第八話 猫、せめてねこらしく
「ハロハロチューブ、どうもおじさんです。……今日はですね、おじさんが辛い物が好きだということで~、SNSで話題沸騰中のダブルデスバーガーを食べたいと思います!」
今日も今日とて女は配信に命を注ぎ、現在進行形で寿命を削ろうとしている。
猫の嗅覚でもアレは不味いだろうというのが分かる赤色に染まったバーガーを食そうとしている女。二人だけではあるが一家の稼ぎ頭の胃袋を考えると飼い猫として止めるべきか。
新品臭が抜け切れていないキャットタワー。
視聴者の要望により、撮影部屋で女が撮るカメラに収まるように移動した猫タワーの頂上から、自分は彼女の後頭部とそれなりに遠くであろうと強烈な匂いを感じさせる刺激物に目を向ける。
人間の知識でのハンバーガーはジャンクな味であることを記憶している。
女に可愛くおねだりをして、ちゅーるやカリカリを始めとして肉や魚、果物と人間に近い物を食べるが、流石にハンバーガーは猫の身体には合わないだろう。
黒髪の女もそれを理解しているのか包まれたそれを自分に近づけようとはしない。
「SNSとか見ていると食べきれなかったとか阿鼻叫喚らしいですね~。まあ? おじさんはね、結構カレーとか食べる人だからね。専門の店で3辛とか食べれちゃう人だから余裕だぜ~」
牛乳の入ったマグカップをテーブルに、笑顔をカメラに。
フラグ構築に励み、舌を虐めようとする動画撮影をする女を遠目に見つめる。
「それにしても辛いバーガーをあの企業さんが出すのは初めてで……楽しみです!」
「海外で今凄い人気らしくて、食べるのに同意書が必要と聞いて、おじさん書いちゃった」
「まあ、でもおじさんなら余裕でしょう。お残しは許しまへんで~」
いつもの撮影部屋。
カメラの黒レンズに愛想を振りまく女のそれは案件ではない。
SNS上で人気だから、せっかくなので購入、ついでに動画にしようというものだ。
台本も何もない、軽快なトークは聞いていて飽きない。
「いただきま~す。……なんだ、意外と……ぉ、ぅ、っ、っ!?」
やや大袈裟に見えるリアクションだが辛いのは事実なのだろう。
あまりの辛さに神経の伝達が遅れたのか、ほにょりと緩んだ頬を硬直させ、端麗な顔を歪める女が大きな瞳に涙を浮かべていく。
だが吐くことはせず、ゆっくりと嚥下し喉を鳴らす様をタワーから見届ける。
「ぅ……ぅ……」
『救急車呼ぶ?』
「おいしー!」
雪肌に汗を浮かべ始め、熱い吐息を漏らす女は遠目に見るだけなら艶やかだ。
否定的な表現は行わずどういった美味しさか、身体や顔で表現する女は黒髪を揺らす。
食べて、レビュー、食べて、レビュー。
プロ根性を見せる彼女は語りつくした後、汗ばむ姿で締めに入る。
「……うん。じゃあ、まあ、皆は一段階下のちょっと辛めの方が良いと思うよ~。またな!」
撮影終了。カメラの電源を切る女がふうっと溜息。
如何に辛いのかを語っていたが捨てるということはせず、黙々と食べる彼女は汗だくだ。
「あっちぃ……。牛乳無かったらヤバかったな」
完食、本日の彼女の昼飯となった。
女が食べ終わるのを見届けながら、俺は耳を澄ませる。
人間よりも鍛えられた耳が捉えるのは、窓越しに聞こえる雨音だ。
曇天から降り注ぐ雨水がアスファルトを黒く染め、窓ガラスを濡らす。キャットタワーに備え付けのハンモックに寝転がりながら、自分は女の姿をぼんやりと見届ける。
彼女からの謎の質問を受けて、数日が経過していた。
簡単な二択だと思って選択した、それが間違いだと自分は気づかされた。
「ほら、イエ。見ろよ。もう300万再生されたぞ! 300万!」
『マジかよ……』
女に抱きしめられてパソコンの前で動画を見る。
キャットタワーから女の豊かさを主張する双丘に飛び込む黒猫。
その目の前に置かれる〇と×が記載された紙を逡巡の末に叩いている動画。
『イエ、人間説②』という動画での可愛らしい黒猫の行動にコメント欄が賛否両論の嵐だった。偶然だというコメントも、人間の転生説など核心に迫るコメントが並んでいた。
