第3話

 三百年以上生きるためには何をすればよいか。まずその知識をつけなければならない。

 しおらしくした楠本は刑務官に頼んで健康や寿命に関する本を借りられるようになった。

「せめて牢屋の中で長生きしたいんです」

 適当な言い訳は刑務官の嘲笑を得るのに十分だった。

寿命はテロメアというDNAの末端部分を科学的に操作して修復しなければどれだけ健康的な生活を送っても三百年生き続けることは不可能らしい、ということがわかってきた。

「じゃあどうすればいいんだよ」

 食事は否応にしてバランスの取れたメニューで食べすぎることもない。ただ糖質は老化にダイレクトに影響してくるらしく、白ご飯は口をつけないようにした。たまに出されるデザートには糖質がかなり含まれており、これも食べるのを避けた方が良い。他に食い意地の張っている受刑者がいるからそいつに食べさせようと楠本は考えた。あとは運動だ。脱獄前に続けていた筋トレは引き続き行うとして、自由時間で庭が解放されるときはグラウンドを走った。ただ走りすぎると膝の軟骨がすり減ってしまう可能性もあり、最大十周までとしていた。たまに「お前また脱獄する気か?」とからかわれた。

「いや、ちゃんと刑期を全うするまで生きようと決めたんだ」

「お前、三百年以上あるんだろ。無理に決まってる」

 がはは、と刑務所たちは楠本を一斉に馬鹿にした。以前ならば掴みかかっていたかもしれないが、楠本は深呼吸してその場を離れた。ストレスを抱えることは寿命を短くすることになる。ここは「馬鹿にされた」という発想ではなく「あいつらが笑ってくれて良かった」と思うことにしよう。

 楠本自身も意識的に笑うことにした。一人でいるときも意識的に頬を持ち上げた。楠本はタバコや酒が嫌いで良かったと今さらながら思った。楠本と同じ一〇〇年レベルで懲役刑を食らった囚人たちは刑務所に入る前の不摂生が祟ったか、もう二度と娑婆に出られない絶望でストレスが溜まったか不明だが、楠本が八十歳を迎えることには誰一人生き残っていなかった。

 その頃、楠本は模範囚として刑が三〇〇年から二五〇年に減刑された。

「ま、それでもお前の残りの刑は一九〇年あるからゆっくり刑務所生活を楽しめや」

「それは、ご丁寧にありがとうございます。せっかくそう言っていただけたので、存分に刑務所生活を楽しませていただきます」

「お、おう」

 ストレスを溜めない思考がすっかり脳に浸透しており、誰に何を言われようとも全く苛立ちを覚えることがなくなった。まるで脳が苛立ちの感情を忘れてしまったかのようだった。

 楠本は八〇歳を超えたあたりから、読んだ本の内容を一言一句間違えずに暗記できるか自身でテストするようになった。これによってテロメアが修復できるかわからないが、少なくとも脳の運動には良いと考えた。また、庭では、地面に縦九マス、横九マスの表を描いて数独の問題を作成して解くことを続けた。おかげで認知症になる気配は一切なく、六十年以上積み重ねた知識のおかげで刑務所の外にいるときよりも博識になっていた。

 体力面でも八十代とは思えないものだった。試しに二十代の受刑者とグラウンド一周を競走したことがある。

「おっさんやめとけ。死ぬぞ」

「八十代だろ? 本当かよ、見た目四十代だぜ?」

 楠本は毎日の筋トレやストレッチ、食生活では徹底して糖質を省いたため、見た目の老化も防げており、実年齢は八十六歳だったが、見た目は誰がどう見ても四十代だった。

 受刑者の一人が「スタート!」と声を上げると、楠本と相手は同時に走り出した。二十代の受刑者も運動には自信があるらしく、腕を振り、大きな歩幅でさっそうと走っていた。フォームは整っている。しかし、その足のあげ方では力が上手く伝わらず、無駄遣いしてしまっている。楠本は若い受刑者の背後から走行フォームを眺めて瞬時に分析した。凹凸のついた腕を振り、盛り上がったふくらはぎは十分な馬力で地面を蹴り上げていく。たちまち二十代の若者と大差をつけてそのままゴールした。

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