第36話
邪の道に堕ちた者の神気は、黒く染まる。これまで翠が纏っていた清涼な青は失われ、禍々しい漆黒に変化するはず。その瞬間を、翠はじっと待っていたのに。
「なんだ、これは……?」
思わずそんな声が漏れる。それというのも翠の神気は黒には染まらず、何故か
邪神とは熱を失い、心を虚無に巣食われるものなのだが、翠は今、心も身体も陽だまりの中にあるような温かさに包まれていた。虚無どころかすっかり満たされ、自我が失われていく感覚もない。おまけに濡れていた身体も渇き、雨粒は今や翠を避けていく。
「これは、一体……」
予想外の事態に翠は大きく目を瞠る。この現象はなんなのか……そうして思い出したのは、かつてククノチから聞いた話だ。
滅多にある事ではないが、神は稀に、その格が引き上がる事があるという。その際、神気は黄金色に変わり、そしてこの世の
――つまり俺は……邪神には落ちずに、むしろ神格が上がった、と……?
そんな事が起きるとしたら、その理由は──そう考えた時、千歳にも変化が起きた。彼もまた黄金の輝きに包まれたのだ。かと思うと、無数にあった身体の傷がみるみる内に癒えていく。泥と血に汚れぼろぼろになっていた襦袢も、立派な狩衣へと変わっていく――……
数秒後、輝きが消え去ると、千歳からは一切の処刑の跡が消え失せていた。それどころか、彼の髪も肌艶も、神子屋敷で過ごしていた時以上に美しくなっている。
そして彼は「んん」と小さく声を漏らした。これに翠は間髪入れずに。
「千歳! 目が覚めたか!」
呼び掛けると、千歳は暫しぼんやりとしたように瞬きを繰り返した。意識がはっきりとしてくると、黒く大きな瞳が翠の顔に焦点を結ぶ。良かった、どうやら視力も無事に回復したようだ。
「翠……お前が俺を繋ぎ止めてくれたのか……?」
千歳はまだ少し掠れた声でそう呟く。
「馬鹿だな……また俺の為に、自分を犠牲にするなんて……」
眉間にぎゅぅと皺を寄せ、翠の顔をじっと見詰める……が、やがて。千歳は不思議そうに首を傾げて。
「って、あれ……? なぁ、さっきの話、俺をお前の眷属にするって……そしたらお前は邪神になるって言ってたけど、全然そんな感じしないな……むしろ俺には、お前がすごく神々しく見えるけど……って、えっ?」
そこで千歳は驚きと疑問の綯交ぜになったような声を出した。無理もない。翠が力強く彼の事を抱き締めた所為だ。
「良かった……無事に戻ってきて……」
翠は小さくそう溢すと、それから長い溜め息を吐いた。こうして再び千歳の声が聴ける事に、心の底から安堵したのだ。
その所為で、翠はなかなか話を先に進める事ができなかった。きっと千歳は色々と聴きたいだろうに。そして自分も、千歳に言いたい事があるが。しかし今は、千歳を強く掻き抱く事で精一杯だ。この深い安堵の波を、もう暫く揺蕩いたくて。そしてまだ少しだけ、千歳が死の影に攫われるのではと心配で――……
と、こうして抱き竦められる事に千歳は戸惑っていたようだが、翠が余程必死だったからだろう。やがていつかと同じように、背中をぽんぽんと叩いてきた。「もう大丈夫だ」、「ごめんな」「ありがとう」と繰り返しながら……その内に、翠の心も落ち着きを取り戻していく。だがそれでも千歳を離したくはなく、変わらず腕に抱き続けると。
「……なぁ、一つ確認だけどさ」
千歳がそう口を開く。
「お前って、割と俺の事が好きだったって、そういう事でいいのか?」
それに一瞬、翠の髪の毛はぶわりと逆立つ。何せその問いはなんとも直球。それだけに翠はつい、「何を馬鹿な」と言いたくなるが──……
だが少しだけ逡巡し、喉まで出掛かった言葉を飲んだ。その代わり、千歳のこめかみに自らのそれを擦り付け。
「……割と、なんてもんじゃない」
そう素直に宣った。想いを自覚した今、胸の内を偽る必要は何処にもない。そして素直な感情を口にするのは、思いの外気持ちの良い事だった。