殆どは冗談交じりの内容だが、一部は人間なのではと思い込んでいそうなコメントもある。
「なあ、イエ? お前は人間なのか?」
『ねこです』
自分の両脚を人形のように振り、頭を撫でて、女は楽しそうに笑う。
愛玩動物に癒されているように頬を緩める彼女を見上げるも、その端正な顔からは自分が人間ではないのかという確信を抱いているようには見えない。
それでも何を考えているのか分からない以上、念には念をと思考を深める。
「おっ、走ってる走ってる」
『ねこですから』
考え事をするならば動きながらが良い。
カラカラとキャットホイールを走りながら食べた分のカロリーを消費する様を撮影される。
女の職業病には慣れたもので、カメラ目線にならないように注意が必要だ。
『ふっ……ふぅ……!』
「気に入ってくれて俺は嬉しいよ。凄い売れ行きも好調らしいし」
そもそもこの愛くるしいハードの中身が人間など誰が解るものだろうか。
創作ならばあり得るだろうが、現実にいる人間が真面目にそんなことを考えるだろうか。
人間の真似をする、少し賢い飼い猫と考えるのが普通だ。
『まあ、大丈夫だろう』
あの質問での失態は偶然だ。何度もすることは無いだろう。
人間らしい姿を見せない、猫らしい姿をしばらく見せるだけで誤魔化せるだろう。可愛らしい鳴き声を聞かせて、毛並みを触らせるだけで人間など簡単に騙せるのだから。
不気味がられて捨てられないように、猫らしくありたい。
そう心に決めること一週間ほどが経過した。
『ねこです』
「わっ、わぁ! ……お手、とかしてくれるかな」
『よろしくおねがいします』
「おおっ……!! 凄い! 賢い! ちょっと人間みたく立ってみてくれる?」
「可愛い!」
『あなたがね』
白髪や金髪、茶髪といったおじさん御用達のスタッフが訪れた時には積極的に媚びを売った。おじさんを自称する黒髪の女が選んだ美しい女たちは猫が好きなようだった。
毛並みを触らせ、脚に擦りつき、猫であることを主張する度に何故かちゅーるをくれた。
そんな風にスタッフに向けて猫アピールをしていると飼い主に捕まる。
「美味しかったか?」
『格別な味だ』
「ホンダさんもサカイさんたちも皆して俺の猫に餌付けしようとしやがって……でも、キミは食べたら運動するから全然太らなくていいな」
『ねこだからね』
撮影の合間、時間のある時には誰よりも主人と触れ合う。
スキンシップ、肌と肌の触れ合いから少しでも愛着を持たせ、猫らしさを見せる。
健康的な白い腿に身体を預け、弛緩した身体を動画配信者が撫でながら動画撮影を行う。
「ではまた会いましょう。バ~イ!」
少し迷走気味な締めの台詞を放つ女。
カメラの電源を停止し、自分をソファに置くと立ち上がる。
何気なく壁に掛けられた高級時計に目を向ける。
ある程度決められた時間帯に飼い主は浴室に向かう、その時間帯だった。
――ここで唐突だが、飼い主のいるマンションについて少し説明しよう。
自分と彼女が住まうとあるマンションの最上階。
部屋は広い。明らかに一人と一匹が住むような空間ではない。
シャワー音を遠くから聞こえる女は家政婦といった人間を雇い入れようとはしない。掃除は空いた時間に行い、基本的に撮影、動画投稿、配信を優先する職業病だ。
レビューの為の物品はネットで購入し、当然必要のない段ボールが増える。
「――! ……!!」
登録者数の伸びが順調なのか、或いは同業者が炎上したのか。
機嫌が良さそうに浴室でアニソンを全力で熱唱している主のいない室内は綺麗とは言い難い。耳を傾けざるを得ない、そんな女の美声に耳を動かしながら周囲を見渡す。
比較的綺麗な撮影部屋には埃や、長い髪の毛、猫のものと思わしき毛が所々に落ちている。
けっして、主の株を下げるつもりはないのだ。
半年以上の同居、彼女がそれなりに綺麗好きであるのも知っている。
