第六話 猫、現場猫
自分が女の飼い猫となって半年ほどが経過した。季節は既に秋。
動画配信者として多忙を極める彼女は基本的に一人で過ごすことが多い。
一人で撮影して、喋り、顔芸をして、編集する。
手が回らない、何かしらの企画を行う時にのみ自宅にスタッフを呼ぶ頻度が増えたように感じる。自分の身体が大きくなったことや人間に慣れたと家主が判断したのだろう。
「触っていいよ~」
「……、良いんですか?」
「ホンダさん、イエに触りたがっていたじゃん?」
「……まあ」
その日、飼い主以外の女と遭遇する機会があった。
眼鏡、白髪とストレスを感じることが多いのか眉間に皺を寄せた女。
手を此方に伸ばすように拳を開き、閉じられる。
今にも祈るように拳を振るいそうな女はジッと自分と目を合わせる。
レンズの奥から覗く瞳の色を冷静に染めながらも、僅かな不安に瞳を揺らす。
「い、いえ、今日は仕事ですから」
「撫でるだけなら一分で済むじゃん。……時間なら十分にあると思うよ?」
逡巡の末に断ろうとする彼女はいかにも仕事が出来そうなオーラを見せている。真面目が服を着てそうな彼女は、隣に立つ濡羽色の美女に揶揄われて渋々と動き出す。
触って良いと許可を出されて、僅かに頬を緩めたのを自分は見逃しはしなかったが。
自分としては家主が許可を出したという時点で異論はないのだ。
「――――」
コクンと白い喉を鳴らし、ネックニットとタイトスカートを着た白い女が床に膝をつく。
向かう先は、先ほどから床に寝転がり彼女らを見上げていた自分だ。
『頭が高いぞ、ひれ伏せ』
「な、鳴いた……」
自分の言葉に感動したのか、タイトスカートからすらりと覗く黒脚が震える。
曲線美を描く腿、黒色の薄皮に包まれた膝を床に擦り付け、女が玩具を振る。稲穂のような猫じゃらしは理性が抑えつけなければ本能的に追いかけてしまっただろう。
そんな状況で、右へ左へ揺れる猫じゃらしに目を向けず、女の顔をジッと見つめる。
――最近、焦らすという事を覚えたのだ。
「……ほ、ほ~ら」
白髪の女は何度か目にしたことがある。
人間不信なのかと思うほどに一人でいることの多い家主が招き入れる人物。
会話を聞く限り、マネージャーのような仕事やおじさんの代わりに外でカメラマンを担当したりしているスタッフの一人。主に裏方を担当しているホンダという女。
「あ、あれ? なんで……」
「ホンダさん。にゃんにゃんって言いながらするとイエは動きますよ」
「本当ですか!? 信じますからね。……にゃ、にゃん! にゃん!」
時代が違えば女騎士をしていそうな真面目そうな堅物。
目の前の白髪の女と黒髪の女がどういう経緯で一緒になったのかは不明だが、家主に負けず劣らずの美貌の持ち主を傍に置くのが、飼い主の趣味なのだろうと判断する。
女を騙してほくそ笑む家主を睨むと、眼前の見知らぬ女と戯れ始める。
『やれやれだぜ』
「おっ、おっ、本当だ! わ~!」
「えっ、いや、まあ……良かったですね」
猫じゃらしに飛びつきながら、足元に転がり腹を見せる。
タイツの化学繊維の感触を肌に感じながら、ジッと女を見上げて一鳴き。
『お前は次の瞬間、自分に向かってかわいいと言う』
「……か、かわいい」
どれだけ有能でも、どれだけ性格上は硬くても、猫の前では全てが崩れ去る。
如何にも気難しそうな顔をしていた彼女の眉間の皺が無くなり、頬を緩ませる。
『堕ちたな』
「爪も立てたりしない……、あの長い名前の猫種ってこんなにも人懐っこいんですね」
「他の子はあんまり知らないけど、猫ってこれが普通なんでしょ?」
「え? どうなんでしょうね、私も飼ったことはないので」
「それよりもホンダさんもそんな顔をするんだね。今なら彼氏とか出来そう」
