第五話 神子、自らの運命を知る

第31話

 夜が明けた。

 今朝はいつもより雨脚が強いが、自室の障子は薄っすらと朝の光を通している。

 翠はこの時間が好きだった。

 世界を覆う闇が晴れ、草木が、獣らが、山そのものが目覚め出す。

 そうして清々しい空気を胸いっぱいに吸い込めば、徐々に心身が覚醒し――だが。

 今日はそうはいかなかった。

 身体が怠い。

 息が苦しい。

 今、此処に存在しているという事だけで、どうしようもなく消耗する……この情けなさに、翠はうんざりと額を押さえた。

 不調の原因は、間違いなく千歳である。

 昨日、千歳が社を出た。なんでも村の人間から呼び出されたという事らしい。

 本来、それは好都合なはずだった。何しろ翠は千歳と居ると、どうにも心を乱される。危険だとわかっていながら傍に居たくて、そんな自分を戒めて……相反する己の心に振り回されて、疲弊する。だから一時でも千歳が留守にするならばこれ幸い、その隙に自らを立て直そうと思っていた……が、しかし。

 千歳が出て行った直後から、翠の身体は漬物石でも乗せられたかのように重くなった。それに身体中からじわじわと、力が抜け出ていくような感覚がある。この二年、日々神力が弱まっていくのを感じてはいたが、こんなにも急激に悪化するのは初めてだ。

 突如の事に戸惑いつつ、翠は考えを巡らせた。これは一体どういう事かと──……そして一つの仮説に辿り着く。

 もしや自分は急激に弱っているわけではなく、実は既に弱り切っていたのではないか……その心当たりなら、ある。あの山姫を蹴散らした時に、相当な力を消費したのだ。その後もそれなりに過ごせていたので気付かなかったが、本当は、普通に在る事すら難しくなる程に消耗していたのではあるまいか。

 では何故そんな状態で、それなりに過ごせていた? こちらも心当たりがあった。それは千歳の存在だ。

 彼の神気は、相当に強い。彼の清い御霊に惹かれてか、数十年分の赤子に振り分けられるべき神気が彼の元に集約している。謂わば神子の中の神子である。

 その存在が、翠の力を補っていたのではないか。本来の翠は今のように弱り切っているべきだったが、千歳が傍にいる事で持ち堪えていたのでは……?

 それは仮説でしかなかったが、きっと真実なのだろうと思われた。何せ今思い返せば、あの山姫退治は本当に無茶だったのだ。昔から対決を避けていたような厄介な妖に、ただでさえ力が弱まっている時に挑むなんて。

 その上、あの時の翠は完全に頭に血が上っていた。力の加減ができなかった。冷静に考えれば少し脅し付けるだけでも目的は果たせたかもしれないのに、そんな判断もできないまま、翠は相手を容赦なく斬り付けた……完全にやり過ぎである。酷く消耗していても不思議はない。

――しかし、そんな消耗も感じさせない程、彼奴の神気は強かったのか……

 その事実に舌を巻く。特別な神子だとはわかっていたが、これは本当に規格外だ。ただ側に居るだけでも、癒しの力が働くなんて。

――彼奴は今日戻ると言ったか。そうすればこの気怠さもマシになるか……

 翠はそう考える。そして身体が弱っている為だろうか、思考は妙な方向へと流れていく。

――早く彼奴の顔が見たい。声が聴きたい。早く、早く、早く……

 それは自らの不調や千歳の神気には全く関係のない事であった。ただ、千歳という存在を望み、早く会いたいと願っている。そんな風に一人の人間を求めるなど、翠にとっては信じ難い事のはずだが――そのおかしさにも気付かずに。

 と、ふと。

 飯の炊ける甘い匂いが漂ってきて、翠はバッと顔を上げた。

 もしや、千歳が戻ったのか?

 思うが早いか、翠は茶の間へと移動する。身体の重さも瞬間忘れ、あの生命力に満ち溢れた笑顔を探すが。

「――あら。起きていらっしゃいましたの? 今お声掛けしようと思っておりましたのに」

 厨から膳を運んできたのは、千歳ではなかった。彼とは似ても似つかない、白い肌をした若い女だ。確か名を、美鈴と言ったか。

「けれど、お部屋が何処かわかりませんでしたし、龍神様から御姿を見せて下さって助かりましたわ。丁度朝餉が用意できたところですの」

 美鈴はにこりと微笑み掛ける。膳の上には千歳に勝るとも劣らない、出来の良い料理が幾つも並べられている――が。

「……いらん」

 翠はむっすりとそう告げた。食べる事は好きなのに、全く食指が動かなかった。当てが外れ、一気に不調が戻って来る。そうなれば飯なんて、喉を通るはずもない。

 すると美鈴は、大して残念そうでもなく「そうですか」と頷いた。

「厨に調理の形跡がありましたので、てっきりお食事を好まれるものかと……龍神様の御意向も窺わず、大変失礼致しました」

 そう言って頭を下げる。が、再び顔を上げた彼女は、じっとりとした視線で「ですが」と続けた。

「昨晩の事は一体どういうおつもりか、お聞かせいただきたいところです。折角御供として御役目を果たす覚悟でおりましたのに、まさか一晩放置されるとは思ってもみませんでした故」

「……あー」

 責めるように言われ、翠はガシガシと頭を掻いた。

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