ただそれ以上に実情を知り、個人的に将来なりたくないランキング一位である動画配信者という仕事に魂を売っている人物の部屋が多少汚れるのは必然なのだ。
つまり――、
「きゃぁぁああっ!!?」
絹を裂いたような悲鳴に文字通り跳ね上がる。
強姦魔か強盗、窓の無い浴室で起きたあらゆる可能性を模索する。
声の方角、女の金切り声に脱衣所へと駆け走る。
全身でタックルすれば押し開けられるだろう半透明な扉が開かれる。
白い肌、バスタオルすら巻かれていない女の裸体。
くびれた腰、豊かな胸から顔へと見上げると幽霊に遭遇したかのような青白い顔。
自らが幽霊になったような女は床に滴を滴らせることも気にせず、叫ぶ。
「キンチョール!!」
自分はイエと名付けられた。
決して家庭用殺虫剤に改名したつもりはない。
「どこに置いたっけ? ヤバい! ヤバッ、出たっ、出るぅ!!」
語彙力を捨て、逃走力を増した女。
その背後、それを見た瞬間、自分に備わったキャットセンスが悲鳴を上げた。
『――――』
虫。黒い虫。
餌を求めて来たソレを、世界はゴキブリと呼ぶ。
黒光りしたカブトムシに近い形状を目にして思わず絶句する。
子供の頃は残酷にトンボの羽をむしり、蟻を踏みつぶし、幼虫を見て笑っていたのに、いったいどうして大人になると虫に触れることすら恐れを抱いてしまうのだろうか。
ぐちゃぐちゃのスパゲッティのように混乱する思考を余所に、思わず一歩後ずさる。
「たしかここら辺に……! なんでっ、ないんだよッッ!!!」
背後の撮影部屋で全裸の女が殺虫剤の紛失に声を荒げる。
女が武器を見つける前に、黒い虫が部屋の床を蹂躙するのが早いか。
「なんでえッッ!!」
以前にも虫はいたらしい。
だが、その時は昼間で男前な女スタッフと一緒に駆除したらしい。
その経験を活かし、きっと彼女なら全裸だろうと退治してくれるだろう。
『自分は奴を見張るだけでヨシ! マスターがなんとかしてくれるでしょう』
普通の猫なら退治して、獲物を家主に見せるかもしれない。
ただ、自分本位で申し訳なく思うのだが、そこまでして猫アピールをしたいとは思わない。そもそもあんな黒光りする物に対して積極的に触りたい訳がないのだ。
だからこそ、必然的に全裸の女の到着、文明の利器の出番を今か今かと待ち続け、
「おっ。あったけど、空じゃん……」
『は……?』
その絶望的な呟きを耳が拾った瞬間だった。
一瞬気が緩んだのか、身体が勝手に動いた。
『へ』
気が付くと自分の立ち位置が少し変わっていた。
瞬きの合間に、瞬間移動でもしたかのように虫のいた位置に自分はいた。
呆然とする自分に、右脚の、肉球に感じる感触に、ゆっくりと記憶が追い付いてくる。
電光石火の如き一撃。
一瞬の跳躍、無駄のない右脚での振り下ろし。
黒い虫という敵を前に、本能が身体を乗っ取ったようだ。
どうしても敵を仕留めたかったらしい。
『うわぁぁああっ!?』
何が猫らしくだ。馬鹿か。
一秒でも早く右脚に伝わる気持ち悪さを拭うべく、行動するのは当然だろう。
せめて、床に被害を増やさないように三本脚でティッシュ箱を目指すのは優しさだ。
『うぇぇ……』
箱から伸びる白い紙を口で引っ張り、右脚を叩きつける。
ポンと黒い肉球の痕が出来たが、気にすることなく擦り付けるのは仕方のないことだ。必死にティッシュ紙に不快な感触が無くなるまで右脚を擦り続けるのは当然だろう。
「イエ?」
声に振り返ると裸の女がいた。
白い肌を見せ、覚悟を決めたのか手には新聞を丸めた物が。
ふらふらと自分を見て、床に潰れた敵の残骸を見つけ、最終的に自分の右脚へ。
「おっ、仕留めたんだ。やるじゃ~ん」
『でしょ~?』
「あれ? このティッシュは……」
『モフモフだよ、ほら。いいからモフれよ』
結果はともかく、せめて猫らしくあろうとする。
そういう姿勢や努力が最も大事なのだと自分は思うのだ。
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