「せ、セクハラですよ。トクガワさんこそそういう話は多いでしょう?」
「おじさんは独身貴族になるつもりだから」
彼女たちの雑談を聞きながら思う。
顔の覚えを良くし、媚びを売るだけで女の好感度を上げることが出来る。下げて困ることはあれども、上げて困ることなど無いのだ。
身体に擦りついて目を見て一鳴きするだけで簡単に喜びの声を上げる。
最近、思ってしまう。
――人間はちょろい生き物だと。
「わ~。イエちゃん、毛がふわふわですね。トクガワさんがされているんですか?」
「んお? お~、そういう時もあるけど、まあ、専門の人に任せたりもしてますね」
「そうなんですね。あっ、専門と言ったら、そろそろ来ますよね」
彼女の言葉に疑問を抱いた瞬間、首の後ろ付近がピリピリとする。
猫の身体に備わった第六感、自分はそれをキャットセンスと呼んでいるが、凄まじい聴力を有している猫耳と共にこの女たちのいる家に見知らぬ何者かが訪れるのを感じた。
直後、インターホンの呼び音に白髪の女が向かい、数人の人間を連れてくる。
「どうも、初めまして。本日はよろしくお願いします」
「あっ、初めまして。トクガワちゃんねるのおじさんです」
「スタッフのホンダです。打合せ通りにお願いします」
「はい、本日はよろしくお願い致します。あっ、いつもおじさんの動画見ています」
「ははっ、ありがとうございます」
来訪した見知らぬ男女による挨拶からの少しの雑談。
応対する飼い主たちの会話から、以前話をしていた自分の案件である事を察した。
急に人間の比率が多くなったが空間的にはそれでも広く感じる。
猫である自分への配慮か、静かにカメラを始めとした必要機材等を床に設置する彼らから少し離れて、カメラ棒を持ち撮影を始める黒髪の女に目を向ける。
「はい、今ですね、専門の方々に撮影して頂くらしいのですが……」
他人の目線など素知らぬとばかりにマイペースな女は朗々と語る。
おじさんに目を付けたとある行政とのコラボ、自分の写真を使った安全ポスターを作るらしい。動画配信の王として知名度は日々上昇していることもあるだろうが、物凄い事だ。
「いや、本当に光栄ですよ~」
いつもの撮影部屋。その一角にシートが敷かれ、小物が設置されていく。
玩具らしきフォークリフト、赤い三角コーン、コンテナ、脚立、パレット。
実際の物をそのまま猫サイズに縮めたような玩具に興味が惹かれる。
「今回、イエですが、ちょっと変身するそうです。今からそれに慣れさせていきますね~」
あらゆる男を虜にさせる魔性の笑み。
彼女の膝元には、特注で作られたのだろう小型のヘルメットとベスト。
緑の十字架が刻まれた黄色のヘルメットと蛍光色のベスト。
話の流れ、彼女の言葉、現場の状況から察するに自分は着せ替え人形にされるようだ。当たり前だが自分はともかく、猫が服を着たりはしない、筈だ。
飼い主の好みで勝手に着せられることはあれども、自ら好んで着ることはないが、
「よっこいしょ」
白髪の女が他スタッフと準備を進めている間、飼い主が自分を抱く。
豊満な乳房の感触を頭部に感じながら、目の前に差し出されるのは、おやつ。
「はい、こちらのちゅーるは、特製高級黒毛和牛&タラバガニ味とのこと」
『高級って名前がつけば良いって訳じゃないんですよ、マスター』
「いや~、美味しそうですね、ほら」
『んむ……美味いな』
パッケージの開封口から覗くペースト状のおやつ。
人間の記憶に猫のおやつを食した物は無かったが、猫の舌にはよく馴染む味だ。貰える物は貰わねばとペロペロと必死に舌を動かして、女の指に付着した物まで舐めとる始末。
薬でも入っているのかと思いながらも口の止まらない自分に、女がくすくすと笑い声を上げる。
「んっ、ふふっ……くすぐったい。ほら、皆。ペロペロ言ってるよ」
