第8話

 こんな優しい人と恋愛できたら、すごく幸せなんだろうな……。

 そんな考えをちらりと抱いてしまう。

 でも実現するわけがない。彼は御曹司なのだから。

 想像したのがいけないことのように、紗英はかぶりを振る。

「私、男運がないんですよね。なぜか今まで付き合った人は、浮気したり、お金をたかってきたりっていう、いわゆるクズ男ばかりなんです。だからもう恋愛なんてしたくないです」

 男運がないと言いながらも、紗英はクズ男を掴んでしまう世のからくりに気がついていた。

 イケメンのいい男は、可愛い女と付き合っている。

 だから美人でも可愛くもない自分は、クズ男くらいにしか拾われないのである。

 別れたら寂しいからという理由で、好きでもないのにズルズルと付き合う自分も悪いのだろう。

 だから、これからは恋愛せずに、仕事だけに邁進したほうがいい。もう傷つくのはたくさんだった。

 ところが悠司は真摯な双眸をこちらに向けて力説する。

「今までの男たちは紗英の優しさに甘えていたんだ。つまり、きみが優しいという証拠だよ。これからは甘えさせてくれる男と恋愛すればいい」

「……もう恋愛はこりごりです。甘えさせてくれる人となんて、出会える気がしませんし、これからは仕事だけに――」

 チュ、と唇に柔らかなものが触れた。

 突然のことに瞠目した紗英は、悠司の顔がゆっくりと離れていくのを目にする。

 え……今、キス、された……?

 ぱちぱちと目を瞬かせていると、悠司は艶めいた微笑を浮かべた。

「それは困るな。きみを甘えさせる男は、すぐ目の前にいるよ」

「え……あの……」

「俺じゃ、だめかな?」

 なにが起こったのか脳内で処理できず、紗英は呆然とした。

 まさか、悠司は口説いているのだろうか。

 イケメン御曹司の彼が、凡庸な一介の社員である私を……?

 そんなことはありえない。

 都合のよい幻想か、もしくは悠司の冗談だろう。

 しかも彼は、紗英が恋愛を捨てることを阻止するかのように、キスした気がする。

「あの……今、キス……」

「したよ」

「え……なんで……」

「可愛いから、キスしたかった」

 悠司はなにを言っているのだろう。

 彼の言動が理解できず、紗英は眉をひそめる。

「からかうのは、やめてください」

「からかってないよ。俺は本気だ」

 悠司の目は真剣だった。

 顔を傾けた彼は、またキスしそうなほどに紗英に近づく。

 彼の吐息を感じて、慌てた紗英は身を引いたが、すぐにソファの背についてしまった。

「でも、私と付き合った人はみんなクズ男なんです。もし悠司さんが私と付き合うようなことになったら、あなたもクズ男に変貌してしまうかもしれません」

 イケメンで紳士的な悠司を、紗英と付き合うことにより、クズ男に変えてしまうことは避けたかった。

 悠司の言う通り、紗英の優しさに男たちは甘えてしまうのかもしれない。それにより、いっそう男がさらなるクズ男に変わっていくのだ。

 だから会社の御曹司である悠司を、紗英と付き合うことによって、クズ男に変えるなんてことがあってはならない。

 悠司の未来を、そして会社の未来を変えてしまうことになりかねないから。

 それを聞いた悠司は、おもしろいことを耳にしたかのように噴き出した。

 彼はひとしきりくつくつと笑うと、顔を上げた。挑戦的な目を紗英に向ける。

「なるほど、そうくるか。――いいじゃないか。俺をクズ男にしてみろ」

「そ、そんなのいけませんよ!」

「俺がクズ男になったら、俺の負け。きみのことは諦める。ただし、きみが俺に惚れて甘えられたら、俺の勝ち。俺の言うことを聞いてもらう。それでどうかな?」

 なぜか、クズ男になるかならないかという勝負に引き込まれてしまった。

 きっと悠司も酔っているので、自分がなにを言っているのか、彼自身わかっていないのかもしれない。

 お互いに酔っ払いなので、その場の勢いだ。

 そろそろこの話は終わりにしたいので、紗英は頷いた。

「わかりました。その勝負にのりましょう」

「よし。それじゃあ、場所を移動しようか」

「勝負のためにですか?」

「そう。勝負のために」

 腕相撲でもするのかな……と、紗英は酔った頭で考えた。

 悠司に手を取られて立ち上がる。

 堂々としてエスコートする彼の顔色は変わらず、足取りもしっかりしていた。まったく酔っているようには見えず、紗英は首をかしげた。

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