11-7 それまで逃がさないように

 自分で考えていた以上に体力が無くなっていた。


 うずくまったまま身動きすらせずに隠れていたせいだろう、足がもつれて上手く歩けなかった。

 数歩歩いたダケで立ちくらみがして、思わずしゃがみ込んだ。

 グルグルと世界が回っていた。

 熱っぽくて酷く全身がだるかった。

 風邪でも引いたのかも知れない。


 そりゃあそうだろう。

 あの豪雨の中を逃げ出して濡れっぱなしの中、人気の無い茂みの奥で縮こまって居たダケなのだから。

 普通に考えても身体を壊さない方がおかしい。


 何度も立ち上がっては座り込み、ほんの百メートル位を歩くのにやたら時間がかかった。

 フラフラで目まで霞んできて、そのまま地べたに座り込んでしまおうかと思った。


 でもそんなコトをしたら歩こうという気持ちが、家に帰ろうという気持ちすらなくなってしまうんじゃないか。

 二度と立ち上がれなくなってしまうんじゃないかと、そんな怖さがあった。

 だから自分の足腰を叩いて、しっかりしろと自分を叱咤して路地を進み続けた。


 小雨の雨がとても冷たくて、濡れた身体を更に冷やしていった。


 寒い、ただひたすらに寒かった。


 まったく冬の雨になんて濡れるもんじゃない。

 全身が凍えて強ばって、自分の身体じゃないみたいだ。


 抱く自分の肩が石みたいに固くて冷たくて歯の根が合わなかった。


 小刻みな奥歯の音が大きくて五月蠅いほどだった。

 ガチガチとひっきりなしで、雨音よりも大きいのではなかろうか。

 だって頭の中にガンガンと響くくらいなのだから。


 頭蓋骨がひび割れそうな痛みに思わず呻いた。

 ああ、本当に熱があるのかも。


 ヤバイ、また目眩がしてきた。


 足をもつれさせて思わず手近な電柱に手をついて一休みする。

 しゃがみ込みたかったがしゃがめなかった。

 今度膝を折ったら、次は立ち上がれる自信が無かったからだ。


 歩いたり一休みをしたりを繰り返し、それでも何とか自分の家に辿り着いた。

 何日ぶりの我が家だろう。

 強ばった頬が思わず緩んだ。


 デンキは消えて居てどの部屋も真っ暗だった。

 カーテンを引いているせいかと思ったが、その裾から洩れてくる明かりすら無かったので、照明を点けていないのは明らかだった。


 もう寝てしまったのかしら。


 冬は暗くなるのが早い上にこの雨だ。

 明るさで時間を計ることが出来ないけれど、周囲の家の窓がどれも明るく路地を照らすほどだから、深夜と言うにはまだほど遠い筈だった。


 家人は何かの理由でとても早く就寝したのか、それとも出払っていて留守なのか。


 ひょっとすると、みんな怪我をして病院に入っているのかも知れない。


 そう思うとまた落ち着かなくなった。ドアを開けて確かめたかったのが、生憎今は自分の家の鍵すら持っていないのだ。


 玄関の傍らを探った。

 無くした時の為、ポストの裏底に磁石で貼り付けた予備の鍵が在るはずなのに、何故か見つけるコトが出来なかった。


 きっと家族の誰かが使った後に、元に戻すのを忘れているに違いない。


 どうにかして確かめる方法は無いかと迷い、取敢えず本当に留守なのか確かめてみようと思った。

 辺りを伺い恐る恐る歩み寄り、玄関の脇にあるインタホンのボタンをそっと押した。


 家の奥でチャイムが鳴る気配が在った。

 しかし何の反応もない。


 そしてもう一度押そうとして唐突に、背後から女性の声が聞こえた。

 「見つけた」という静かな声音だった。


 はっとして振り返ると、鞄を片手に傘を差した女学生が立っていた。

 蔦のようにうねった酷くクセのある髪の毛、背中に届くほどの黒髪の少女だ。

 キツめのまなじりに自分の通う学校の制服を身に着けていた。


 暗がりの中なのでハッキリとした表情までは見て取れなかった。


 だがその顔は確かに見覚えがあったのだ。




 雨の住宅地に女性の悲鳴が響いた。


 のっぴきならぬ、命の危険すら感ずるほどの切羽詰まった叫び声だ。


 自分のクルマに戻り、ドアを開けようとした猿渡であったが、直ぐさま踵を返して悲鳴のした方角に向けて駆け出していた。


 あの傘を差した女生徒、ひょっとして彼女が何らかの悪意に晒されたのでは。

 そんな不安が胸中に在った。


 住宅地とはいえ人気の途絶えた雨の夜である。

 しかも女生徒の一人歩きだ。

 彼女の家まで送るくらいの気配りがあっても良かっただろうにと、迂闊な己を叱咤していた。


 キレイに区画整理された住宅地の中は、夜闇の中ではどの曲がり角も似たような風景で、先程彼女と別れた道筋は何処であったかと暫し迷った。


 そして唐突に白い影が視界の端を過ぎったのである。

 そしてそれを追う黒い影もだ。


 再び悲鳴が響く。

 今度はハッキリと聞こえた。

 助けて、という救いを求める女性の声だ。


