第2話

それからエルは、起き上がることも難しくなってしまった。エルフは精神の不調が体に強く出てしまう。先々代の王も、悲しさのあまり寿命よりはるかに短い年齢で亡くなってしまった。

うさぎの体を傷つけた人間を見た日から、水を飲むことも断っていた。怖くて、この人間から何かを受け取ることができない。

人間は見たことのない何かを差し出してエルの傍に置く。おそらく食べ物なのだろう。一度、人参が置かれていた。きっと馬の好物だろう。ぐぅ、とお腹は鳴ったが、手はつけなかった。

人間はそんなエルの様子を見て、動かないエルにため息をついてそばを離れる。何度かこれを繰り返した。




ある時エルは、うまく動かない体を引きずり洞窟の外を目指した。人間がそばでエルを見ていて、馬がエルの行く手を阻んだ。

エルフは数日に一度、排泄をする。

必死に訴えたが言葉は通じず、エルはその場で粗相をしてしまった。

人間は布を取り出してエルに手渡してきた。綺麗にしろということだと思い、土の上を拭おうとするエルの手を人間が少し乱暴に取った。エルは怖くて、悲鳴をあげて涙を流した。人間はエルに何かを言いながら、布で、汚れたエルの体を綺麗に拭ってくれた。何を言っているのかはわからない。しかしその無骨な手に似合わず人間は優しくエルを拭った。

エルに触れる人間に怯えながら、エルは恥ずかしさで消えてしまいたかった。

エルの体調はますます悪くなっていた。



翌日、エルはローブのようなものを被せられ、馬に乗せられた。人間も同じようにローブを被っている。その人間に馬の上で抱えられて、エルはガタガタと震えてしまう。エルは馬の上で白い布を噛まされた。声を上げないようにだろうか。身を捩ってみても、体はうまく動かない。エルは人間にされるがまま、ただ怯えていた。

しばらく、人間はエルを抱えたまま馬を走らせた。洞窟はあっという間に見えなくなり、馬は森を駆け抜けていった。大きな体躯に似合わず、馬はかなり速い速度で走っていく。一体どこに向かっているのだろう。




森を抜けた先で馬を止めて、人間の男は人参を馬に与えた。男はエルを抱えたまま馬を降り、馬の首を撫でてから尻を叩いた。馬は踵を返して去っていき、あっという間に見えなくなった。人間はエルを抱えて歩く。しばらく人間が歩くと、喧騒が聞こえてきた。エルが音のする方をみると、何人か人間がいた。エルフとそう変わらない体格の、耳の尖っていない彼等はきっと人間だ。エルを抱える人間がエルの頭に触れた。ローブを目深に被せられ、周りが見えなくなってしまう。エルは小さくなって震えた。

周りから何か声がする。この人間の男と同じような言葉を話しているように聞こえる。エルは人間がたくさんいる場所に連れてこられたようだ。こんな場所につれてきて、一体この男はエルをどうしようというのだろうか。みんなで分け合って、食べるのだろうか。エルはますます体を縮めて震えた。

ローブで見えづらいが、まったく見えないわけでもない。視界の端に色とりどりの何かが見える。わからないものも、わかるものもある。野菜が並んだ場所の隣に、エルは見慣れたものを見つけた。

「あ!」

エルの一番の好物である林檎が視界に飛び込んできた。エルは思わず手を伸ばす。せめて最後に、死ぬ前に林檎が食べたい。手は届かなかった。しかし人間が立ち止まり、体を屈めたので林檎に近づけた。一つを手に取り、かぶりつく。

「        」

人間が何かを言った。初めて聞く、少し怒ったような焦ったような声に、エルはびくんと体を震わせる。それでもエルは食べることをやめなかった。エルはもう一口頬張る。甘酸っぱくて、懐かしい味が口いっぱいに広がった。林檎はエルの好物だ。果樹園の主の優しい顔がエルの脳裏に浮かぶ。エルはほろほろと涙をこぼした。

「       」

「あははははっ!       」

男の声の他に笑い声が聞こえた。並べられた林檎や美味しそうな果物の奥に人間の女性がいた。エルフの国を襲った人間や今エルを抱き上げている男のような姿と違い、横に体が大きい。優しそうな顔で、口を大きく開けて笑っていた。やはり人間も笑うのだ。こんなに、楽しげに。なぜこの男は笑わないのだろうか。林檎を食べながら見上げると、男は眉間に皺を寄せてエルを見ていた。

