エルフのエルと人間のヒュー(BL)【完結】
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第1話
ここは、おそらく他のどこよりも美しいエルフの国。
断言できないのは他所の国に行ったことがないから。
しかし、きっとそうに違いない。
だってこの国はこんなにも美しいのだから。
side エル
エルフのエルは、エルフの国の王子様である。長く白い髪に白い肌、尖った耳。少年とも青年ともつかない容姿の彼は、やっと100歳になったばかりだ。エルフは長寿で容姿があまり変わらない。まだ数十年しか生きていない幼いエルフに比べたらお兄さんではあるが、他のエルフ達と比べると、エルはまだ少し年若い。
森の奥深くにエルフ達は暮らしている。この場所にたどり着くのは森の動物達くらいなもので、エルフ達は国を形成している他の種族を見たことがない。書物にどんな種族がいるのかは残ってはいるものの、実物を見たことがある者はいなかった。ドワーフや魔族、人間といった種族がいるらしい。先々代の王の頃に国を閉ざしてしまってから、訪れるものはいないしエルフ達自身も外へ出ようとはしなかった。
『国を閉じ、他を寄せ付けぬよう暮らす』
先々代の王が治めていた頃からエルフに根付いている教えだ。その頃に何があったのかは分からないが、先々代に良くしてくれた人間が教えてくれたそうだ。エルフは希少な種なので他種族に見つからないように隠れ暮らしたほうがいい、と。その人間はとても良い人間で、先々代の王は彼を信じて国を閉じた。先々代はそれから間もなく亡くなってしまい、現在の王がエルフの国王の座についた。エルと同じくらいの年の頃に王となった現在の王も、もう200年ほど王様として職務を果たしてきた。そろそろ次代の王へと、白羽の矢が立ったのがエルだった。
エルは今、次に王様となる王子として日々を過ごしている。
エルフは王族がいない。世襲がない。世代交代の時期に100歳くらいのエルフが王に選ばれる。人数の少ないエルフ達は意思の統率が取りやすい。エルフは新たな王を皆で支えて国を存続させていく。そうして長い時間、他を知らずに過ごしてきた。
そのため、攻め入られた今日のような場合はどうしたら良いのか。知る者はもういなくなってしまっていた。
穏やかな晴れの日、エルは日課の見回りをしていた。国や民に異変がないか見て回るのも王子としての責務だ。いつも特に大きな異変はなく、果樹園を管理する年嵩のエルフのカジュから大好きな林檎をもらう。これもまたいつもの、エルの日課だ。
しかしその日は、エルフではないがエルフのような、しかしエルフ達よりもがっしりとした体つきの生き物が森から国へと続く橋に現れた。馬に乗り、何人もの人数で入ったきた彼等が人間であると、エルはすぐに気付いた。城にある書物で見たことがある。ドワーフや、魔族であるゴブリンはもっと背が低い。エルフとそんなに変わらない背格好、大きな違いは耳が尖っているかいないかだ。遠目にも彼等の丸い耳が見えた。
人間は親切で、とても良い生き物であると教えられてきた。書物にもそう書いてある。初めて見る人間にエルの胸は高鳴った。
入口から入ってきた人間達は地鳴りのような声で何かを怒鳴っている。不穏な空気にエルは首を傾げた。なぜあのような恐ろしい声を出すのか。男性のようだがエルフとは声の質が大きく異なる。エルフは男性も女性も似たような高く穏やかな声色だ。あのような獰猛な唸り声は出ない。
人間の一人が女性のエルフの腕を掴んだ。その手を離してやろうとした男性のエルフは直ぐ様、無惨にも切り捨てられてしまった。女性のエルフの悲鳴を皮切りに、あちこちで血しぶきが上がる。突如始まった人間による暴挙に、エルフ達は悲鳴を上げて逃げ惑う。逃げ惑うことしかできなかった。
「城へ…みんな、城へ!」
エルは叫んだ。石でできた城は他の建物よりも頑丈に作られている。扉を閉めれば人間達も簡単には入ってこられないはずだ。この城の建設方法も先々代が人間から教わった。人間はエルフに親切で心優しい種族だ。そのはずだった。
