝撃が額に走る。咄嗟に両手で額を抑えた翔は、体を仰け反らせ、反対側の肘掛けに倒れ込んだ。頭をカチ割るようなズキズキする痛みに、翔は足をばたつかせて悶絶する。虫のように暴れる翔を無視して、秋は急いでスマートフォンの画面を覗き込む。
――お願いっ!皆、見なかったことにして!
という秋の祈りが通じるわけもなく。
この日、「国民の幼馴染」こと、「アキショウチャンネル」は、過去最高の視聴者数を叩きだした。
「おーはーよー」
「!?」
授業開始前ギリギリに講義室に入った秋は、一番後ろの端っこの席に座った瞬間、耳元を吐息交じりの声で擽られ、ビクッと肩を揺らした。
「なっ、はっ、もうっ…!
大きな目をこれでもかというほど見開き、隣で笑いを嚙み殺す友人兼幼馴染に、小声で怒る。しかし、日葵はウェーブがかかった長い茶髪を耳の後ろへかけると、人懐っこいフェレットのような顔で秋を見つめた。
「ごめんごめん。いや、さ。今日は大学来ないと思ったから、流石に」
「そりゃ、私だって来たくなかったよ!でもさっ、来ない方が絶対なんか言われるじゃんっ!」
秋はツバが大きいベージュのキャップを目深に被り、人目から隠れるように体を縮こまらせる。しかし、さして大きくもない講義室の中で、こっそり隠れられる訳もなく。昨日の配信を見ていたのであろう学生たちが、チラチラと後ろを振り返っては、にやけ顔で噂話を繰り広げている。
「~~~~っか゛え゛り゛た゛い゛ぃ…」
「ふははっ」
キャップごと頭を抱え、秋は机に顔を伏せる。「う~~~…」と情けない声を上げていると、講義室の扉がガラガラ…と開いた。
天然パーマを七三分けにした中年男性が、コツコツと床を叩いて歩く。教授は教卓に手をついて全体を見渡すと、帽子を被ったままの学生に気付き、眉間に皺を寄せた。
「まったく、授業中に帽子をかぶるなんて、マナーがなってないぞ!」…と、厳しく注意しようとしたのだが。
「?」
――「先生お願い!今日だけは見逃して!」…?…ん?あれは藤野か?
苦虫を嚙み潰したような顔をした秋が、両手を合わせ、何やら口をパクパクさせている。その必死さに首を傾げて、あっ、と先程の出来事を思い出す。
――そう言えば…今日はすれ違う生徒達が、藤野の話題ばっかり喋っていたな…。
自分は流行に疎いのでよく分からないが、藤野秋は結構有名なテッカトッカ…?やインストグラム…?の動画配信者らしい。しかも、動画が切り抜かれて拡散されるような大事件が、昨日起こったとも言っていた。正直、おじさんがその話を聞いても、どれほどの一大事なのかがピンとこないのだが…。
どうしたものか…と、小皺が刻まれた口を窄める。
それはそれ、これはこれ、と割り切らせるのが普通だし、例外を作りたくはないが…周りの生徒達からは「今日は許してあげてよ」という雰囲気が醸し出されている。
「はぁ…」
しょうがない。許すのは今日だけだぞ?と、秋に向かって目を細める。コクコクと頷く秋に呆れたように頷き返すと、教授は丸い鼻から大きな息を吐いた。
無事午前中の授業を乗り切った秋は、風に乗った田畑の匂いにホッと安堵の息を吐いた。
ここは、群馬県の中でもまあまあ有名な街。程よく観光スポットがあり、駅から少し離れれば豊かな緑もある。生活には全く困らないが、好奇心旺盛な年代には少し物足りない。そんなもどかしさを感じながら、秋は学内にあるカフェのテラス席に座り、生まれ故郷をぼんやりと眺めた。
学校を囲むフェンスの奥に、戸建ての家がポツポツと並んでいる。生活感溢れるこの街は好きだけど、毎日刺激的な出会いやイベントがあったりはしない。SNSで楽しそうな世界を見るたびに、いいなぁ、私も都会へ行きたいなと思ってしまう。
――あーあ。翔に誘われるまま近所の大学なんか受けないで、東京の方に行けば良かった…。
あの時は丁度、配信者として人気が出てきた時だったから、進学を機に辞めるのが惜しくなってしまって――そんな建前を周りには話していたけれど、実際は違う。翔に「一緒の大学行くだろ?」と当たり前のように言われたことが嬉しすぎて、後先も考えずに選んでしまった。