人間の女性はいくつかの林檎を物入れに入れて人間の男に差し出した。人間の男は何かを女性に渡し、物入れを受け取っていた。何を渡したのだろうか。エルは男に抱えられたまま林檎を食べ続けた。エルは林檎を食べながら辺りをうかがう。道の両端の家の前に様々なものが並べられている。中には人参もあった。人参の他にも見たことのある野菜が並べられている。男が人参を指さして、野菜の向こうにいる人間に声を掛ける。声をかけられた人間は、人参を袋に入れていた。

エルは人参に手を伸ばすが、男に遮られてしまう。エルは負けじと、もう一度手を伸ばす。男は袋から人参を1本取り出して、エルにくれた。これは馬のご飯ではないのだろうか。エルの分は並べられている中から取ろうと思ったが、どうやらエルは並べられているものを取ってはいけないらしい。エルは人参の表面をローブに擦り付けて拭き、端からかぶりついた。コリコリとした食感がたまらない。そしてほんのり甘い。

気づけば他に人がいない、暗い場所に来ていた。ここで、食べられてしまうのだろうか。

エルは意を決して、人間の腕からすり抜けた。それからエルは駆け出した。好物の林檎を食べて心も体も回復した。エルは風の力で体を浮かせた。

エルフは風の魔法が使える。その力は少し自分の体を持ち上げたり追い風や向かい風を作ったり。台風や嵐ほどの大きな風は起こせないが、便利に使える力だ。風の力で人間の手の届かないところまで吹き上がろうと思ったが、壁に挟まれたその場所ではローブが捲れてしまう程度の風しか起こせなかった。エルは男に腕を掴まれてしまう。好物のおかげで力は戻っているのに、まだ感覚が取り戻せていないらしい。

「  !      !!」

「              !」

男の背後で声がした。男は舌を打ってエルのローブを掛け直し、エルを抱えてその場から駆け出す。

エルの体は震えた。あの言葉と言い方に聞き覚えがある。エルフの国を襲った人間たちが、エルフ達を指さして叫んでいた。顔は笑っていたのに、叫ぶ人間たちからエルが感じたのは悪意だった。思い出して、エルの体はガタガタと震えを増した。

男は立ち止まり、エルを強く抱きしめて息を潜めた。エルも男に体を押し付けてじっと押し黙る。バタバタと足音が聞こえたと思ったら遠ざかっていった。しばらくしがみついていると、男がほっと息を吐いた。エルは恐る恐る顔を上げる。周りには誰もいない場所にいた。

エルの視界がくらりと歪む。久しぶりに使った風の力に、体がついていけていないようだ。エルは手にしていた人参の残りをコリコリと音を立てて食べる。視界の歪みは落ち着いた。男がエルの食べ終わった人参のヘタと握りしめていた林檎の芯を手に取り、物入れにしまった。名残惜しいが、持て余していた食べ終わったゴミがエルの手から離れた。

男がエルの頭と耳を指差し、それから男自身の頭と耳を指差して首を横に振った。エルのフードを摘んでつんつんと引き下げ、エルの目深にフードを下ろす。

エルフと人間とでは頭髪と耳に大きな違いがある。今まで目にした人間は髪が黒かった。対してエルフの髪は真っ白である。耳も、人間の耳は尖っておらず、丸みをおびている。エルフと人間との違いを、男は改めてエルに指し示したのだろうか。エルはフードの端を、ズレないように握った。体を丸めて周りから見えぬように縮こまっていると、男に頭を触られた。撫でるようにトントンと頭を叩かれて、まるで褒められたようで、エルは恥ずかしくなった。

この男の国目的はなんなのだろうか。エルを食べる気配はない。先程の男達から匿い、助けてくれた気がする。

男はまた人間が多くいる道を歩いた。茶色いものが置かれている場所でそれをいくつか袋に詰めてもらっていた。独特のあの焼けるような匂いに、こっそりとフードの隙間から覗くと、別の人間は串に刺さった茶色にかぶりついていた。隣の家では赤っぽいものを串に刺して焼いていた。あの茶色は生き物の肉だ。やはり人間は肉を食らう生き物なのだ。この男に限ったことではないようだ。まるで狼や熊などの獰猛な獣のようだとエルは思った。

