第35話
「しっかりしろ……なぁ、まさか死んじゃいないだろ?」
言いながら仰向けに抱き起こすと、腫れ上がった瞼が微かに震えた。嗚呼良かった、反応がある――それに束の間安堵した翠なのだが。
「あれ……翠か……?」
なんとか重たい瞼を開けた千歳だったが、その視線は目の前の翠ではなく、何処かもっと遠い場所を見るようだった。
「悪い……なんかよく見えなくて……でも、翠だよな……? お前、また助けに来てくれたのか……」
掠れる声で、しかし安心したようにそう溢す。その様子に、翠は胸がぐしゃぐしゃに潰れるような感覚を覚えた。
もう、千歳は助からない。
全身に余りに多くの暴力を受け過ぎたのだ。頭から多量の血が流れ、顔は千歳と判別するのも難しい程腫れ上がり、身体には無数の傷や痣がある。
畜生。畜生。間に合わなかった……!
突き付けられるその事実に、翠はギリと奥歯を噛む。腕の中、徐々に力を失っていく身体。弱くなっていく鼓動。その変化を感じる程、鋭利な刃物で切り付けられたかのように、どうしようもなく胸が痛む。
だが、そんな翠の心境とは対照的に、千歳の声は穏やかだった。
「あぁ翠、無事で良かった……俺な、もう一度お前に会いたかった……まだお前に伝えてない事、たくさんあって……」
「いい、いい喋るな!」
翠はぶんぶんと頭を振る。千歳が体力を消費する程、その魂が彼の身体を離れいってしまいそうで。だが、千歳は緩く首を振る。
「いや……これできっと最後だから、言わせてくれ……俺さ、すごく変な話だけど、あの社で、お前と二人で過ごすのが、実は結構好きだった……」
弱弱しい息の元、告げられる言葉。それは間違いなく翠にとって喜ばしいものなのに、今はむしろ、苦しくなった。
だって、此方も同じように感じていたのだ。二人の時間が愛おしいと。だと言うのに、もう終わりか。あの温かい時間を、もう過ごす事はできないのか。
「俺にはずっと、気安く話せる相手って、いなかったから……だから、楽しかったんだ……本当は不敬だってわかってた、申し訳ないとも思ってたけど……」
「……っ、そんな事、今更俺が気にすると思うのか」
切なくて切なくて、呼吸すらもままならない。それでも千歳に答えたくて、そう無理矢理に絞り出す。すると千歳は、「は、」と息を吐くように笑う。
「だよな……お前は、そう言う気がした……」
そこで彼は大きく一度息を吸った。呼吸の力もかなり弱まっているらしい。だがそれでも、まだ言い足りないのか、口を開く。
「なぁ……お前実は優しいから、俺の為に怒ってくれてるだろうけど……皆の事、あんまり責めないでやってくれ……」
「っ、お前はこの状況でもそんな事を……」
翠は堪らない思いだった。間も無く命が終わろうという時に、その原因を作った者を気遣うなんて。全くどこまでお人好しだろう、この馬鹿は。
だが今は、その馬鹿さ加減すら愛おしい。だからこそ、失われていくのが余りにも辛いのに、千歳は尚も穏やかに。
「だって、これが俺なんだから、仕方ねぇだろ……それにな、皆、村を守りたかっただけなんだ……その為に必死だった……それだけの……」
「けど、お前はそれでいいのか⁉」
翠は思わず千歳を強く揺さぶっていた。
「勝手に期待を背負わされて、お前に非があったわけでもないというのに落胆されて……挙句、命までをも奪われて! こんなの納得できないだろう、俺は到底──」
「いいんだよ」
弱々しく、しかしはっきりと千歳は告げた。
「俺はいいんだ、お前が来てくれたから……最期にこうして駆け付けてくれる奴がいたんなら、それはきっと、いい人生だったんだ……」
「そんな……本当に、お前はどこまで……」
できるなら、恨み言を言って欲しかった。この理不尽な状況を、間に合わなかった翠を――それどころか、そもそも彼が御供になるのを拒絶した翠こそが元凶だろうと、思い切り罵って欲しかった。その方がどれだけ気が楽になったか……
だが千歳は、全てを赦し受け入れて、消えようとする。こんなにも優しい人間が、こんなにも意味のない死に方をするなんて。翠にはとてもやり切れない。
そしてどこまでも利他の精神に突き動かされるこの男は、こんな状況だというのに。
「翠……お前、大丈夫か?」
か細い声でそんな事を言い出した。
「今気付いたけど、神力、かなり弱まってないか……? やっぱりあの美鈴って奴、御供にはならなかったのか……」
そう言いつつ、翠の頬に触れようというのか、右手を宙に彷徨わせる。
「お前、お前さ、ちゃんと御供を探しに行けよ……でないとお前、消えちゃうんじゃないか……? 村の事も心配だけど、俺、お前には――翠にはさ、元気でいて欲しいんだ……」
そう口にしたところで、彷徨っていた千歳の腕が、力なく落ちた。その光景に翠は大きく息を呑む。
「おい……おい、逝くな……」
