第29話






「え、新しい神子……?」

 いざ訪れた村長の家。通された客間では、床の間を背にして村長が、そして左右の壁に沿って、ずらりと村の重鎮達が並んでいる。その神妙な空気の中、下座にて正座した千歳は、たった今告げられた言葉を呆けたように繰り返した。驚きの余りそれきり言葉が継げずにいると、村長が深く頷く。

「ああ。随分と時間が掛かったが、村の皆の懸命な捜索の甲斐あって、新しい神子様が村に来て下さったのだ」

 すると、彼の傍らに控えていた巫女装束の若い娘が頭を下げた。

「お初に御目に掛かります千歳様。美鈴みすずと申します」

 落ち着いた、年齢の割に少し低い声であった。切れ長の瞳に見詰められ、千歳も慌てて挨拶を返す――が、まだ事態を飲み込み切れていない。何しろ新しい神子を見出すなんて、不可能だと思っていたのだ。それだけに、不躾とわかりつつ美鈴を凝視していると、それを咎めるように村長がゴホンと咳払いした。

「美鈴様は何処の村にも定住せず、その神気で各地の穢れを払って回っていたそうだ。そして我が水守村の現状に心を痛め、御供の御役目を引き受けて下さったのだ」

 そんな説明を受け、美鈴は口元に微かな笑みを浮かべて見せた。

「ええ、私が身を捧げる事で、無数の命が救われるのであれば、喜んで御役目を果たします。神子として生まれた以上、それが使命だと思いますので……」

 そう言って、そっと自らの胸元に視線を落とす。巫女服に隠れて見えはしないが、しかしそこにはきっと、千歳と同じ痣があるのだ。神子としての資質を示す、勾玉の形をした痣が。

「本当に、縁も所縁ゆかりもない我々の為に御役目を引き受けてくださるとは、何と心の清い方か……」

「龍神様も、美鈴様であれば喜んで御供として迎え入れるに違いない!」

 集まった面々は口々にそう言い合った。そして千歳も、皆と同じ感想を抱く。

 生まれ育ったわけでもない村の為に御供の役を引き受けようとは、並大抵の事ではない。困っている人を放っておけない千歳であっても、全く知らない村を救う為に御供になれるかと言われたらわからない。

 何しろ一度ひとたび御供となれば、人としての命を、暮らしを失うのだ。まぁ社で出会った先代は、御供になるのをとても良い事のように語ってはいたが――仮にそうだとしても、それまでの生き方と断絶されるという事は、普通、寂しいものではないか。

 だが美鈴は、それを甘んじて受け入れた。他人の命を救う為に。その比類なき慈愛の心に、千歳は胸を打たれてしまう。

――うん、きっと翠も、彼女の事を気に入るはずだ。そうして無事御供を得れば、翠には強い力が戻り、川の氾濫を抑えてもらえる……

 それは間違いなく、理想的な筋書きだった。これで全ての懸念は取り払われる。村も、そして平蔵の命だって救われるのだ。千歳は胸の底から大きく安堵の息を吐き――と、そこで村長が言う。

「それでだ……美鈴様が御供として龍神の社へ入られるに当たり、お前には社から出てもらわねばならん」

 そう告げる声は、実に忌々し気だった。

「最近姿を見ないから何処に行っておるのかと思えば……お前、龍神様の社に押し掛けていたそうじゃないか。美鈴様の御力によりそうと知らされ、我々は呆れ果てたぞ。一度返品されたにも拘わらず、何を考えておるのか……そんな事をすれば、余計に龍神様がお怒りになるとは思わなかったか!」

 村長が言うと、集まっていた面々も一斉に憎悪の目を向けてきた。

「村長の言う通りだ、たまたま美鈴様に出会えたから良いものの、もしそうじゃなければ雨はこのまま……いや、もっと強く降り続けた事だろう!」

「あんなにも土砂や倒木の混じった川が氾濫すれば、一体村がどうなったか……」

「未だに自分に何かができると思っていたのか? 全く、身の程知らずの神子崩れにはうんざりする!」

 そんな風に捲し立てられ、千歳は「いや、待ってくれ!」と声を上げた。新しい神子に場所を譲り社を出る事に否やはないが、しかしこうも好き勝手に言われたら、訂正せずにはいられない。