翔はただ、自分が人気者になっていくのが楽しいだけ。その為に藤野秋が必要なんだと…他意はないんだと、分かっていたのに。あの時の自分は、翔と一緒に居られる理由があれば、何でも良かった。寧ろ、一緒に活動を続けることで、藤野秋という存在の大切さに気付いてくれたらいいな…なんて、高校2年生の自分は能天気に考えていた。
しかし、社会福祉学部に入った秋と違い、翔が入ったのは教育学部。
そもそも通う棟が違うので、校内で会うのは必修授業くらいだし、つるむメンバーが全然違うので、会話をする隙がない。しかも、そのメンバーには可愛らしい女の子達がたくさんいたりなんかして――。
小・中・高と狭い世界の中で過ごしていた時とは違い、知らないうちに、知らない場所で生き生きとしている――そんな翔を見るたびに、自分がここにいる意味ってなんだろう…と、どんどん虚しくなっていく。
「はぁ~~~~…」
気怠い声が大きな溜め息と共に零れる。
はぁ。このまま沈んだ心と共に、地中の中に潜ってしまいたい。
ダンゴムシのように、力なく背中を丸める秋。すると、カランと氷がグラスを鳴らす涼し気な音が耳元で聞こえた。
「で?あの後すぐに配信切ってたけど、どうなったの?」
2人分のアイスカフェラテを持ってきた日葵が、丸い木のテーブルの上にグラスを置く。何も言わなくてもガムシロップを一つ足してくれている幼馴染に感謝して、秋は冷たいグラスに口をつけた。
「…翔が上の空だったから、配信終わらせたんだけどさ」
「そうだね。コメントも読まないで、なんか不思議そうな顔してたね」
「でしょ?切った後も、ずーっと首傾げてて会話にならないからさ、『もしかして体調悪い?』って聞いたんだけど、『そうじゃない』って言うし」
「ほーん?」
「だから、もういいやと思って、すぐに帰った」
「おお、徒歩10秒の隣の家に」
「?うん」
「ま、私は徒歩8秒で秋んちに着くけどね!」
「うおぉ、急に謎のマウント」
ドヤ顔をする日葵に、なんでそこで張り合うの?と秋は笑う。
16年前に、同じ区画内に建てられた5軒の建売住宅。同時期に購入した5家族のうちの3家族に、たまたま同じ年齢の子供がいた。出会った当時の3人は、まだ2歳。親同士がすぐに仲良くなったので、3人とも同じ幼稚園に入園した。そして、今現在に至るまで、ずっと同じ学校に通い続けている。
「ちなみに、連絡は?」
「特に何も」
「ふ~ん?…じゃ、別に深い意味はなかったのかな?」
「……わからん…」
眉間に皺を寄せた秋が、首を傾げながらグラスに口をつける。暑くなってきた今の時期にピッタリな、あっさりとしたカフェラテ。ふわっと鼻腔を抜けていく豆の香りに癒されていると、目の前を一人の女生徒が横切って行った。
――あ、
150cmほどの背丈しかない小柄な女性が、天使の輪を描く長い黒髪を揺らしながら、腰まである大きなリュックを背負って一生懸命歩いている。いつも真っ黒な服を着ている彼女の肌は透けるように白く、幼く愛らしい顔つきも相まって、まるで絵本から飛び出てきた妖精のように見える。
――あ~あ…あんなに可愛かったら、翔も私のことを女の子として見てくれたのかなぁ…。
真剣な表情でちょこちょこと歩く小さな背を、秋は羨ましそうに見つめる。思わず保護したくなるような可愛さに、自然と「かわい~」と呟いてしまう。
自分は今まで、翔どころか、他の男子にも異性として扱われたことがないなぁ…と考えて、秋はさらにブルーになる。
そう言えば、ファンの中にも秋のガチ勢はあまりみかけない。翔はちょこちょこ見かけるのに。一体、どういうことだろう。登録者数46万人を誇る、そこそこ人気の配信者なのに…解せない。
――ま、登録者のほとんどは女性だもんなぁ~~~…。
はぁ…と零れそうになる溜め息を、カフェラテと一緒に無理やり飲み込む。
すると、隣から「あっ!!」という叫び声が聞こえた。
「?どした?」
「ちょっ、翔が…!翔がLIVE配信してるっ!」
「は!?」
