第4話
受刑者たちはまばらな拍手だった。
「もっと讃えてくださいよ。八十六歳のわりに頑張ったんですから」
楠本がそう茶化すも受刑者はもはや顔面の筋肉が痙攣していた。
「おっさん、まじでやべえな、俺、こういうの負けたことなかったんだけどな」
後からゴールした若者にそう言われて、楠本は頭を掻いた。
「いや、お兄さんが早かったから僕も頑張れたんですよ」
とはいえ、楠本はまだ老化防止を油断していなかった。むしろ刑期はまだ二五〇年も残っている。一〇〇年を過ぎたころにさらに五十年短縮されて二〇〇年となったが、あと一〇〇年をどう生きるか、常に楠本は思考を回し続けていた。
「体力の衰えはない。体の不調も特にない。肌のアンチエイジングは意識していなかったが、糖質の不摂取という徹底した食事管理と運動で副産物的にできていた。あとの一〇〇年、これで乗り越えらえるだろうか」
壁と向かって様々な角度で一〇〇年を生き抜く方法を投げかけた。しかし楠本の中二浮かんで来る答えはどれもNOだった。だからと言って食事量や運動量を増やすという単純なことではない。
「やりたいことだ……」
楠本は鼓動が大きくなった。老化による心筋梗塞かと思ったが違った。身体が本能的に正解を導いたことで興奮したのだ。科学的根拠があるかどうかわからない。しかし、刑務所に入る前に接した、やたら長生きしている老人はみなやりたいことがあった。そうだ。やりたいことを常に念頭に置いておけば、一〇〇年以上長生きできるかもしれない。
「俺のやりたいこと……」
楠本は思考を回した。勉強? 長生きのための食事? 体力づくりのための運動? どれも違う。完全に長生きすることの手段が目的化されている。
「殺しだ……」
楠本は心の中に小さな鮮やかな緑の若葉が生えてきた感覚だった。そうだ。俺は殺しがしたくてたまらないんだ。殺しこそが最大の快楽なのだ。楠本は一〇〇年前に十人を殺害した記憶がよみがえった。包丁がずぶずぶと人体へ侵入していく感覚。肉の繊維を断ち切る感覚。気づけばズボンの股間部分が濡れていた。触るとぬらぬらした液体が付着していた。いつの間にか絶頂を迎えてしまっていた。
陰茎をいたずらに刺激して病気にならないように、自慰行為は随分前に控えていた。
「いや待て、殺したい願望を我慢すればストレスになるんじゃないのか……」
最大限回避してきたストレスをここで抱えるわけにはいかない。しかし、数十年ストレスを抱えない思考方法を編み出してきた楠本にとって、これは難関でも何でもなかった。
「殺したい願望は希望じゃねえか。これのどこにストレスがある。ここまで百年生きてきた。難しいことをする必要はない。同じことをもう一〇〇年すればよいだけだ。千年一万年一億年生きろと言われているわけじゃねえ」
楠本は数十年ぶりに復活した殺人欲を決して表には出さずに胸の中に秘め続けた。自分だけが覗ける秘密の宝だった。刑務官や他の受刑者には「なんでこのじいさんは刑務所に入っているのか」と言われ続けた。その度に謙虚に礼を言いつつ、過去の罪を謝罪し続けた。そうすればさらに刑期が短くなるのではないかとひそかに期待したが、さすがに一五〇年以上は減刑されることはなかった。もう一〇〇年を生きている間に刑務官は次々と定年退職し、受刑者は出所しては戻ってきて獄中で死ぬ者も珍しくなかった。彼らの死に様を見ながら、自分は必ず生き残ってやると胸に刻み込んだ。その強靭な精神が心身を老いさせず、二〇〇年の刑期を全うするに至ったのだった。
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