第三話 猫、お手を覚える
基本的に飼い主である女と自分以外でこの家を出入りする人はいない。
動画関係のスタッフや義妹を主張する女や、コラボなどでこの家に訪れる男や女に対して、甘えて、媚びを売り、笑顔を作り生存確率を高めていく。
この世界、この猫生も既に3ヵ月が経過した。
ひとつ屋根の下で働く勤勉な主のことも随分と理解が進んだ。
誰もが羨む絶世の美女は動画上で自らを『おじさん』と名乗っている。
トクガワちゃんねるという名前で活動をしているらしいが、苗字がトクガワだからという安直な物から取っていると動画で語っていた。ただ、彼女の名前は未だに判明していない。
人間が猫畜生に自己紹介などするだろうか。いや、しない。
コラボなどで訪れる人や、スタッフも誰もが『おじさん』呼びなのだ。
毎日何かしらの動画を撮っている女。
外はともかく家では独り言の多い彼女の話には注意深く耳を傾ける。
ソファに寝転がる時も。
キッチンにいるときも。
お風呂にいるときも。
動画投稿者として女はかなり人気の存在のようだ。
やることなすことの大半が成功し、再生数もファンも増えている無敵状態。
彼女の真似をして増えてきている同業者のようにいわゆる炎上するような発言や言動にも細心の注意を払い、動画投稿の頻度も非常に高い。ゲームはそれなりに上手い。そして美人。
勝ち組という言葉はこういう女の為にあるのだろう。
神にでも愛されているのか、嫉妬という言葉も芽生えない。
「俺って昔は一般人だったのに今では変装して、護衛の人までつけるとは……。人生って分からないよね~」
『マスターも大変なんですね』
「イエは可愛いな~。あれ、今の相槌?」
猫になってから最も磨かれた力は生存本能だろうか。
自らの身体の可憐さ、愛玩動物としての毛並みや肉球、会話という名の鳴き声を発するだけで、人間は少しの疑問よりも動物に癒されようとするのだ。なんだ偶然か、と。
『ほら、もふれ』
「あ~……あと五分で編集作業に戻らないとな。俺、なんでこの仕事やってんだっけ」
ブツブツとぼやく稼ぎ頭に今日も自分は腹を見せる。
腹部の白い毛を手で撫でるのが女は好きらしい。肉球に触るだけで美女の笑顔を見ることが出来るのなら、幾らでも従順な猫を演じていたい。
「お、また人間になってるじゃん」
最近、彼女はこんな台詞を吐くようになった。
自分が健康の為に後ろ足のみで立ち上がっていると、決まり文句にしたいのか、人間みたいになっていると言ってくるのだ。
最初に変な状況で見られた時はどうなるかと思ったが、モフモフが効果を発揮したらしい。
変な研究所に連れていかれるということは無く、現在もこうして飼い猫をしている。
とはいえ、現状に甘んじていて良いとは思わない。
この猫の身体がまだ小さいから可愛がられている可能性は消えてはおらず、大きくなった途端に別の猫を買ってきて関心が移るという未来は残っているのだ。油断はできない。
ちなみに後ろ足で立ち上がるのは人間を真似している訳ではない。
ただ、筋トレとしてスクワットもどきをしているついでに可愛さアピールしているだけなのだ。そんな自分の行為に思うところがあるのか、女は自分を抱えると編集部屋に移動する。
「イエ、ちょっと見て欲しいものがあるんだ。ちょっと動かないでね」
見るからに高級そうなパソコンが何台も置かれた部屋。
ケーブルを齧るかもしれないからと数回ほどしか入ることの出来なかった部屋に入ることが出来たことよりも、頭部に感じる豊かな感触に悦びを覚え、思わず鳴き声をこぼす。
「ん? 強くしすぎたか? ごめんね」
香水も何もしていない女の香りが猫の鼻腔をくすぐる。
美女の膝に座り、一体何をするのかと見上げるとパソコンを立ち上げる女。
この世界で有名な検索エンジンで動画サイトを開く。
そうして彼女は自分という存在がありながら猫動画を見始める。
「えっと……、これこれ」
彼女の声に目を向けると、動画に男が映る。
男が目の前にいる猫に手を差し出すと、猫はその手に前足を置く。
そして飼い主が良しと告げると同時に目の前に置かれた餌を食べ始めた。
「スコティッシュ・マンチカン・フォレストブルーはこれくらいは頑張れば出来るらしいよ」
『スコ……なんて?』
どうやらこの動画の猫は同族だったらしい。
妙に長い猫種の特徴として頭が良いらしく、先日のリモコンを触って、テーブルの上でスクワットしていた件はこういった同族の賢さという前提により怪しまれずに済んだらしい。
その後、似たような芸をしている猫を見せられ、部屋を移動、女の目が珍しく興奮に輝く。
「お手!」
『……いや、言うと思ったけど』
あの動画を見始めた時点でこうなる予想が自分にはあった。
先ほどまで自分を抱いていた柔らかそうな女の手に頭を擦り付ける。
「かわいい~。でもそうじゃない。お手!」
苦笑を浮かべて自分の頭を撫でる彼女。
薄着の彼女はその後も手を差し出したり、食べ物を出すと同時に手を出させようとする。
「ほら、イエ。さっき動画で見た感じで。お願い、ちゅーる上げるから。俺を癒してくれ」