パシパシと高速で肩を叩いてくる日葵のスマートフォンを、秋は急いで覗き込む。最大限に見開かれた大きな瞳。その中に、いつも撮影場所になっている翔の部屋で、気まずそうに手を組みながら瞬きをしている姿が映る。
「あいつめ…秋は学校に来てるのに、自分は休んだんかい」
「なにこれ…なんも聞いてないんだけど」
相談もなく勝手に配信を始めるなんて、初めてだ。
困惑と不安が、ざわっと胸を駆け巡る。一体何を喋るつもりなんだろう…とドギマギする秋の目と、カメラを見つめる翔の目がピタリと重なる。翔は小さく深呼吸をすると、ゆっくりと口を開いた。
「えー…急にも関わらず、見てくださっている方々…本当にありがとうございます」
ぺこりと下がった頭を見て、コメント欄が心配の声で溢れかえる。「どうした?」「何があったの?」「深刻な感じ?」と流れていく言葉たちをじっと見つめながら、翔は一つのコメントを読み上げる。
「『アキちゃんはいないの?』…はい。今日は、ハチは居ません。俺だけです…。すみません」
「ウザ。何でこいつ、こんな深刻な顔ができんのよ」
「う、うぉぅ、辛辣ぅ…」
チッ!と盛大な舌打ちをする日葵に、秋は思わず苦笑する。でも、日葵の気持ちは最もだ。何故勝手に一人で、謝罪会見のような配信をしているのだろう。昨日の態度も謎のままなのに…何の説明もないまま配信を行うなんて、ありえない。
ごくりと唾を飲み込んで、翔の次の言葉を待つ。すると、素早く瞬きをした翔は、パンッ!と強く膝を叩いた。
「…今日は、重大発表があります!」
「はぁ!?」
「へっ!?」
怪訝な顔をした日葵と秋が、素っ頓狂な声を出す。
――は!?重大発表!?聞いてないんだけど!
何も決めていないし、そもそも相談もされていないのに、「重大発表」なんかあるわけないだろう。言っている意味が分からなさすぎて、秋は苛立たし気に目を細める。
翔は一度深く頭を下げると、「えー…」と言いながら上体を起こした。
「最近開設4年目を迎えた、アキショウチャンネルなんですけども…一旦、休止します!」
意を決したように言い切った翔は、高揚した頬を膨らませ、息を吐く。
突然の展開に日葵はあんぐりと口を開け、隣で固まっている秋を見る。
「……は?」
細めていた目は見開かれ、引き攣った口元からは低い声が零れる。
――「一旦、休止します」…「一旦、休止します」って、何…?
うまく理解できない秋は、翔の言葉を何度も頭の中で繰り返す。
高校に入学する直前、翔が秋にいたずらをしかけた動画を、思い付きで投稿したところから始まった、アキショウチャンネル。飄々としていて、どこか憎めない愛らしさがある翔と、素直にオーバーリアクションをする秋のコンビは、自然体な姿が良いという評価と共に、じわじわと人気を伸ばしていった。その人気にこたえるように、月・水・土曜日は動画公開、日曜日は生配信をすると決めたのが高校二年生の時。あれからずっと、怪我をしようと風邪をひこうと、二人が活動を休止することはなかった。
なのに、何故。何故こんなに大事なことを、一人で決めてしまうのだろう。
「え~…皆さん、突然のことで驚かれたと思います…」
「…」
日葵は口を開けたまま翔と秋を交互に見る。
「秋、この話知ってたの?」と聞こうとするが、秋からふつふつと滲み出る怒りのオーラを感じて、勝手に決められたのだと悟る。
「えぇっと…『休止を決めた理由を教えてください』…はい」
「!!」
あっという間に流れていくコメントを何とか目で追って、翔は小さく頷きながら背を正す。秋は未だ整理のつかない状態のまま、食い入るように画面を見つめた。
「理由はですね…」
一つ一つ紡がれる翔の言葉が、スローモーションだと錯覚するほど、ゆっくりと脳内に流れ込んでくる。
一体、理由はなんだろう。急に休止をしようと思った、その真意が知りたい。
息を押し殺し、秋はじっと耳を傾ける。翔は一瞬躊躇うが、大きく息を吸うと床に吐き出すように声を荒げた。
「ありませんっ!!」
「ふ~~…」と、大仕事をやり切ったかのように息を吐く翔。その膨らんだ頬を見つめる秋の目が、キョトンと丸くなった。
「……へ?」
――「ありません」…?