 声と影の消えた曲がり角目がけて、猿渡は再び駆け出した。




 小さな児童公園の真ん中で白い人影が倒れていた。

 そしてその傍らに佇む黒っぽい影も在った。

 そして思わず「何をしている」と声を荒げた。


 それに振り返ったのは黒っぽい影で、それは確かに先程別れた酷いくせっ毛の女生徒だった。

 傘もなく鞄も持たず、手には棒状の、いや板状の何かを握り込んでいた。

 辺りが暗くてよく見えない。


 ひょっとして刃物だろうか。


「大声は上げないように。目立つようなコトは控えて下さい、猿渡貴之刑事」


 セーラー服の女生徒は、静かな口調でスーツ姿の青年をいさめるのである。


「俺の名前を知っているのか」


「案件に関わる関係者の名前と顔写真は、一通り目を通して居ますので。そして今回の案件を納得し兼ねて居るご様子」


 名前どころか肩書きや状況まで掌握済み。

 驚くと同時に脳裏に瞬くのは、感情的になるな、よく見よく聞きよく考えろと、毎回口酸っぱく念を押す小暮の姿だった。


「誰だキミは。いったい何をやっている」


「邑﨑キコカ、公安の要員です。それ以上は秘匿案件ですので黙秘します。どうしても、と仰るのなら処置を施すことになります。それは本意ではないでしょう?」


「何を言っている。その足元の人物をどうするつもりだ」


「それもあなたには関係のないコトです。納得がいかないのなら確認してみれば宜しい。公安コード案件○○‐○○○○‐○○○○○号。ほら、コレです」


 彼女が片手でスマホを操り、唐突に自分のスマホに何某かのメールが着信した。


「六〇秒で消失するので手早く見て下さい。勿論、コピーも禁止されていますし、そもそも出来ません。念の為」


 促されるままに開いてみれば、県警が設定した今回の事件の名称とコード、それとは別に公安の種別ナンバーに添えられて彼女の名前と顔写真が在った。


 本件に関して捜査権限あり、とも在った。そして要請があった場合に限り無条件の協力と、機密案件ゆえ詮索不可の一文が記されていた。


「詳しくはあなたの直属の上司に確認を。そういった訳でこの場で起きたことは全て忘れて下さい。申し訳ありませんがこのままお引き取りを」


「・・・・そんな訳にいくか」


 それは感情を押し殺した声で、語尾が幾分震えていた。

 またしても公安かと、随分と小さくなっていた筈の種火が再びジワジワと熱を帯びてゆく感触が在った。


「秘匿秘匿、その一言口にすりゃあみんな納得して手を引っ込めると思って居るのか。大概にしろっ!」


「納得出来なくても呑み込め、我慢しろ。そんな風には教わらなかった?」


 それは確かに先日、小暮に言い含められた言葉だった。

 だからこそ猿渡の一番敏感な部分を逆なでする羽目になった。

 故に猛った。

「ふざけるな」と吠えた声は辺りの空気を震わせた。


 どう見ても女子高校生にしか見えない少女に、年配の指導先輩と同じ物言いで同じ文言を重ね、諭されて、気持ちの収まりが付かなくなってしまったのだ。


 しかもこんな少女が公安の要員だと?

 莫迦も休み休み言え。


「この状況はどう見ても、凶器を持った者が一方的に無防備な市民を昏倒させた現場としか見えない。

 警察の一員として暴力を振われた市民を守る義務がある。

 この子はわたしが保護する。このまま病院に連れて行き、問題が無ければ事情聴取を行なう」


 そして「きみも一緒に来てもらうぞ」と付け加えた。


「わたしはそんな迂遠なコトしている暇は無いのだけれども」


「この身分証明というものも疑わしい。

 きみのような少女が公安の一員というのもそうだ。

 公安に引き渡すにしろ県警で保護するにしろ、全ては署に戻り上司の確認を取った後だ」


 そしてキコカを無視して倒れている裸身の少女に歩み寄り、上着を脱ぐと雨に打たれるその身体に羽織ってやった。

 背中に一直線の真っ赤な痣が浮いているのが見て取れた。

 彼女の右手に持つモノで強打されたのだと察するのは容易かった。


 そして彼女を抱き上げると、邑﨑キコカに相対するのだ。


「力尽くで奪い取るか?その右手の凶器を使って」


「騒ぎを大きくする訳にはいかないの。

 ほら、あなたの大声でチラホラと窓に人影が増えてきている。

 まぁ、今夜はあなたに預けるわ。

 後日会いましょう。

 それまで逃がさないようにね」


 酷いくせっ毛の女生徒は軽く肩を竦めると、そのまま踵を返して去って行った。

「待て」と言ったのだが振り返る素振りすらなかった。


 結局、少女を抱えたままではその後ろ姿が路地の向こう側に消えるのを見送る事しか出来ず、若い刑事はそのまま自分のクルマへと戻って行った。


 小降りだった夜雨は、再び雨足を強め始めていた。

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