ぐうぅと大きな音がエルのお尻のあたりから聞こえた。男のお腹の音のようだ。びっくりして男を見上げると、男は視線を逸らした。顔が、耳まで赤くなっている。恥ずかしいのだろうか。まるで恥ずかしい時にエルフがする仕草のようだ。エルはフードを目深に被り直し、真っ赤な男を思い返す。笑いが込み上げて、唇を噛み締めた。




それから男はまた馬にのり、エルを抱えて走らせた。途中川や池のそばで休憩を取りながら進んでいく。どこに向かっているのか、エルにはわからない。エルは男に抱えられたまま馬上から辺りを眺めたりしていたが、エルフの国から出たことのないエルには地理感がまったくない。ここがどこなのか検討もつかなかった。

エルは暇になるとうとうとと眠ってしまった。男がしっかりと抱きとめてくれるおかげで落ちることなくぐっすりと眠った。

馬で駆ける中でわかったことがある。人間の言葉だ。全てはわからないが、断片的に理解できるようになった。

「みず」は水のことだ。

「りんご」は林檎のことで、頷くと男は先日手に入れた林檎を取り出してくれた。なくなればまた、人のいる場所に行って持ってきてくれた。

男はいつもエルに見えないように乾いた茶色を食べた。エルフと人間は似ているが、食べるものに違いがあるらしい。

エルは覚悟を決めた。

池のそばで休憩を取っている時に、エルは風の力を使ってウサギを足止めして抱き上げた。嫌がって暴れるウサギを男の元に連れて行く。男にウサギを差し出すと、男は首を傾げた。男にウサギを渡し、エルは少し離れて馬のそばに腰掛けた。耳をふさいで目をつむる。しばらくじっとしていると、肩を叩かれた。男は抱えていたウサギをエルの目の前で逃がした。男は乾いた茶色を手に持ち指差す。ウサギの逃げた方を指さして首を横に振った。ウサギは食べないようだ。男はエルに林檎を、馬に人参を渡してくれた。

もしかしたらエルを気遣ってウサギを逃がし、食べないようにしたのかもしれない。申し訳なく思いつつ、エルはあの凄惨な現場を見ずに済んで、ほっとしていた。




それからまたしばらく馬を駆けてたどり着いたのはボロボロの小屋だった。以前は人が住んでいたのだろう。家具がおかれていて、埃っぽくなっている。棚の上の絵を手に取り、男はしばらく眺めていた。エルが男に近寄って見ると、そこにはシワシワの女性と男らしき人物が描かれていた。男にしては小さく、もっと子どものような顔をしている。もしや男の子どもだろうか。男はエルの頭をポンポンと叩いて絵を伏せて棚に置いた。

「       」

男は何かを言いながら床を指差した。それからテーブルに荷物を置く。男は窓を開けた。窓はギシギシと音を立て、衝撃で埃が舞う。エルは室内を見渡した。テーブルとキッチンと、扉がいくつかある。エルは男の腕を引いた。

「口を、閉じてて。僕、風の力で、お掃除するから」

口に両手を当ててから男の口を指差す。伝わったらしく、男は両手で口を覆った。

エルは扉を開けて、部屋の中で風の力を使った。弱い風が舞い上がり、開け放たれた窓や扉を抜けていく。積もっていた埃はある程度風の力で外に掃き出されていった。

風が落ち着き、男が両手を外す。男がエルの頭を撫でた。

「     、     」

「へへ…えへへ」

エルが笑うと、男は頷いた。少し笑っているように見えた。初めて見る彼の笑顔に、エルは目を丸くした。




それからしばらくその小屋で過ごした。野宿をするよりもだいぶ居心地が良かった。

エルフの国がどうなったのか、エルフ達はどうなったのか。気になることは多々あるが、ひとまずこの人間はエルに危害を加えることはなかった。食べようとすることもなかった。共に過ごす中で少しずつ意思の疎通ができるようになり、互いに言葉を覚えていった。

「えぅ、りんご、たりるか?」

「うん。あのね、あったらね、花の蜜とか、ないかなぁ。僕ね、甘くてとっても好きなんだ」

「はな…はな、の?なんだ?」

「うん、花の、蜜。お花…あ、ほら、これ、お花。甘い、蜜」

エルは外に出て、咲いていた野草を摘んで男に見せる。

「は みつ、か?わかった。さがしてくる」

「ありがとう。行ってらっしゃい、ひゅぅ」

彼がなんと言ったのか、エルにはわからない。伝わっただろうか不安だが、外に出る男にエルは手を振った。男は人間達のいる場所に行って必要なものを『買って』きてくれる。エルフの国にはなかったが、人間は『お金』を使って欲しいものと交換をするそうだ。初めて人間のいる場所に行った時に林檎を食べてしまった時に彼が焦っていたのは、買う前だったからだそうだ。普通なら怒るところを、林檎を売っていた女性は怒らず笑ってくれたそうだ。