「ありません」というのは、あの「ありません」なのだろうか。
「えっ…ないの?」
「あ、やっぱりそういうことだよ、ね…」
眉間に皺を寄せる日葵に、秋は咄嗟に顔を向ける。
やはり、「理由はない」という意味だったのか――と理解した瞬間、重力が倍になったのかと思うくらい、一気に体が重くなった。胸の奥にある何かがズドンと抜け落ちて、ぽっかりとできた空洞に、虚無感がじわじわと広がっていく。「あ、これが心に穴が開くっていうことなのかも…」と、ぼんやり思いながら、秋はスマートフォンに視線を向けた。
戸惑いの声で溢れるコメントを、動じることなく眺めている翔。
この真っ直ぐな瞳を見れば分かる。
もう、動画を休止することは翔の中で確定事項なのだと。
――うーん…結構、色んな無茶ぶりに付き合ってきたし、重宝されてる存在だと、思ってたんだけどなぁ…。
自分は動画の編集ができない。だから、その分翔のお願いには一生懸命応えてきたつもりだ。
一文字に結ばれた口端に、グッと力が入る。
「理由はないけど、なんとなく休止する」。そんな決断ができるほど、自分に価値はなかった――その事実に、目頭がカッと熱くなる。
「……」
たとえ異性として見られていなくても、「大事な相棒」にはなれたと思っていた。
そんな自分が愚かで、みじめで、悲しくなる。
うっすらと滲んでいく視界に気づき、慌てて空を見上げる。自分はアホみたいに元気なところだけが取り柄なのだ。周りに学生たちがいる場所でなんか、絶対に泣きたくない。
輪郭がぼやけた雲を見ながら、「ひっこめ、ひっこめ」と願い続ける横顔を、日葵は何とも言えない眼差しで見つめる。
何が起こっても笑い飛ばすような幼馴染が、とても苦しそうにしている。こんな姿、見いてるこっちも苦しくなる。
――いくら翔のことが好きだからって…こんなことされて、黙ってるのはおかしいよ!
