第33話





「あー……待ちぼうけさせたのは済まなかった。だが、まだ俺の準備が整わん。今しばらく時間をくれ」

 翠は美鈴にそう告げる。用意された料理も食わず、御供としても手を付けない。それは自分でもあるまじき事だとわかっていた。別に人間を相手に気を遣う事もないのだが、しかし御供に嫌われ拒まれれば、正常に力を得る事ができなくなる。望まれないのに事に及べば、邪神に落ちる危険もある。気乗りしないのは仕方がないが、しかし此処は丁重に謝意を示さねば……と翠が殊勝に述べる言葉に、美鈴は小さく息を吐いた。

「そう……全く、こんなにも恥を掻かされたのは初めてだわ。わざわざ遠路はるばるやって来て、この身を捧げようというのに、こんなにも待たされる事になるなんて」

 そう零す声は、それまでとは少し違っていた。音、というよりも、そこに滲む雰囲気が違う。それまでの恭しさが一気に失われたような――その変化を怪訝に思っていると、美鈴はずばりと。

「どうやら龍神様は、余程前の神子様がお気に召してらっしゃるようね」

「……はぁ?」

 断定的にそう言われ、翠は大きく顔を顰めた。それから「ふん」と鼻で嗤う。

「何を言い出すかと思えば……馬鹿馬鹿しい。俺が彼奴を気に入っている? そんなわけがないだろう。俺は彼奴を御供としては認めなかった。それは彼奴が危険だからだ。下手に手を出せば身を滅ぼされかねない……だというのに、気に入っているわけがないだろう!」

 翠としては至極当然な論理を展開したつもりだが、美鈴はいっそ馬鹿にすらするように笑い声を立てた。

「あらあら、そんなにもあからさまな事を仰っておきながら、無自覚でいらっしゃるの? 貴方様が千歳様を危険視するのは、それ程までに彼に惹かれているからに他なりません。そして惹かれる理由とは、神気の強さだけではありませんよね?」

 美鈴は訳知り顔にそう言って、すぅと瞳を細めると。

「龍神様は、千歳様そのものを好いている。他の者の入り込む余地のない程に……だからこそ、私に食指が動かないのでございましょう?」

「は、何を……」

 翠は彼女の言葉をすぐに否定しようとした――が、できなかった。

 以前ククノチから同じような事を言われた際には、違うとはっきり言い返せた。だが今は、思い当たる節があり過ぎた。あれからたった数日しか経っていないが、翠の中、千歳の存在は格段に大きくなっていたのである。

 だが、それが懸想かと言われると、認めるのには抵抗があった。故に翠は黙り込むが──それをじっと見詰めていた美鈴は、やがて大きく息を吐いた。

「……まぁ、龍神様のお気持ちに白黒付ける必要は私にはございませんが。なんにせよ彼を御供にせずにおいてくれて助かりました」

「助かる? ……とは、どういう意味だ」

 翠は怪訝に問い掛ける。すると美鈴は目に弧を描き。

「だって千歳様ったら、あの神気の強さでございましょう? 彼が御供になっていたら、龍神様は稀代の神となられたはず……そもそものお力を回復させるに留まらず、もっと高い位まで上り詰められていたはずです」

「……お前の今の言い方では、俺がそうなっては困るかのように聞こえるが」

 翠は眉間に皺を寄せ、注意深く相手の事を観察した。先程から、美鈴の声音や発言に刺々しさが見え隠れする。この娘、一体何を考えているのか……見透かしてやろうと、目を眇める。

 だがそんな剣呑な視線などなんのその、美鈴は堂々と首肯した。

「ええ、仰る通りです。私は龍神様がお力を付けるのは嫌なのですよ」

「……何故なにゆえに」

 翠は鋭く、短く問う。

 すると美鈴は腕を組み、

「私は、この国を津々浦々旅して回る一族の者です」

 落ち着き払った声音で、そんな事を語り始めた。

「祖先は生まれ付き退魔の力を持っており、その力を人々の為に役立てんと奮起して旅に出ました。その子供も、そのまた子供も祖先の力とこころざしを受け継いで、一族は各地を巡り、妖により困窮した人々に救いの手を差し伸べました。そんな中で、私の父達の代は一つの結論に至ります……人々を何より困らせ悲しませているのは、悪しき神の存在だと――……」

 美鈴が声を低くして告げた瞬間、翠の身体に巻き付いてくるものがあった。目には見えない紐のようなものが足から肩までをぐるぐると縛り上げ、翠は体勢を崩して倒れ込む。

「っ、なんだ……⁉ これはお前の仕業か⁉」

 そう問うが、美鈴が何かしているのは明らかだ。この事態に社もガタガタと音を立てるが、しかし何も起こらなかった。どうやら翠同様に術を掛けられているらしく、彼女を排除できないらしい。