城である国の中心にある建物の中で、エルは方々から聞こえる悲鳴に怯えていた。こんな時どうしたら良いのか。エルのお付きのエルフ達がエルを囲んで戸惑っている。
「一体なにが起きたんだ?なにが、起こって…」
玉座にいた王も頭を抱えていた。王の周りにいるエルフも恐怖に怯た表情を浮かべていた。
他にも数名、逃げ込んできたエルフが身を寄せ合っていた。しかし、ついに城の扉が開け放たれてしまう。大きな体の人間はエルフ達を指さしていた。その手にはエルフの首が握られていた。
大きな体の、エルフとそう変わらないあれは人間だ。人間のはずだ。もしかしたら、違うのだろうか。
どうしたら良いのか。どうすれば民を守れるのか。
恐怖で悲鳴をあげるエルフ達の中でエルは必死に考えた。考えていないと悲鳴をあげて泣いてしまいそうだったから。
あの首は、あのエルフは果樹園のカジュだ。物知りで、林檎が好きなエルのために美味しい林檎を作ってくれた。
何故このような無体な目に会うのか。エルは叫んだ。
「みんな!窓から、逃げて!遠くへ、どこか、遠くに…」
人間が間近に迫ってきた。エルの目の前に、王が両手を広げて立ちはだかった。エルの前には王様の背中がある。王様はゆっくりと崩折れる。王様は目を見開いて体を震わせている。王様の首から下の床が、血まみれになっていった。
エルは血濡れた大剣を持つ人間に両手を広げた。せめて今、この場で生きている仲間を守りたい。エルはこの国を任された王子だ。
「もう、これ以上、や、やめて…」
エルは必死に声を絞り出した。伝わっているだろうか。この人間は王を亡き者にした。果樹園のエルフの首と命を奪った。これ以上この国から何も、奪わないで欲しい。
人間はニタリと笑った。人間も笑うのだとエルは知っている。先々代の王の手記で読んだ。ただ、この笑顔は見たこともない類のものだった。こんな顔で笑うエルフはいない。こんな表情、見たことがない。
人間はエルの腕を取った。
切られる。あの大きな剣で、王様がされたように、ばっさりと。
エルは呼吸を止めた。怖くて息ができない。人間は何かを言っている。何を言っているのかわからない。エルは顎を掴まれ、人間はぐっとエルに顔を寄せた。人間の唇の間から舌が伸びてきた。人間にも舌があるのだ。人間もエルフも体の作りにそう変わりはないように見える。人間は耳が尖っておらず、エルフに比べると体が大きく色素が濃い。その程度の違いしかない。
「 」
別の方向から、怒鳴り声が響いた。また別の人間が城の中に足を踏み入れていた。
エルの右腕は強く引っ張られた。人間に掴まれた右腕に、銀色の何かが掠めていく。引っ張られたと思ったら唐突に解放された。右腕に妙な重みを感じる。
人間の左手の手首から先が、血を噴いてエルの腕にくっついていた。
エルを掴んでいた人間の左腕は、手首の先から血を吹き上げていた。
人間の左手の手首から先がなくなって、エルの右腕に絡みついている。
「っひ…ひ、いっ」
エルは喉を引きつらせた。
駄目だ。仲間を逃さなければ。一人でも多く、エルフの民を救わなければ。
そう思うのに、エルはもう限界だった。見知った人々の無残な最期を見せられて、もう意識を保てなかった。エルの目の前は真っ暗になってしまった。
目を覚ますとエルは土の上に敷いた布に横たわっていた。薄暗いここがどこなのかわからない。辺りを見渡すと、どうやら洞窟のようだ。
ぼんやりと霞む頭でエルは考える。一体どうして、エルはこんな場所にいるのだろうか。どうして寝ていたのだったか。
「あ…あぅ、っ」
思い返して、エルフの国の血に塗れた光景が目に浮かんだエルは小さく悲鳴を上げた。震える体を鎮めようと、エルは自身の両肩を掴む。あれは夢だったのだろうか。
「 」
声をかけられてエルは飛び上がった。洞窟の入口に人影があった。
