第32話



 昨日、千歳が社を出てから数刻が経った頃、この美鈴という神子が現れた。千歳に代わる神子をと村の連中が方々探し回った結果、ようやく見付けたのがこの娘だという事だ。

「私は水守村にはなんのゆかりもございませんが、神子の資質を持つ者として、人々に危機が迫るのを見過ごす事はできません。どうか私をお役立て下さいませ」

 そう恭しく頭を下げる。

 この登場に翠は随分と驚かされた。待ち望んでいたとは言え、全く心構えをしていなかったのだ。ともかく新しい神子を喜んで迎え入れ――と、当然そうするべきだったのだが。

「――と言う事は、千歳が村に呼び出されたのは、お前という神子が見付かったという報告を受ける為か? それだけならば、もう用事は済んだだろう。何故彼奴はまだ戻らん?」

 何故か翠は、目の前の神子よりも千歳の事を考えていた。もしククノチが居たら大いに馬鹿にされ呆れられた事だろうが、御供にできるだろう美鈴よりも、千歳の不在が気になってしまう。

 そんな翠に、美鈴は巫女服の袖で口元を隠し、くすくすと笑った。

「龍神様は千歳様を御供にはされなかったのに、随分と気に掛けていらっしゃいますのね。けれど、些か野暮でございます。新しい神子が現れたという事は、千歳様は正式に神子の御役目を終えられたという事……今は村の皆様に労われておりますよ。あの方も長い間心労があったでしょうに、ゆっくり楽しませて差し上げては?」

 そう言われると、翠は口を噤んでしまった。確かにその通りだと思ったのと、ここでようやく、自分が千歳に拘り過ぎていると気付いたのだ。

 なんにせよ、新しい神子が現れたのは幸いだ。翠は自らが如何に神力を失っているか、容赦なく突き付けられているところだったのだ。

 この美鈴は、水守村の出身ではないからか、これまでの神子達とは色合いが異なるようだが、それでも確かに力がある。早々に彼女を御供とし、自らの回復を図るべき……そう考え、翠は出会い頭にも拘わらず美鈴へと手を伸ばしたが。

「――……」

 しかし、彼女に触れる前に、ぴたりと身体が止まってしまった。

「……龍神様?」

 美鈴は不思議そうに瞬きをすると、自ら進んで白衣の合わせを寛げる。千歳とは異なり、この娘は御供の御役目がなんたるかをしかと心得ているらしい。

 そうして襦袢までをも広げて見せると、その胸元に勾玉型の痣が覗いた。それは龍神にとって、むしゃぶり付きたくなる程の誘惑の印だ。思わず視線が吸い寄せられるが――しかし。

「今は、乗らん」

 翠はそっぽを向いてそう告げた。痣を見せ付けられても尚、何故か気分が乗らないのだ。するとこれに、美鈴は酷く驚いたような顔をして。

「乗らない……? それはまた如何して……恐れながら、龍神様の御力は随分と弱っているように見受けられます。今すぐにでも御供を取り、力を蓄えられた方がよろしいのでは?」

「そんな事、言われずともわかっている。しかし仕方がないだろう、どうしても乗らんのだ」

 翠はそう突っ撥ねながらも、そんな己に困惑していた。美鈴に指摘されるまでもなく、翠も自分が弱り切っていると自覚している。すぐに御供から力を得なければ危険だという事も。

 だが、どうしてもそういう気分になれなかった。それより何より、千歳の気配を感じたいと考えている自分が居る。千歳の神気によってこそ癒されたいと……いや、何故。こんなのはとても正気とは思えない。やはり奴と過ごす内に、正常な判断すらできない程に狂わされてしまったのか……

「……わかりました」

 翠の頑なな拒絶に、美鈴は着物を直して頷いた。それからにこりと笑みを見せて。

「考えてみれば、まだお昼ですものね。そういう事に及ぶには早いですわ」

 それから彼女は、「それでは夜にまた」と告げて、その場を辞した。大胆にも思われるその台詞は、しかし神子としては当然のものだ。彼女は翠に身を捧げる為に社へ来た。ならば望まれる事にも応える事にも、なんの恥じらいがあるだろう。

 そんな彼女の宣言を受けた翠も、流石に夜までには自らの心も動くだろうと考えた。日が落ちて、世界が暗く沈み込めば、自然とそういう気分にもなるものと――……が、しかし。

 いくら夜が深くなろうと、翠は全くその気になる事ができなかった。やはりずっと、千歳の事が頭をぐるぐる回るのだ。そうすると、とても美鈴に手を出そうという気なんて起きなかったのである。

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