秋は本心では嫌だと思っていても、翔にお願いされたことなら、何でも受け入れてしまう。そして、翔が見ていないところでこっそり溜め息を吐くのだ。その悲しそうな後ろ姿を、何度モヤモヤした気持ちで見守ってきたことか。
「それで秋が幸せなら…」と、今までは口を噤んでいたけれど、流石に今回は見過ごせない。
ふつふつと湧き上がる怒りのまま、日葵は画面を睨みつける。
困惑する視聴者たちの思いを受け止めるように、翔は何度も頷いている。
そして、「お願いだからやめないで!」というコメントに、「もう決めたんで…すみません」と謝ると、背筋を正し、真っすぐカメラを見つめた。
「理由が全くない訳じゃないんです…でも、説明がちょっと…はい、難しくて…。だから、いつか上手く説明できる日がきたら…その時、ちゃんと説明します」
と、最後まで明確な理由を告げないまま一礼すると、画面に手を伸ばし、配信を終えた。
「……」
一瞬だけ静止画になり、勝手に別な動画が流れ始める。陽気な音楽が流れるスマートフォンを、秋は伏し目がちに見つめた。明らかに意気消沈している沈んだ肩に、日葵はそっと手を添える。
「……秋」
大丈夫?と尋ねるように、ポンポンと肩を叩く。すると、秋は「ふぅ…」と小さく息を吐き、ニコッと笑顔を作った。
「もっ、も~、ほんと困るよね!何で翔って、いつも急だし、自分勝手なんだろ!」
ハハハと声に出して笑う秋の目尻が、ほんの少し輝いている。引き攣った幼馴染の笑顔が切なくて、スマートフォンを持つ日葵の指に、グッと力が入った。
真っ白になる指先と、何かを言いたそうに自分を見つめる瞳。
言葉にせずとも伝わってくる日葵の憤りに、秋は無理矢理上げていた口角を下した。
――…日葵には、空元気だってバレてるよなぁ…。
昔からそうだ。優しくて洞察力が優れている彼女は、いつだって嘘の笑顔を見抜いてくる。
もし、今部屋で二人きりだったら、このまま寄りかかって泣いていたかもしれない。
秋は静かに目を閉じて、顔を伏せる。
ああ、泣きたい。思いっきり泣き叫びたい――そう思う一方で、再び怒りが込みあげてくる。
どう考えたって、今回の勝手な決断はおかしい。
そして、そんな翔に付き合い続けている自分自身も。
「……」
いつまでたっても、翔に振り回されたままで良いのか?自分の人生なのに、他人に主導権を握られたままで良いのか?と、頭の中でもう一人の自分が問いかけてくる。
――いや…そんなの、いい訳ない!
秋は鼻から大きく息を吸うと、パチッと目を見開いた。
「決めたっ!」
しゃんと背筋を伸ばした秋が、キリッと顔を引き締めて日葵を見る。いつになく真剣な眼差しに日葵が目を瞬かせると、秋の顔がずいっと眼前に近寄った。
「私、もう翔に振り回されるのはやめる!」
「!」
きっぱりと言い切る秋に、日葵は驚いて目を瞠る。あんなに翔に絆されていた秋が、「翔に振り回されない」と言うなんて。
――ぶっちゃけ、秋にできるとは思わないけど…。
でも、秋が自立しようとしている。この前向きな気持ちは、かつてない大きな一歩だ。
「翔なんか気にしないで、自分がやりたいことをする!」
「…うん!そう、そうだよ秋!今まで翔にいっぱい合わせてきたんだから、これからは秋が好きなこといっぱいしよう!」
「うん!」
キラキラとした目で後押しする日葵に、秋も目を輝かせて力強く頷く。
――なんか、新しい自分になれる気がしてきた…!
翔のことを考えていたって、みじめな気持ちになるだけだ。今は自分のことだけを考えよう。
「ねね、前に秋が行きたいって言ってた、ミニブタカフェ行こ!」
「あっ!行く行く~!!」
大好きな「ミニブタ」と聞いて、秋の表情がパアァッと明るくなる。数年前に東京でオープンされてから、ずっと行きたいと思っていたミニブタカフェ。しかし、動画の撮影で忙しかったり、行こうとしたら翔に呼び出されたりと、中々行くタイミングが掴めずにいた。
「確かミニブタカフェの近くに、秋が気になってた有名なかき氷屋があったよね?あそこも行かない?」
「!?行きた~~い!」
日葵の魅力的な提案に、秋のテンションが爆上がりする。グッと両手を拳にし、「やったー!」と思いっきり上へ突き上げる。その瞬間、腕が何かにドンッとぶつかった。
「うおっ」
「!あっ、ごめんなさい!」
背後から聞こえる驚いた声。やばい、誰かにぶつかってしまった…!と、秋が慌てて立ち上がる。振り返り、謝ろうとした時。ふわっと向かい風が吹いた。
急いで動いてずれたキャップが、風に吹かれて落ちていく。
「わぁ、帽子!」
「おっと」
床に着く寸前で、パシッと青年がキャップを掴む。金髪をセンター分けにした高身長の青年は、ぱっちりとした目元を瞬かせて、秋のキャップをじろじろと眺めた。
――うわ、めっちゃ見てる…!「頭デカッ」って思われてるのかな…。
秋の頭は少しハチが張っているので、他の女性に比べて、後ろの調節紐が少し長めに設定されている。翔のように、馬鹿にされるのかな…と、青年の一挙手一投足にそわそわしていると、青年は目元を柔らかく細め、ポンと秋の頭にキャップを被せた。
「このキャップ、おしゃれだな!」
「!」
びっくりして肩を竦める秋に、青年は大きな口でニッと笑ってみせる。そして、空いたグラスを手に持つと、カフェの方へ歩いて行った。
――あれ…馬鹿にされなかった…?