 この不敬に翠は髪を逆立てるのだが、美鈴は怯んだ様子も見せず、余裕たっぷりに微笑んでいた。

「ええその通り。これは私の使う術です。私はね、貴方を退治しに来たのです」

「なに……?」

「本当なら、貴方が私に手を出した時……完全に油断し切ったところを狙うつもりでした。貴方は強い神ですもの、確実に仕留められる機会を待つべきと考えたのです。けど、ここまで観察していてわかりました。貴方は最早腑抜けであると。警戒して時を待つ必要もない」

「貴様……さっきから誰に楯突いているのか、きちんと理解しているか?」

 翠は一際低い声で、ゆっくりと問い掛ける。常人ならばとても平気ではいられないだろう凄まじい威圧を掛けて。

 だが、美鈴はこれにもゆったりと笑みを返し。

「勿論わかっておりますとも。それより貴方こそ、まだおわかりになりませんか……私は数年前、貴方によって殲滅された陰陽師一族の娘です」

「――っ!」

 その言葉に、翠の身体を衝撃が駆け抜けた。当時の苦い記憶が鮮明に蘇る。突如の奇襲に厄介な攻撃……辛くも勝利したものの大量の力を消耗し、身体もぼろぼろに傷付けられた。まさかその娘とやらを、易々と社へ招き入れてしまうなんて──

 自らの失態に舌打ちする。美鈴は確かに常人ならざる力を纏うが、神子達とは毛色が違った。それは水守村の出でないからというわけじゃなく、そもそも彼女は神子でなかったという事なのだ。

「嗚呼そうか。こんな事にも気付かないとは……俺も耄碌もうろくしたもんだな」

 自嘲的に吐き出すと、美鈴は意地悪く口角を吊り上げて、昨日と同様に白衣の合わせを寛げた。そして勾玉型の痣を掌で強く擦ると、痣はあっさりと消え失せる。

「まさかこんなにも簡単に騙されてくれるとは思わなかった……まぁ貴方の場合、耄碌というよりは、あの千歳という者の事を考え過ぎて盲目になっているという感じだけれど」

 そうして千歳の名が出ると、翠はカッと目を見開いた。

「そうだお前……彼奴をどうした? 彼奴に何か仕掛けたのか⁉」

 この娘が翠を狙う陰陽師一族の者ならば――そして仲間を殺した翠を恨んでいるならば、翠が憎からず思っている千歳にも危害を加えんと企てたかも……そんな不吉な考えに、美鈴は実に淡々と。

「彼には今日、死んでもらうわ」

「──っ」

 躊躇いも無く吐かれる、残酷な台詞。余りの衝撃に何も言えなくなる翠に、美鈴は更に言葉を続けた。

「勿論彼に罪はないわよ。それにこれは、貴方の所為というわけでもない……ただ、彼は危険過ぎる。今この場で貴方が死に、水守の地からその威光が消え失せれば、きっと彼の神気に引き寄せられて多くの邪神が集まってくる。そして彼を食った邪神は、凄まじい力を得るでしょうね。人々をどれ程苦しめるかわからないし、討伐だって難しくなる……それを考えたら放置はできない。彼は不幸の種でしかないのよ。だから何かが起きる前に消えてもらうの」

 そう言って美鈴は、開け放たれた窓の外へと視線をやった。

「……ああ、もう随分と日が登ったわね。今頃彼、処刑の場へ引っ立てられている頃よ」

「処刑――処刑だと⁉」

 余りの事に言葉が出なかった翠なのだが、これには黙っていられなかった。

「では千歳は――村人達に手を下されるという事か⁉」

 その醜悪な事実に、腹の奥がカッと焼き付くようだった。

 だって――だって千歳は、村人達に対し決して悪い感情を抱いてはいなかった。神子屋敷を追い出され、生活も性格も随分と荒んだようだが、それでも村人達を恨んではいなかったのだ。それどころか今回の呼び出しに対し、自分がまだ彼らから、村の一員として認められているようだと喜んでさえいたのである。

 だというのに、その村人達に処刑させる? 非道過ぎるやり口に翠は益々髪の毛を逆立てるが、美鈴は余裕な表情を崩しもせずに頷いた。

「ええ、そうなるわね。だって私が人間相手に殺生するのは外聞が良くないもの……それにしてもあの村の人達、千歳の存在が龍神の怒りを買っているって作り話を簡単に信じ込んだわよ。まぁ、神子の言う事なら信じても当然かもしれないけれど……可哀想に、本当に追い詰められていたのね。私の事をまるで救世主かのように扱って! あの調子なら、私が有り金全て差し出しなさいと言ったら喜んで差し出すわよ」

 美鈴はケラケラと下品な笑い声を上げた。最早そこに、神子然とした清廉さは微塵もない。人々を救う事を志す者としても、眉を顰めたくなるような振る舞いだ。もしや彼女は一族を殺された恨みによって、その心を既に闇へと落としてしまったのかもしれない――……が、そんな事はどうでも良かった。この娘の背景なんて、どうだって。

