第34話

――千歳、千歳、千歳……!

 頭の中、まだ一度も呼んだ事のないその名前を繰り返した。どうか生きていて欲しいと、間に合って欲しいと、切に切に想いながら。そうしている間にも物凄い勢いで力が消費されていくが、それを惜しいとも思わない。だってもし永らえても、千歳が居なければ意味がない……そんな激情が溢れてきて、翠はようやく、自らの心を理解する。

 人間に心惹かれるなんて、有り得ないと思っていた。だって人間とは信仰という名の燃料のようなものだ。それにこうべを垂れ必死に祈ってくるばかりで、皆同じにしか見えない。ならば思い入れなんてあるはずもない。

 だが千歳は、そんな認識を覆した。

 彼は翠が観察してきた人間達とは違ったのだ。

 それは、絶大な神気を持つだとか、類稀なる利他の心があるだとか、そういう事が理由じゃない。確かにそれは龍神という立場からすれば非常に魅力的に映るのだが、肝心なのはそこではない。

 千歳は他の者達のように、自分をただ畏れ敬うだけではなかった。彼は村を救う為、決して恐ろしくないわけではなかっただろうに、翠の元へと飛び込んできた。そして此方と対等であるかのように物を言い、交渉を試みた。

 今にして思えば、それだけで翠は千歳に大いに興味を引かれていた。なんと生意気で面白い奴がいるのかと。それが自らを狂わせる危険な存在だとわかりつつ、それでも彼の作る料理を食べに茶の間に姿を見せていたのは、きっとそこにも理由がある。

 遠ざけたいのに、興味深い。もっと見たい。もっと知りたい……随分と早くから、翠はそんな感情を抱いていた。それを惹かれていると言わずしてなんだろうか。

――それに、名前を呼ばれるのは心地が良かった……

 千歳に「翠」と呼ばれると、自らが特別な存在になったのだという心地がした。“龍神”という存在はこの世に複数存在するが、しかし「翠」と名を持つ龍神は自分だけだ。それ故に、呼ばれる度に特別なのだと知らされるようで。温かくて。満たされて。何度でも呼ばれたいという想いが、自然と翠を千歳の近くに導いていたのかもしれない。

 思い返せば返す程、どれだけ自分があの人間に惹かれていたかを思い知る。共に居る事でどれ程心が満たされたか……永らくこの世に存在して、こんなにも鮮やかで愛おしい日々はなかったと思える程に。

――嗚呼、そうだ。俺はきっと彼奴の事が……

 翠は今、ようやくそれを自覚した。

 これまで散々否定したが、もうそれもできそうにない。

 だって今、こんなにも心から千歳の事を求めている。

 神子だからではなく、ただ、千歳という存在を。

 だから決して死なせたくない。翠は風よりずっと速く空を駆ける。失えない。失いたくない。その為ならどんなに力を使ったって、そのまま費えてしまったって構わない。そんな覚悟を胸に抱き、雨粒を弾き飛ばし空を切り裂き飛んで行く。

 やがて村が見えて来ると、喧噪が聞こえてきた。突如天上に現れた龍神の姿に、人々が驚愕の声を上げているのだ。

 彼らは荒天にも拘わらず、村奥の広場に集まっていた。その手には、棒や石が握られている。明らかに異様な空気。憎悪の渦。其処がきっと処刑の場だ。

 翠は一目散にそこに向かって下りて行き――だが、途中でびくりと動きが止まった。千歳の姿が見えたのだ。

 彼は大勢の男に取り囲まれ、俯せに倒れ伏していた。社を出て行った時の狩衣姿ではない。簡素な白の襦袢へと着替えさせられ、その襦袢も最早、泥と彼の血によって見るも無残に汚されている。

――嗚呼、千歳……!

 その瞬間、翠は自分自身が酷く穢されたような心地がした。そして次には、カッと頭に血が上る。抑え切れない衝動が込み上げて、大気を震撼させるような咆哮を上げる。

 するとそれに呼応するように、雨脚が一気に強まった。突風が地上へと吹き付けて、其処此処からギャァという悲鳴が上がる。慄いた人々は一斉にその場から逃げ出そうとする――と、そんな中。

「龍神様! 貴方様のお怒りは、この神子に向けられたものでございましょう⁉」

 そう叫び呼び掛けてくる者があった。視線をやれば、この村の長である。彼は――どれだけ強く千歳の身体を打ったのだろう、先の折れた棒を掲げ、誇らしげに声を張り上げる。

「この神子の処遇を確認しに来られたのであれば、心配はございません! 奴はもう虫の息! 今すぐ始末致しますので、どうかお静まりくださいませぇ!」

 そう言って、彼は棒を振り上げた。これに逃げ惑っていた村人達もハッとしたように足を止め、そうだ殺せと口々に叫び出す。千歳への裁きこそ、龍神を鎮める唯一の手段だと信じ切っているように。そしてそれを叶えんとする村長にギラギラとした期待を寄せるのだが――数秒後、彼らの顔に浮かぶのは再びの恐怖であった。

 翠は千歳が打ち据えられるより速く急降下し、大きな口をグァと開いて村長の腕を嚙み切ったのだ。「え」という小さな声を漏らした直後、村長は全ての力を失ったように仰向けに倒れ込む。

 辺りは一気に阿鼻叫喚の地獄絵図となった。村人達は、村長の行いにより龍神が鎮まるものと信じていたのだ。それが何故か村長が襲われた……もしや次には自分達が襲われるのか⁉ 彼らはそう思い至ると、最悪な行動に出てしまった。

「大変だ……龍神様はきっと、お怒りの余りに錯乱しておられるのだ!」

「なに⁉ ならば早く千歳の事を葬らねば……」

「そうだ、村長に出来なかったのならば、我らこそが!」

 彼らは「おお」と声を上げると、手に持った棒や石を一斉に千歳へと投げ付け始めた。既に倒れ伏し動きもしない者に向けて、無数の暴力が襲い掛かる。

 翠は素早い動きで千歳の前に立ちはだかると、怒りに任せて強い水流を吐き出した。それは凄まじい勢いで、村人達をまとめて彼方へ押し流す。本当ならば、信仰の元となる人間達を殺したくはなかったが、そんな事を考える余裕はまるでなかった。ただ、千歳に害をなす者を排除する、それだけしか頭にない。

 そうして轟音と悲鳴がすっかり聞こえなくなって、雨音だけが鼓膜を打つ中。翠はようやく振り向いて。

「おい、大丈夫か!」

 瞬時に人の姿へ転じ、千歳の元へと駆け寄っていく。と、その途中で体勢がガクリと崩れた。ここまでに力を使い過ぎたのだ。うまく進む事が叶わず、翠は泥の地面を這うようにして千歳の元へと辿り着く。

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