「確かに俺は、一方的に龍神の社に押し掛けた! 最初はそれを翠も邪見にしていたが、けどこの数日は――」

「翠? なんだそれは、誰の事だ」

「あ、それは、俺が龍神に付けた呼び名で……」

「なにぃ⁉」

 集まった面々は揃って顔を引きつらせた。その中で美鈴だけが、驚きに目を丸くして此方を見詰める。そしてその口元が、「面白い」と言うように動いたような気がしたが……そこに意識を向ける余裕はなかった。いきり立った者達が立ち上がり、千歳に詰め寄って来たからだ。

「龍神様に勝手に呼び名を付けるなど、なんと無礼な事をした!」

「お前は龍神様を怒らせに行ったのか⁉」

「もしや村へと恨みを持って、わざと龍神様の怒りを買い――」

「いや待ってくれ、色々と誤解がある!」

 千歳は皆を落ち着かせようと必死に声を張り上げた。

 まず、翠はこの呼び名について、決して無礼とは捉えていない。その証拠に、翠と呼ぶようになってから、彼は明らかに千歳との距離を変化させた。もしも怒っていたならば、気付いたら傍に居るなんて事は有り得なかったはずだ。

 それに翠が怒りによって川を氾濫させていたのは大昔の話である。今、神威川が氾濫するのは、彼の怒りによるものではない。気象と地形の悪条件が重なって引き起こされるだけなのだ。そして翠が御供を求めるのは怒りを鎮める為ではなく、氾濫を止める為なのだと。

「俺は翆から――龍神からそう聞いた! だからこの長雨は、俺が怒りを買ったからってわけじゃなくて……」

 千歳は必死に言い募る。自分を見下ろす皆の目がギラギラと危険な光を帯びる為だ。とにかく誤解を解かなければ、何か良からぬ事が起きる……そう悟り、千歳は皆を懸命に説得するが。

 しかしそれに返されたのは、嘲るような笑いだった。

「は、そんな言葉を誰が信じる? 俺達はずっとお前を、村を救う神子として大切にしてきたが、お前はそれを見事に裏切るような奴だ! その挙句、村の作物まで盗むようになりやがった……そんな恩知らずを、どうやって信じろって⁉」

「っ、それは……」

 千歳は言葉に詰まってしまう。返品された事について、自分に落ち度があったとは未だ思わないのだが、しかし皆の期待を裏切ったのは事実なのだ。それに、作物を盗んでいた事について、一応物々交換の形にはしていたものの、盗みと認識されていても当然だ。

 そうして黙り込む隙に、村人の一人が背後へ素早く回り込んだ。そして次の瞬間、千歳の後頭部を掴み、そのまま畳の上に押し倒す。

「っ、何をする……!」

 胸や顔を強か打ち付け、千歳は顔を歪めながらも抗議した。そして抑え付けてくる腕から逃れようと身体を捻るが、そうすると更に腕が増えた。村人達は数人掛かりで千歳の事を制圧する。

 それでもなんとか周囲の様子を確認しようと頭を上げると、ゆっくりと村長が近付いて来るところであった。

「千歳よ。今やお前は、村の災いの元なのだ」

 その声は、ぞくりと肌が粟立つ程に冷たかった。

「お前が居ると、この村に良くない事が起きる。これ以上龍神様の不興を買うわけにはいかん……」

 見下ろしてくる瞳は、まるで虫けらを見るかのようで、千歳はいよいよ危機感を募らせた。このままではまずい、そう考え、「わかった!」と声を張り上げる。

「皆が言いたい事はよくわかった、こんな事しなくても、俺はすぐに社を出る! そもそも俺が社へと押し掛けたのは、新しい神子が見付からなかった場合に、自分にも何かできる事があるのではと思ったからだ! だがこうして神子が見付かったなら、これ以上居座る理由もない! なぁ、それで問題ないだろう⁉」