男の名前は『ひゅぅ』と言った。言語が違うので正しい発音ではないかもしれない。何度か聞いて、ひゅぅと呼ぶと振り返ってくれるので、エルはそう呼ぶようになった。

『僕は、エルだよ』

『え、う?』

『エル、だよ。エ、ル』

『え、ぅ、えぅ』

エル自身の名前も何度か伝えてみたが『えぅ』と言うひゅぅにエルは頷くようになった。多少違っていても伝わればそれでいい。難しい言葉や長く話すとお互いわからないこともあるが、今二人で過ごしている分にはどうにかなっていた。

ひゅぅはこの小屋にいる理由も教えてくれて、いずれエルフの国に帰してくれると言ってくれた。

『エルフのくに、つれていく。まだ、   。まつ、してくれ。じょ ほ が、ほしい』

最後はうまく聞き取れなかったが、ここで待っていれば連れて行ってくれるらしい。エルは行く宛がない。ひゅぅが連れて行ってくれるのを待つことにした。

ひゅぅが出かけるときは小屋の中で待った。なるべく他の人間に見つからないように。これもひゅぅから言われたことだ。

別の人間に捕まればエルフの国にいけなくなると聞かされた。細部は違うかもしれないが、そういうような話だった。エルはエルフの国に帰りたい。エルはひゅぅの言うことを聞くことにした。

ひゅぅはいつもエルの望むもの、好きなものを買って戻ってきてくれる。林檎や人参、桃などの果実や木の実など。ひゅぅは、人間はやはり良いものなのだ。エルの胸には先々代の王の話が深く刻まれている。




ある時先々代の王は、森の中で人間を助けた。人間は迷い込み行き倒れてしまったようだ。王の助けで人間は回復し、王が助けたことをとても喜んでくれたそうだ。

そして人間は、人間の国の王様だった。彼は様々な物資や知恵をエルフの国にもたらしてくれた。エルフの国は城が石でできている。資源の関係で城だけしか石造りにできなかったが、その作り方や設計図は人間から譲り受けたものだった。

人間の王はエルフにとても親切にしてくれた。

そしてその後、人間の王から『エルフの国を閉じたほうが良い』と進言されて外との交流を絶った。外には悪いものもいるから、というのが理由だった。

人間の王を含めて、エルフの国に来た人間達は良い人達だった。もしも人間がきたら、温かく迎えてあげましょうと、手記に記されていた。エルは先々代の王に会ったことはない。悲しさ故に、寿命よりも若くして亡くなってしまったからだ。

先々代の王の悲しさと辛さについても手記に記されていた。それは人間の王のことだ。先々代の王の悲しさは、まるで自分のことのようにエルの中に息づいている。

思い返していた時、小屋の扉が開いた。ひゅぅの姿が見えて、エルは駆け寄った。いつもひゅぅはエルの好物を持って帰ってきてくれる。ひゅぅは琥珀色の何かが入れられた小瓶をエルに見せてくれた。

「は みつ、だ」

どうやら花の蜜のようだ。蓋を開けて指を突っ込んで、その指を口に含む。甘い花の香りが鼻を突き抜けて、エルは声を上げた。

「んふぅ…おいひぃ〜」

とても甘くて、美味しい。美味しくて幸せで、風の力を開放して踊り狂いたい衝動に駆られてしまった。これだけの蜜を採れるとは、人間はどのような方法で蜜を取っているのだろうか。

喜ぶエルとは反対に、ひゅぅの表情は暗い。

「ひゅぅ?」

エルが声を掛けると、ひゅぅは時間を置いてこたえた。

「えるふ…   、…やみ、の、えるふ、」 

エルは息を呑んだ。やみのえるふ、とは、闇の、ダークエルフのことだろうか。ひゅぅはまた少し口を閉ざしてから掠れた声を発した。

「にんげん 、くに、…こわれた」

ひゅぅの話はおそらく、闇に堕ちエルフが人間の国を破壊したということのようだ。エルは血の気が引いて、目の前が真っ暗になった。

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