秋は目をパチクリとさせ、細身の割には肩幅ががっしりしている背中を凝視する。
今まで散々、翔や、その周りの男子たちにネタにされてきたので、指摘されないことに違和感を覚えてしまう。
「…後ろに居たの、
「えっ!日葵、知ってるの?」
物珍しそうに首を伸ばして見ている日葵に、秋は顔を向ける。
「うん、
「んえぇ~?そうだっけ…?」
トントンと指先でテーブルを叩く日葵に、秋は首を傾げながら席に戻る。
新しい顔ぶれに心が浮き立つ、4月。人気配信者である翔と秋以外にも、入学早々目立っている人物がいた。それが、先程の彼――荻原湊だ。
180cmを超える高身長に、人だかりでも目立つ金髪と、甘いマスク。それに加え、5歳~15歳までをカナダで過ごした故の裏表がない大らかな性格と、さりげないエスコート力。
「完璧」とも言える湊の振る舞いに、女子達は日々キャアキャアと大騒ぎしている。それはもう、聞き耳を立てなくても勝手に噂が聞こえてくるくらいに。
――ま、秋は翔しか見えてないから、他の男子はみーんな同じに見えるんだろうな…。
と、若干飽きれながら、日葵は薄まってしまったカフェラテに口をつける。
「…あ、そう言えば荻原くん、なんかの有名人だったな…」
「へぇ!インフルエンサーなの?」
「いや、そうじゃなくて…えーっと…」
汗をかいたグラスに指で適当な絵を描きながら、日葵はむつかしそうな顔で唸る。そしてハッと目を見開くと、人差し指をピンと立てた。
「あれだ!ダンス!ダンスの世界大会で、去年準優勝したんだ!で、その大会の動画の切り抜きがめちゃバズってた!」
そうだった、そうだった!と頷く日葵に、秋の眉毛が大きな山を描く。
「え~っ!すごいね!世界大会!?」
「そ!世界大会ってやばいよね!?」
思わず口に手を当てる秋の肩を、日葵がくしゃくしゃの笑顔で興奮気味に揺らす。
二人は昔、ヒップホップのダンススクールに通っていたことがある。小学生から中学卒業までの9年間、音やリズムに合わせて、体いっぱい表現することに、二人はずっと没頭していた。
曲の世界に浸ることで、自分じゃない自分になれるような…そんな特別な瞬間が、とても幸せだったな…と、今でも思う。
――私が膝を怪我して辞めてから…もう、何年も踊って無いなぁ…。
楽しそうに話す日葵に笑顔で相槌を打ちながら、秋は過去に思いを馳せる。
急に活動休止することになってしまったし、暇だから、久々にスタジオでも借りて踊ってようかな…と考えて、秋は「あっ」と声を上げる。
「そうだ!」
「?」
キラリと目を輝かせた秋が、日葵の肩をガシッと鷲掴む。
「いいこと思いついた!」
「なに?」
「ねっ、早くこれ飲んじゃって!」
「ん?うん」
屈託のない笑みで言う幼馴染に急かされるまま、日葵は残りのアイスカフェラテを急いで流し込んでいく。先に飲み干して立ち上がった秋は、軽快な足取りで、カフェにグラスを戻しに行く。その陽気な後姿に首を傾げながらも、日葵は秋を追いかけた。
――もう授業ないからいいけど…どこ行くんだろ…。
ウキウキしている秋に手を引かれ、畑と一軒家が並ぶのどかな住宅街を歩いていく。15分くらい歩いただろうか。目的地を告げない秋に導かれて辿り着いたのは、昔二人がよく借りていたレンタルダンススタジオだった。
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