人間だった。薄闇の中、逆光だがわかる。エルフに似た姿形で、エルよりも大きな体のこの人は、エルフの国を、エルフ達を蹂躙した人間のうちの一人だ。記憶の最後にあるのは、仲間である人間の腕をはね落としていた姿だ。
なぜこの洞窟で、エルはこの人間の男と対峙しているのだろう。他のエルフ達は、国はどうなったのだろう。エルは恐る恐る尋ねる。
「あ、の…僕の、国、エルフの国は、どうなりましたか?エルフ達は、他、の、みんなは、今、どこ、に…どう、して…あんな、ことを…」
人間の男は眉間に皺を寄せた。機嫌を損ねてしまったのだろうか。エルは慌てて口に手を当てる。眉間に皺の寄った男の顔はとても怖かった。いつもエルフ達は穏やかな表情を浮かべていた。こんな顔、見たことがない。
「ご、ごめん、なさい」
「 」
エルは小さな声で謝った。人間がまた何かを言ったが、聞き取れなかった。
人間の言葉がわからない。エルフの国を襲った人間達も何かを叫んでいたが、内容がわからなかった。
人間とは言語が違うらしい。人間が何を求めているのか、何を思っているのか、何一つわからない。
人間は少しその場に留まり、エルに近づいてきた。エルはぎゅっと自分の口を抑えて、泣いて叫んでしまいそうになるのを必死に耐えた。
男はエルの前に何かを置いた。木の器だ。目の前に置かれた木の器に、男は革袋から液体を注いだ。男は何度も同じことを呟いた。
「いず」
「ぉむ」
男は液体を指さして『いず』、両手を丸めて器のようにしして自身の口元に持っていって『ぉむ』と言う。
男を見つめるエルに、男は木の器を持ち上げて差し出してきた。エルは目の前に突きつけられる器を手に取り、液体の匂いを嗅いだ。無臭で透き通ったそれは水のように見える。舌を伸ばして液体にふれると、やはりそれは水のようだ。少し舌先が潤って、エルは急激に喉の渇きを覚えた。エルは一気に水を飲み干した。喉に痛みすら感じた。エルは一体どれほど眠っていたのだろう。水分が体中に染み渡っていく気がした。
男は革袋を掲げた。エルはこわごわと器を男に差し出す。おかわりがほしい。男は頷いて、水を器に注いでくれた。エルはまたグビグビとそれを飲んだ。飲み干して、エルはほっと息を吐く。男は変わらずエルを見つめていたが、眉間の皺が少し取れていた。
「お、お水、ありがとう。おいしい、です」
エルは礼を言った。男は少し間を空けて、革袋を持ち上げた。エルは首を横に振る。もうおかわりはいらない。男は少し戸惑った顔をしたが、革袋を地面におろした。おかわりがいらないことは伝わったようだが、お礼は伝わらなかったようだ。
男はまた何かを呟いて、エルに手を伸ばした。エルは器を取り落としてしまった。男の手がエルのお腹に伸びてきたからだ。エルは驚いて後ずさり、両手で腹をかばった。
男は直ぐ様腕を引いた。男はまた何かを呟く。
「 ら、 ってな か」
男は自身の腹を指さして何かを言っている。何を言っているのかわからない。
「あの、わ、わからない、です。ご、ごめんなさい」
落としてしまった器を拾い、エルは男の前に置いた。エル自身は男と距離を取り、腕を伸ばして器だけを男のそばによせる。男は器を少し眺めて、また水を注いだ。器をエルの方へ寄せていた。もしかしたらおかわりをねだっていると思ったのだろうか。エルは泣きそうになりながら首を横に振った。
「あ、もう、いらないです。お水…」
そっと男に器を戻す。戻してから、失礼だったかと思い返す。男は頷いて、器に入った水を飲み干した。エルの、水はもういらないという意思表示は伝わったのだろうか。
エルは男に笑いかけた。仲良くするために、笑顔は大切だ。エルフの国では、人々はみな笑顔で穏やかに過ごしてきた。
水を用意してくれた。人間は親切で良い生き物だ。国の書物で学んだ通りだ。言葉は通じなくても、きっとわかりあえる。
血に濡れた王と果樹園の主の首が頭に浮かんで震えてしまうが、きっと大丈夫。この人間はきっと良い生き物だ。
だって人間だから。
エルは何度も自身に大丈夫だと語りかけた。しかし人間は笑い返してはくれなかった。