 翠は自らの中、ふつふつと怒りが煮立っていくのを感じていた。それは未だかつて感じた事のない、仄暗く、苛烈な怒りだ。

「放せ……」

 低くそう吐き出すと、美鈴はハッと嘲笑した。

「なんですって? もしかして今、放せって言ったのかしら? 笑わせないでよ、そんな事聞き入れるわけがないじゃない!」

 それから翠の角の間を、グリと足で踏み付ける。

「私はね、ずっとこの機を待っていたの。あんたが限界まで弱り切るこの時を! 父を、一族の皆を殺され、どれ程私が苦しんだか……あんたのような邪神にはわからないでしょうね、人の心なんてわからないから! だから簡単に御供なんて取れるのよ!」

 美鈴はそれから、翠の犯した罪とやらを長々と責め立てた。だが翠には、その全てに反論があった。美鈴の一族を葬ったのは向こうが先に襲撃を仕掛けてきたからに過ぎないし、それに御供となった神子達も、皆覚悟を決めていた上、御供を取った理由だって――まぁかつては確かに怒りに任せた略奪のようなものだったが――近年では村を水害から守る為だ。邪神呼ばわりされる筋合いはない。

 だが、今はそんな事はどうでも良かった。議論の必要すら感じない。そして頭を足蹴にされるなんて以ての外だが、それすら今はどうでもいい。

 ただ一つ重要なのは、千歳が今、どういう状況に在るのかという事だ。

 早くその場へ赴かなければ。

 千歳を救い出さなければ。

 それ以外何も考えられない。

「――もう一度言う。俺を、放せ。でなければ貴様、死ぬより酷い目を見るぞ」

 美鈴の罵声を遮って、翠は唸るようにそう告げる。過去、こうまで威圧的な声を使えば、人間は勿論の事、妖魔の類、それに他の神々なんかも恐れをなした――が、神殺しを厭わない陰陽師の娘は、尚も小馬鹿にしたような態度を崩さなかった。翠の頭を踏み付ける足も退かさないまま。

「だから。笑わせないでって言ってるじゃない。そうして転がっているだけのあんたに一体何ができるって?」

 言いながら美鈴は懐を探り、数枚の札を取り出した。それらは見るからに禍々しい雰囲気を放っている。きっと美鈴はこの札に、日々募る恨みの念を込め続けてきたのだろう。彼女は更に札へ力を加えんと、何やらぶつぶつ呪文を唱える。そして札が怪しく光ると、勝ちを確信したのだろう、彼女は口角を限界まで引き上げた。

「さぁあんたはこれでもう終わりよ! もし人と邪神が死後同じ場所に行き着くなら、愛しの千歳とも其処で再会できるかもしれないわね。その時には素直に想いを告げてみたら? まぁ邪神に応える者なんて何処にもいないでしょうけどね!」

 そう吐いて、美鈴は思い切り札を投げ付けてきた。それは最早紙ではなく刃物のような鋭さで、翠を斬り付けんと向かってくる。その上、札の纏う異様な気配。触れればきっと致命傷を負うに違いない――……が、次の瞬間。

 部屋を、いや、社の外までをも白く染めるかのような閃光と衝撃が走り、札が残らず弾かれた。それと同時、美鈴が「ぎゃっ」と悲鳴を上げる。光に目を焼かれたのだ。

 彼女は危険を感じたのか、素早く翠から距離を取る。そうして必死に状況を把握しようと目を擦り――だが、視力が回復するより先に、翠は彼女を思い切り壁へと打ち付けた。それは、強靭な尾による一撃である。

 強か背中を打った美鈴は苦し気に息を詰まらせ、まだ霞んでいるだろう目でなんとかこちらを睨み付けると。

「なんで……? そんな力、残ってはいなかったはず……」

 切れ切れながら、信じられないという様子でそう零す。驚くのも無理はない――今、翠は龍の姿へと変化しているからだ。

 美鈴の術による呪縛を解き、限りなく白に近い青の鱗を煌めかせた、世にも美しい龍となる。その姿は荘厳で力強く、とても弱り切っていたようには見えないだろうが……実のところ、これは翠にとって、紛れもない最後の手段であった。

 翠は今、一切の後先を考えてはいなかった。ただ、千歳を助けねばという事だけしか頭にない。それ故に、自らの存在を保つ力を全て費やし、本来の龍の姿へと変化したのだ。

「……っ、クソ……!」

 美鈴は再び、懐から札を出す。先程の痛烈な一撃により、身体は酷く痛んでいるはずなのだが、流石の執念と言うべきか……何がなんでも翠を討伐するのだという意思の元に動いている。

 だが、此方にはそれに付き合ってやる義理もなければ暇もなかった。翠はカッと大きく開いた口から水流を吐き出す。それが悲鳴ごと美鈴の身体を巻き込むと、一人でに外へと通ずる襖が開いた。社に掛けられていた美鈴の術が解けたのだ。美鈴はそのまま社の外へと、物凄い勢いで流されていく。その水流が何処まで彼女を連れ去るのか、翠自身にもわからなかったが――見届ける事はしなかった。

 とにかく今は急がねばと、開け放たれた襖から外へと飛び出す。その途端に、身体はぐんと大きくなる。長い胴体をうねらせて空へと登り、雨粒に身体を叩かれながら一直線、麓の村まで降りて行く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る