第7話

「そんな……恥ずかしいです」

「嫌ならお姫様抱っこだな。俺はどちらでもいい」

「……手をつなぐほうでお願いします」

 人目があるのに、お姫様抱っこなんてされたらたまらない。悠司は冗談でなく、本気でやりそうだ。

 フッと笑った悠司は、紗英の手をきつく握り直す。

「了解。お姫様」

 なぜかお姫様扱いされてしまい、紗英の頬が朱に染まる。

 レストランを出たふたりは再びエレベーターに乗り込み、最上階のバーへ向かった。

 小洒落たバーへ入店すると、静謐な空間に流れるピアノの調べが心地よく耳を撫でた。

 都会の喧噪から遠く離れた天空のバーは、煌めく夜景の中に浮かんでいる。

 スタッフに案内されて、悠司と手をつないだ紗英は窓際の席へ足を運んだ。

 そこには遥か遠くまで見渡せる極上の夜景が広がっていた。まるで世界中から集めた宝石をちりばめたような輝きだ。

 ほう……と紗英は吐息をつく。

 悠司とともに、夜景を眺めるために設えられた豪奢なふたりがけのソファに腰を下ろす。

 彼が飲み物をオーダーしてスタッフが下がると、ようやく悠司は手を離した。

 そのときになって初めて、彼の熱が肌を通して染み渡っていたことに紗英は気づく。なぜか、失った彼の体温が寂しいと思ってしまった。

 なんとなく物足りなさを覚え、紗英は自分の両手を擦り合わせる。寒くもないのに。

「紗英は、バーで飲んだりするの?」

 ごく近くで悠司に訊ねられ、どきりとする。

 いわゆるラブソファなので、彼との距離は肩が触れそうなほどに近いのだ。

「い、いえ、ありません。会社の飲み会で居酒屋に行くくらいですね」

「ふうん。デートとか、しないの?」

「……しないですね。バーどころか、居酒屋に恋人と行ったのも、いつなのかわからないくらいです」

 今までの彼氏は紗英とどこかへ出かけるといったことをしなかった。彼らは紗英の部屋に入り浸っては、紗英の作った食事を食べて、ごろ寝して……といったことをしていた。語るのも恥ずかしいほど、恋愛とは言えないようなものばかりだった。

 そのとき、スタッフが飲み物を運んできたので、口を噤む。

 銀盆からテーブルに置かれたカクテルは、都会の煌めきを映していた。

 悠司は琥珀色の液体が入ったロックグラスを掲げる。

「きみのは、モクテルな。酔わせてみたいけど、具合が悪くなったら大変だ」

 首を竦めた紗英は、ノンアルコールのドリンクをひとくち含む。シュワッと弾ける炭酸の中に、フルーティーな味わいがした。

「実は、さっきナプキンで口を押さえたのは、吐きそうになったからじゃないんです。ちょっと……嫌なことを思い出したんです」

「嫌なことって?」

 さすがに、彼氏に浮気されたことを思い出したとは言いにくい。

 モクテルのグラスを両手で持った紗英は、上目で悠司を見た。

「……悠司さんって、意地悪な質問ばかりしますよね」

「それは、きみのことを知りたいからね。突っ込んだことも聞くよ」

「そもそも、私に聞きたかったことって、なんでしょうか? そのために食事とバーに誘ったんでしょう?」

 もとは悠司が紗英に聞きたいことがあったはずだ。

 悠司は夜景に目をやると、ウイスキーのロックグラスを軽く揺らす。

 彼の手の中で、カランと氷が涼やかな音を立てた。

「朝、目を腫らして出勤しただろう。なにかあったのかと思ってね」

「あ……」

「実は今朝、駅の構内で紗英を見かけたんだ。きみはスマホで誰かと話していた。揉めているようだなと感じたけど……なにか困ったことがあるなら俺に相談してほしい」

 紗英は瞠目した。

 駅で話していたので、悠司が偶然見かけていたのだ。彼に見られていたなんて、まったく気づかなかった。

 観念した紗英は、ぽつりぽつりと語り出した。

「あの……話していた相手は彼氏なんです。もう別れたので、元カレですけど」

「今朝の電話で別れたの?」

「はい……。昨日の夜、家に帰ったら、彼氏が浮気してる現場に遭遇しまして……。それで今朝、彼と話して別れました」

「それはひどいな。……ああ、だから俺が『浮気』という言葉を出したから嫌な気持ちになったというわけか」

「そうですね。つい昨日のことなので……もう愛情はなかったんですけど、やっぱりショックでした」

 涙が零れそうになり、紗英はつんとする鼻を摘んだ。

 静かにロックグラスを置いた悠司は、紗英の肩をそっと抱く。

「俺が迂闊だった。ごめんな」

「いえ……悠司さんはなにも悪くありません。気にしないでください」

「紗英は優しいな。こんないい女を見限るなんて、馬鹿な男だ。俺なら絶対に離さないよ」

 悠司の冗談に、心が救われた。

 強張っていた紗英の頬が緩む。

 悠司は浮気した彼氏ではなく、紗英の味方をしてくれた。男性ならば、『男は浮気するもの』などと言って、同性の味方をしそうなものだが、彼はそうではなかった。傷ついている紗英の心に、寄り添ってくれるのだ。

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