男は顔を背けた。そのまま人間は立ち上がり、背を向けしまった。人間は人間の背後に合った荷物を解き、何かを取り出している。笑いかけるのは良くないことだったのだろうか。でも人間も笑っていた。エルの腕を掴んだ男は、エルを見て笑った。きっと笑顔には同じ意味がある。友好や友情や愛情といった、良い感情を込めた親愛を現すものだ。
男は何かを手にしてまたエルの前にやってきた。茶色い何かをエルに差し出した。エルは受け取り、まじまじと眺める。茶色いそれは、乾燥した何かだ。一体なんなのか、わからない。
ぐぅ、と音がして視線を上げると男は腹を擦っていた。少し口を尖らせたように見える男は茶色い何かにかぶりついた。ブチリと音を立てて歯で噛みちぎり、口の中に入れてしまった。どうやらこれは食べ物のようだ。匂いを嗅いでみると独特の臭みがある。エルは両手でそれを持って男を眺めた。また男は茶色を歯でくわえて噛みちぎる。男はエルの視線に気づき、自分の腹を指した。
「ぁら った 、 」
男はゆっくりと何かを話し、トントンと指先で自身の腹をついた。何を言っているのかわからないが、彼は何かを伝えようとしている。腹に入れろと、つまり、食べろということだろうか。彼はまたムシャリと口に入れた。どうやら彼はこれがとても好きなようだ。モリモリと口に運んでいる。エルはぺろりとその尖端を舐めた。なんだか獣の臭いがする。思わず顔をしかめてしまったが、せっかくのおもてなしを無碍にするわけにもいかない。懸命に、何度も噛みついてみた。男のように豪快に引きちぎることはできなかったが、ふやけたのか端の部分がエルの口の中に転がり込んできた。
「んぇっ…」
独特の生臭さがあった。エルは吐き出しそうになるのをすんでのところで堪えた。男は何度も噛みちぎっている。きっと彼の好物だ。それを吐き出すなんて、きっと男は善く思わないだろう。小さなカケラをほぼ噛まずにエルは飲み込んだ。エルは人間に笑ってみせる。
それからエルは茶色の物体に何度も何度も噛みついたが、ついに噛みちぎって飲み込むまでは至らなかった。男はとっくに食べ終わってエルを見つめている。
エルフの食事は木の実だったり花の蜜だったり花そのものだったり、果物を食べて生きている。特にエルは果物が好きだが、エルフ達はそうしたもの以外はほとんど口にせず生きる。そもそも食事自体がそう重視されたものではない。飲まない食べないわけではもちろんないが、少しの量で事足りる。
「も、もう、食べられない、です」
恐る恐るエルは人間に茶色いものを差し出した。人間は何かを言っていたが、何を言っているのかわからない。男は少し迷って、それを受け取って食べ始めた。まだ食べるのか。エルは驚いてしまった。人間とはこんなに食べるものなのか。エルの渡したものはあっという間に人間の手から消えた。
人間はまた器に水を入れてエルに差し出した。エルは頷いて飲み干した。口の中にあの茶色の何かの臭いが残っていて、それを水で流し込んだ。少しさっぱりとした口内にエルはほっとした。
「お水、ありがとう」
エルは人間に器を返す。革袋をエルに向けて掲げる人間に、エルは首を横に振る。人間は頷いて器に水を注ぎ、水を飲んでいた。今度はきちんと『水はもういらない』と伝わったようだ。
「…えへ、へへっ」
エルは嬉しくなって笑ってしまう。人間は目を開いてエルを見た。何か、変だっただろうか。エルは慌てて口元を手で覆った。笑うことも相手が笑っていることも、この人間は好きではないのだろうか。
先々代の、人間に親切にされた王の手記に書かれていた。出会った人間の、『彼』の笑顔が好きだったと。『彼』も、王の笑顔を美しいと言ってくれた、と。
少しだけ意思の疎通ができた。言葉が通じなくてもこうして交流ができることをエルは知った。
『どうしてエルフのみんなを傷つけたの?』
一番聞きたいことは、聞けないままだった。
暗闇の中、うめく声が聞こえる。
怖くなったエルは逃げようともがくが動けない。体には王がしがみついている。足元に果樹園の主の首が転がってきた。王と果樹園の主の首が口を開く。