『……!』
前足を彼女の手に置く。欠伸をするより簡単だ。
しかし、ここで簡単に食事に釣られ、芸を披露しても良いのだろうか。
「ほら、お手~」
『…………』
プライドがあるという訳ではない。猫畜生になった時点で消えた。
では何故なのか。
思ったのだ。あまりにも簡単に出来てしまうと賢すぎないだろうか、と。
動画を見て即座に模倣出来る猫。
凄いというよりも怖すぎではないだろうか。
『考えすぎかもしれないけど、一応ね……』
「お手!」
『何回も言うなって』
自分という猫に癒されている家主には申し訳ないが、カメラを忘れた女はただの女だ。
ここで前足を差し出しても喜ぶのは主一人だけだ。その感動は二度目三度目と薄れていくだろう。人間のように後ろ足で立ち上がった姿も今は『ま~た人間になったんか』とカメラを向けられる程度なのだ。
最初のお手、そのタイミングとカメラ映えは恐らく、再生回数的にも重要になってくる。
そうして主を喜ばせるのが、この家での今後の猫生に繋がる重要な要因なのだ。
だからこそ――、
『マスター、安心して下さい。そのうち必ずしますから。今はちゅーるを……』
「ん? どうした~」
彼女の喜びの声は大勢で分かち合いたい。
ならば、今は機会を窺うべきだろう。
何か特別な時に。最も高い効果を発揮しそうなタイミングを。
イエを迎え入れて3ヵ月が経過した。
これまで猫を飼ってこなかった俺としては事前準備として隙間時間に猫動画を見たりなどしていたが、猫というのはこれほどまでに賢い生物なのかと驚いた物だ。
カメラを向けると度々カメラ目線となる黒猫。
ふわふわの毛は定期的に専門の人間に手入れをお願いしている為、常に艶々である。
最近は猫動画の比率が増えたからか、急速に登録者数も増えてきている。
ゲームをプレイしたり、食べ物のレビューをしたり様々なことをして地道に登録者数を増やしてきたのだが、動物人気は根強いらしい。凄まじい勢いがある。
とはいえ、猫動画に甘んじていると足元を掬われかねない。
現状、俺の投稿する動画が高評価が続くのには理由がある。
確かにこの身体は美人だ。だが美人は三日で飽きるという。
初期の頃はポロリやチラ見せ目当ての層が多かったが、そういったことが少なければアンチになったりストーカーになったりと大変だったことがある。
また、基本的に行っていることは俺の記憶にあった動画配信者たちの真似事だ。
元々動画配信者自体が存在していなかったから、物珍しさもあっただけで調子に乗ってはならないのだ。謙虚さを忘れて他人を攻撃するとそれらは全て自分に返ってくる。
そんな自分の模倣動画は偽物、ネタが尽きた時には本当に才能のある配信者に負けるだろう。
既に十分な程に資産はある。それを運用して更に資産も増えている。
このまま辞めて、贅沢三昧な日々をこの身体に味わわせても余裕なだけは稼いだ。
ただ、今はまだこの動画配信を続けていきたい。
イエのおかげで、予想より早くチャンネル登録者数が500万人を超えたのだ。
もしかしたらこのまま1000万人を達成できるのではないのか。
そんなことを俺は思ってしまう。
「ハロハロチューブ。トクガワちゃんねるでーす。ゲリラ配信始まるよ」
普段の動画投稿とは異なり、視聴者のコメントを見ることが出来る。
この時代で最新のスマホ画面には突発的にもかかわらずコメントが並ぶ。
――そろそろ来ると思ってた。
――おじさん、ちっす。
――イエ、はよ。
――500万おめ。
「どーも、おじさんでーす。今回は登録者数500万人を記念してちょっとだけ配信しちゃいます」
グングンと増えていく視聴者数。
俺が操る美少女に沸き立つ彼らの反応に笑みがこぼれる。
「じゃあ、最初にせっかくなのでイエにご飯をあげてからにしましょうか」
俺の飼い猫は賢く、食事の準備を始めると足元をうろちょろと動く。
その姿をカメラに収めながら、皿に猫用ドライフードを盛り付ける。
「かわいいね~、あっ、そうだ。最近、ちょっと試していることがあるんですよね」
視聴者のコメントを見ながらイエの前に座る。
正面から見る飼い猫は大きな金の瞳をジッと俺に向ける。
何かを待つかのように目の前の食事ではなく、俺を見る。
「イエ……。お手」
もしかしたら。今日はきっと。
出来る訳がない。そんな冗談と保身混じりの俺の言葉に。
――白い前足がそっと俺の手に乗る。
「――ぁ」
小首を傾げて、ニャフーと愛らしい鳴き声を発する子猫。
ただそれだけのことなのに、これまでの苦労を労わるような、分かっているよ、そう言わんばかりの優し気な眼差しに何故だか俺の目元が熱くなった。
「イエ。俺は――」
思い過ごしかもしれない。偶然かもしれない。
それでも、何故か胸中に過る感慨深さに思わず天井を見上げた。そんな俺の奇行を前にして、ピコピコと両耳を動かし大きな瞳を瞬かせる愛猫は小さく鳴いた。
『――決まったな』
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