翠は千歳の肩を揺さぶり、それから心音を確かめる。どうやら意識を失っただけのようで、まだ彼の胸には鼓動があった。が、それももう、かなり弱い。間もなく彼は逝ってしまう。自分にはそれを引き留める手立てはない。見送るより他にない。今この時が別れだとして受け入れるしか……その残酷な現実に、翠は消沈し掛けたが――……否。
翠はグッと、千歳を抱く腕に力を込める。
ついさっきまで翠は、千歳を助ける為ならば自分はどうなっても構わないと思っていた。力を使い切って消失しようと、千歳さえ救えればそれで良いと。それは壮絶な覚悟の要る決意だったが――……その千歳が失われるとするならば。
壮絶な覚悟は、別の決意へと形を変える。
「――……」
翠はじっと千歳を見詰める。今、彼の死が目前に迫った事で、頭の中、一つの選択肢が浮かんでいた。
それはこれまで除外してきた、有り得ないと思っていた手段を取る事である。もしもそれを実行すれば、千歳を失わずとも済む……そして力のほとんどを使い果たし、今夜にでも消え入るだろう翠もまた永らえる。
だが、万々歳というわけでは決してない。きっとその時、翠は翠でなくなるだろうし、そして千歳は――……嗚呼そうだ、千歳はどう思うだろう。
翠を嫌悪し、自らの運命を呪うだろうか。何故素直に死なせてはくれなかったのかと、永劫嘆き続けるかも。それは翠にとって、決して望ましい結末とは言えないが――
――いや、いい。
翠はあらゆる懸念を断ち切るように、ぶんと激しく頭を振った。どういう結果に繋がろうと、千歳を失うよりはいい。それさえ避けられるならば、後はもうどうなっても。
「――おい。まだ聞こえるか」
目を伏せて細い呼吸を繰り返す千歳へ、翠はそう呼び掛ける。
「俺がお前を御供にしなかった理由だがな。それは、お前に不足があったわけじゃない。毛嫌いしていたわけでもない……むしろ、お前に強く惹かれた為だ」
そう告げると、少しだけ千歳の睫毛が震えた気がした。だが、反応までは返らない。翠は構わず語り続ける。
「俺はお前が、欲しくて欲しくて堪らなかった――だからこそ、恐ろしかった。もしお前を御供にして手を出せば、絶対に手放せなくなるだろうから……過去の神子達は役目を終えれば氏神として家に戻してやっていたが、お前の事はどうしても手放せる気がしなかった。だがそうなれば、お前はきっと嘆くだろう。永劫俺の手元に置かれ、親しい者達とは
そこで翠は決意を一層固めるように、大きく深く、息を吐く。
「……だが、もうそんな事はどうでもいい。理性無き邪神に成り果てようが、お前が如何に嘆こうが、関係ない。お前を失わずに済むのなら、他の事はどうだって……」
翠はそう告げ、千歳の襦袢の合わせを左右に大きく寛げた。そこにも痛々しい怪我があり、皮膚が青やら紫やらに染まっている。だがその中にあっても胸の中心、勾玉型の痣はくっきりと形を保っていた。
初めて目にする、千歳の痣。神子の資質を持つ証――その余りの誘惑に、眩暈がする。自我が飛ばされそうになり、欲望のままに吸い付きたくなる、が、翠は理性を総動員して己を抑えた。いざ行動に移す前に、告げておきたかったのだ。
「いいか。今から俺は、お前を我が眷属とする。それはただ御供になるのとは違う……今言ったように、永劫俺の傍に在る者として、神の籍を与えるんだ。これをお前の同意なく実行すれば、俺は邪神となるだろう。そして邪神もその眷属も、当然ながら誰に崇められる事もない。この世から見放された存在となる。それは決して楽な在り方ではないだろうが――……」
そこで翠は言葉を切った。最後の迷いが去来する。本当に、これで良いのか。千歳は二度と、笑顔を見せなくなるかもしれない。それは翠には辛過ぎる。もしかしたらこの選択は、二人を永劫の地獄に落とすものかもしれないが――……いや、それでも。
「――許せ」
翠は最後に短く告げると、千歳の胸元へ口付けた。彼を神子たらしめる勾玉の痣。多大な力を秘めた神気の源。そこへ唇を押し付ける。それが眷属とする為の儀式なのだ。
するとその瞬間から、強い力が一気に身体へ流れ込んだ。枯渇していた神力が、みるみる内に満たされていく。先程まで弱っていたのが嘘のように――しかし、そこに一切の悦楽は伴わなかった。
翠の心は、既に凍り付いていた。いくら強い力を得ようと、この先に待つ悲壮な未来を思ったら喜べるはずもない。
きっと自分はこれから永劫、絶望と共に在るのだろう。千歳に恨まれ、神々からも蔑まれ――時には人間達を相手に、理由なき裁きすら下すのかも。邪神というのはそういうものだ。悲劇ばかりを生み出して、嫌われて、恐れられ……
だがそれも甘んじて受け入れよう。千歳さえ繋ぎ止められるなら、絶望くらいいくらでも引き受けよう。そう考えた翠だったが――……
しかしそこで、なんだか妙な事が起きた。
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