『どうして、お前だけ』
「ぅ、あ、ああぁあああっ!」
「 」
叫び声が聞こえて、また別の声も耳に入った。叫んでいるのはエル自身で、別の声は人間の男だった。間近にいる男に驚き、エルは飛び退いた。
「あ、あっ、あーーーーー!!!」
人間はすぐさま間合いを詰めて、エルを胸に抱きとめた。エルは人間の胸を殴りつけて暴れる。人間の体は硬く、びくともしない。エルは仰け反って叫び、そのうちに、背中に何かが当たっていることに気付いた。一定の間隔でエルの背中に当たるそれは男の手だった。まるで慰めるかのように、親が小さな子供にそうするように、男はエルの背中を叩いていた。エルは叫ぶのも暴れるのもやめた。代わりのように涙がぼたぼたと溢れ落ちた。
「あ、ぁ…うぁ、あ、あぁあ、わぁあん」
エルは幼い子供のように涙を流した。きっと人間も、癇癪を起こした子供を落ち着かせる行動は同じなのだろう。エルフと人間には共通点が沢山ある。今のエルには悲しいほどに。
この男はエルフの国を壊した人間の一人だ。なのになぜエルに優しくするのだろう。エルにはわからない。言葉がわかれば真意がわかるのに。
『どうして僕は、生きているの?』
聞きたくても言葉は通じない。通じたとしても今、泣きじゃくるエルには話すことができなかっただろう。
長い時間泣いて、人間はまた水を器に注いでくれた。泣きすぎて枯れてしまうかと思ったエルは喉を潤した。
茶色い何かを食べてから、気づけば夜になっていた。言葉が通じない人間と過ごした日中。言葉も通じなければこの人間は表情が乏しく口数も少なかった。エルも静かな人間にあまり話しかけてはいけないのかと大人しくしていた。
外に出ようとしたが人間に行く手を阻まれ、洞窟の外に行くことは叶わなかった。彼は洞窟の入口に座って外を見つめている。何を見ているのだろう。ここはどこなのだろう。エルフ達は、みんなは今どうしているのだろう。国はどうなったのだろう。
最初に横になっていた布の上に再度横になり、エルは気づけば眠ってしまっていた。目が覚めたら、人間はいなかった。エルは恐る恐る洞窟の外に顔を出す。外はエルフの国とはまた違った森の中ようだった。
エルは洞窟から足を踏み出そうとして、行く手を阻まれてしまう。洞窟の目の前に大きな黒い馬が立ちはだかっていた。馬はじっとエルを見つめている。毛並みの良い立派な馬だ。少し見惚れたエルは馬に話しかける。
「あの、こんにちは。ここがどこか、お馬さん、知ってる?」
馬はぶるっといなないて、鼻先でエルを洞窟に押し込んでしまう。外に出たいのに、その馬はエルを洞窟から出してはくれなかった。
エルは馬のたてがみに触れた。少し硬い。良く手入れのされた馬だ。
「あの…僕、外に出たいのだけど…ねぇ、君はどこの子?僕を乗せて、エルフの国に、行ってくれない?」
「 」
馬が返事をしたのかと、エルは飛び上がってしまった。聞き慣れない言葉の聞き覚えのある声は、人間の男のものだった。
男は片手にうさぎの耳をひとまとめにして持っていた。耳が痛そうで可哀想だと思ったが、よく見たらそのうさぎはぴくりとも動かない。死んでしまっているようだ。
亡くなってしまったその子を埋めてあげるのだろうか。
馬は男に近寄り、頭を擦り付けた。男は馬を撫で、馬は嬉しそうにしている。男が馬の首筋を叩くと馬はぶるると鳴いて少し離れたとこに寝転んだ。どうやらこの男の馬のようだ。馬は男にとても懐いていた。馬に好かれるということは、やはりこの人間は良い人間なのだろう。
「 」
うさぎを洞窟のすみに置き、人間はエルを洞窟の奥に促した。エルは寝床となっている布の上に座った。人間も洞窟の入口に座り、いつものように外を見つめている。エルは膝を抱えて地面を見つめた。また長い1日が始まった。