マイクを近づける中、一心不乱にちゅーるを舐めていると頭に違和感を覚える。
片方の耳を覆うヘルメットの感覚と胴体に感じるベスト。
前報酬なのか、着させられた自分を見る彼女が残りのおやつを取り上げる。
「残りは後でね」
『は?』
中途半端に食べさせて取り上げる。ふざけた女だ。
イラっとする自分を余所に、スタッフの準備が出来たと始まる撮影。
とはいえ、自分が何かをする訳ではない。
猫サイズのフォークリフトなど小道具が設置された一角を好きに移動する自分。その一角以外に移動しようとすると連れ戻されるが基本的に自由。ポーズの指定も何もない。
自分に触れないようにカメラマンがやや離れたところで黒色レンズを無言で向ける。
自分は指示待ち人間のつもりは無いが、しかし創作性に乏しい。
他人に面白いことをしろと、そう言われても曖昧な笑みを浮かべるのが精一杯だ。恐らく彼らは自然体な自分の写真を撮りたいのだろうが、今のところ特に思いつくことはない。
それはカメラマンも同じなのかシャッターを切る回数は少ない。
「ん~、イエ、今日はどうした? 慣れない人に興奮した?」
普段ならば慌てて何かしらの芸でも見せるところだが。
不思議なことに、先ほどのお預けの件に猫の身体が苛立ちを覚えていた。
簡単に言うならばへそを曲げていた。
本能率が上昇、猫扱いに苛立ちが収まらず、にゅあにゅあと自由奔放に脱走術を見せる。
猫らしくコンテナに乗り、三角コーンを蹴り飛ばしたり、飼い主が落ち着かせようと先ほど取り上げたばかりのちゅーるの袋に噛みついて苛立ちを誤魔化す。
知性を感じられない、そんな猫畜生の様子にやがてスタッフ陣営が家主の顔を伺い始める。
「おじさん、どうします? 一応時間も押してますが……」
「少し興奮されているようですね。日を改めるということも……」
「……うーん。もう少しだけ」
顎に手を当て、悩める女は目を細める。
猫とは本来気まぐれな動物なのだ。そんな簡単に猫の機嫌は直らないのだ。
理性を上回る本能に身を任せていると、簡単に女に捕まえられる。
「そうだなぁ。んじゃあ~……、まあ……、イエ」
『あん?』
女の手に持つのはスティックタイプの小袋が一つ。
「もう一本ちゅーる食べさせてあげるから、やる気だして」
『――――』
「本当はご褒美用だったんだけどね」
『――――』
「お願い」
いったい、どうして猫扱いされた程度で苛立ちを覚えたのだろうか。
脳が猫程度のサイズだからか、我慢するという行為を忘れていたらしい。
そもそも自分に選べる選択肢などあるのか。目の前の女に媚びると決めたのだ。
この生活を維持する為に、女の飼い猫として頑張ると決めたのではないのか。
へそを曲げている場合ではない。
ちゅーるを舐め、理性で本能を抑えつけると、自分はスクっと後ろ足で立ち上がる。
「おっ、立った」
「おじさん、何か言いましたか?」
「私は何も。でも、イエは賢いから。カメラさん、シャッターチャンスですよ」
自分の脳内に蠢く人間の知識から情報を検索。
このコスプレ、似たような状況から最も使えそうな情報を抽出。
安全を唄うヘルメットを着用した猫に相応しい行為の模倣を始める。
「おっ」
驚いたように女が小さく声を出す中、ゆっくりと身体を動かす。
難しいポーズも決め顔も必要ないのだ。猫らしく前足を差し出すだけ。
現場が問題ないことを確認するように。
ちょっと問題があっても多分大丈夫だろうと前足で指先確認をするように。
脳内知識でこういった状態の猫が告げるべき言葉は一つだ。
『ヨシ!』
――のちに現場猫と呼ばれるポスター写真が出来上がった。
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