「きっと俺は、出会った時から惹かれていたんだ。神子として強い神気を持つからというだけじゃない。お前自身の、他者を思いやる清い心に。そして困難な状況に立ち向かう強さにも……だからこそ、お前と居るのに苦労した。お前を欲し求める心が抑えられなくなりそうで……」
だがそんな葛藤を抱えつつ、千歳と共に過ごした日々はなんとも言えず心地よかった。気安く言葉を交わせる事が楽しくて、温かくて。こんな日々が続けばいいと、いつしか翠は願っていたのだ。
「俺は、お前の心根が好きだ。それに笑った顔も、明るい声も、陽だまりのような匂いも……何もかもが愛おしい。だからこそ、お前が俺を拒まずにいてくれて安堵した。これで俺とお前は伴侶として──」
「えっ⁉ は、伴侶⁉」
と、そこで千歳は素っ頓狂な声を出した。もうすっかり身体も意識も回復したのか、バタバタと暴れて翠の腕から逃げ出していく。そしてある程度の距離を取って向かい合うが、その顔は面白い程真っ赤に染まり上がっていた。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ……! や、さっきからなんかお前、俺の想定とは違う、めちゃくちゃ熱烈な事言ってるなとは思ったけど……」
「? 何が想定と違ったって?」
「だから! だから俺はてっきり、お前が俺を、友人とか! 人として! 好いてくれてるのかと思ったんだ!」
千歳は力いっぱい、そう叫ぶ。
「それなのに、い、愛おしいとか……伴侶とか! 待ってくれ、全然頭が追い付かない!」
大いに混乱したように訴えるのだが、これに翠は「はぁぁ?」と思い切り顔を顰めた。
「ってお前、何を今更……おい、いいから俺を見ろ。この姿、邪神になっているように見えるか? 見えないだろう? それは紛れもなく、お前が俺の眷属となる事を受け入れていたからだ。つまりお前は、永劫俺と在る事を了承し──」
「ああ、それは認める! けど、それってつまり、お前の側仕えとしてって事かと……!」
「……あぁ?」
翠は眉間にこれ以上ない皺を刻んだ。
これは少し、状況を整理する事が必要だ。
まず翠としては、千歳への想いを自覚し、決して失いたくないと考えた。その為に、例え千歳に恨まれて、更に自らを邪神へ落とそうとも、彼を己が眷属として神の籍を与えんとした。その魂を二度と離さず、永劫自らの手元に置くものとして。
対して千歳は──ほぼ意識のない中だが、その話を受け入れていた。だからこそ、彼を眷属にする事は御供を蔑ろに扱う事とはならなかった。翠は邪神になる事はなく、むしろ千歳の豊富な神気によって力を蓄え、神格を大きく上げたのだ。
翠は千歳に受け入れられた事で、彼も自分と同じ想いを抱いていると確信した。そんな二人が永劫共に在るのだから、伴侶となるのは当然と──
だが。
改めて思い返してみれば。
眷属とする前に、翠は一度も千歳に対し、好きだと告げてはいないような。
それ故に千歳は翠の想いを、側仕えとしてのものだと受け取ったと──……
「いや、なんだそれは……」
翠は大きく溜め息を吐き出した。なんとも頭の痛い事態である。まさかこんな行き違いを抱えたまま、大事な儀式を行ってしまうとは。
「あー……まぁ、だとしても、だ」
「っ!」
翠は千歳を軽く手招く。と、意図も簡単に、その身体は腕の中へと戻ってきた。神格が上がったお陰か、こんな事は造作もなく行えるようになっている。
そして今一度、千歳の身体を抱き締めると。
「もう今更、離してはやれん。お前の心が定まるまで無理に手を出す事はしないが……それでもこちらはお前の事を、伴侶として扱わせてもらう」
「っ、そんな勝手に……」
千歳は慌てた声を出すが、もう遅い。
「何を言う。神とは本来勝手なものだぞ」
開き直ってそう告げると、千歳はなんとも言えない呻きを上げた。
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