その日も定期的に人間が水をくれて、茶色の何かを差し出してくれた。水は飲んだが、茶色のそれは首を横に振って断った。首を横に振ることで拒否を示す。これは人間にも通じているようだ。人間は何かを話しながら茶色のそれを差し出してきたが、エルはそれを拒否した。失礼ながら美味しくないし、エルフはそんなに食べなくても平気だから。しかし食べなくても平気とはいえ、何も口にしないというわけではない。木の実や花の蜜をエルフは好んで口にする。花の蜜や果物なんかは最高で、エルの好物だ。外に出られず、人間と話ができないエルは自分で取りに行くことも叶わない。じんわりとエルの目尻に涙がにじんでしまう。
涙を振り払うように、エルは茶色のそれを歯で毟り取って食べる人間を見つめた。人間はよく食べた。定期的に茶色のそれを接種している。食べる人間を見ていると驚いて、あっという間に食事の時間は過ぎた。集中しているせいか、人間の食べる速度の速さのせいか。食事の時間だけはすぐに時間は過ぎ去った。
あとは言葉もなくじっと洞窟の中で過ごしている。あれから何日たったのか。たぶんほんの数日だ。なのに、とても長い時間が過ぎたように感じる。エルフの国では毎日が穏やかに過ぎていた。今は薄暗い洞窟の中、何もせずじっと時間が過ぎるのを待っている。
これからどうするのか、エルは一体どうなってしまうのか。エルフの国のみんなはどうしているだろうか。先が見えず、答えの出ない問いにエルの気持ち話をどんどん重く暗くなっていく。
エルの心情に呼応するように、洞窟の外も暗くなっていった。やっと一日が終わっていく。そろそろ人間の食事の時間だ。茶色を食べる人間を眺めてから寝てしまおうと思っていたが、人間は洞窟の外に出ていった。外に薄明かりが見える。火を炊いているようだ。洞窟の入口の傍には馬がいて、エルを見つめている。
「大丈夫。外に、出ないよ。僕、逃げない、から…あの人は、何をしているのかな」
話しかけてみたが、馬は脱走するつもりはないエルをわかっているのかいないのか。ぶる、と鳴くだけで答えはくれなかった。馬が答えるはずがない。わかってはいるのだが、誰とも、人間とも会話のできないエルは馬に話しかけた。そうでもしないと、言葉を忘れてしまいそうだった。
洞窟の外、そう遠くない場所に男はしゃがみ込んでいた。焚き火の傍にいる男の前には切り株がある、何かが置かれている。そういえばさっき、男はうさぎを手にしていた。
「ひ…キャアアアァァア!」
エルは金切り声を上げた。エルの絶叫に驚いた馬がいなないて走っていってしまう。エルは洞窟の奥に駆け出した。寝床にしている布を被って丸くなった。
男の影から見えたのは切り株に乗せられたうさぎで、うさぎは男の手によって切り開かれていた。
笛の音が聞こえた。男が口笛を吹いたようだ。間もなく馬の蹄の音が聞こえた。驚かせてしまった馬は男の呼びかけに応えて帰ってきたようだ。馬に謝らなければと思うのだが、エルは体が動かない。裂かれていたうさぎと王の姿が重なる。エルはがたがたと震えていた。
しばらくして肩を叩かれた。
「 」
何かが焼けた、嫌な匂いがする。エルが布から顔を出すと、男が何かを差し出していた。焼けた茶色のそれは一体なんだろうか。茶色の物体。それはもしかしたら、生ける者の肉ではないだろうか。火の傍でうさぎの遺体を引き裂いていた。焼けたこれはきっとうさぎの
エルは口を押さえて顔を背けた。口を押さえないと、また叫んでしまいそうだ。
馬があんなに懐いている。定期的に水をくれる。人間は良いものだ。
そう思いたいのに、人間はうさぎを傷つけていた。まさか、エルフの国を襲ったのも、食べるためだったのだろうか。エルは恐怖のあまり涙をこぼしてしまった。
エルは布を被った。もう何も見たくなかった。何度か男が声をかけてきたが黙っていた。すると、背中に何か感触があった。男はそっと、エルの背中を叩いたようだ。男の気配が遠ざかる。
どうしてうさぎに、あんなことをするのだろう。その手はとてもやさしいのに。
エルは布に包まって泣き声を噛み殺した。
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