 千歳はそう訴えるが、しかし身体を抑え付ける力は一向に弛まなかった。そして頭上から降ってくるのは。

「それでは済まん」

 そんな容赦のない村長の言葉だった。

「お前は龍神様を侮辱した。どういう思惑があったにせよ、お前の行いが神の怒りを買い、結果村を危険に晒したという事自体が問題なのだ」

「だから……っ、怒り《それ》については誤解だって――」

「いいえ」

 そこできっぱりと言い放つのは、女の声。美鈴である。

 これまで事の成り行きを静かに見守っていた彼女が、今、スッと立ち上がった。そして一切の音を立てないような足取りで、此方に歩み寄って来る。

「私にはわかります。龍神様が酷くお怒りである事が……そしてその強い怒りが、貴方の周囲を取り巻いている」

「……はぁ?」

 千歳は大いに顔を顰めた。

 この女は、一体何を言っているのだ。

 翠は――確かに最初は、千歳の事を力尽くで追い出そうとした。それが叶わないと知ってからも素っ気ない態度を貫き、早く出て行けと促していた。

 だが、彼が千歳に対し、酷く怒っていたかと言えば、絶対に違う。

 だって翠は、蓄えていたという貴重な力を使ってまで、千歳を妖から救ってくれた。

 千歳が付けた呼び名を殊の外気に入って、千歳の傍で寛ぐようにまでなった。

 体調を崩した時に、千歳に縋り抱き着いてきた。

 だというのに、自分に対して怒っている?――そんなわけがないじゃないか。

 それは一緒に過ごしていた自分が、誰より明確にわかっている。だと言うのに、美鈴は決して譲らないどころか、皆を扇動するように声を張る。

「こちらの神子を許容すれば、龍神は村の忠誠を疑います! 例え私が御供になろうと、この者が生きている限り意味がない! 龍神を鎮める事は叶いません!」

「っ、何を――」

 千歳は反論しようとするが、すぐさま頭を押さえ付けられ、後の言葉が継げなくなった。伝えなければいけないのに。この神子は怪しいと、皆に知らせなければいけないのに。

 だって本当に彼女に力があり真実を見透かす事ができるなら、こんな出鱈目を言うはずがないのだ。おかしい。これには何か、作為を感じる。この美鈴という女は、なんらかの思惑を持っている――

 だが、村長を始め集まった面々は、彼女に完全に心酔していた。彼らはきっと、日々水嵩の増えていく神威川を見ている内、相当に追い詰められたのだ。

 そこへようやく見出した希望の光こそが美鈴である。彼女なら救ってくれると信じたい。だから決して、疑わない。彼女がそうだと言うならば、彼らにとって千歳は極悪人なのだ。生かしておいては自分達まで龍神の怒りの巻き添えを食う……頑なにそう信じ、力尽くで何処ぞへ引っ立てて行こうとする。その先に待つのは、きっと死だ。

 畜生、なんでこんな事に──……

 千歳は目の前が真っ暗になるのを感じたが――その時である。

 突如外からけたたましい音がして、かと思ったら次の瞬間、部屋の襖に何かが思い切りぶつかった。

「な、なんだ⁉」

 轟音と衝撃に、誰もが狼狽し振り返る。と、既にその中心が出っ張る様に変形した襖へと、もう一度何かが突進した。今度こそ倒れた襖、その向こうからヌッと顔を出したのは、一頭の牡鹿である。いや、それだけではない。その立派な角を持つ一頭の後ろには、鳥に狸に猪に兎……様々な動物達が集合し、室内の面々を睨み付けているのである。

「っ、お前達……」

 千歳はその姿に目を見開いた。間違いなく、千歳が山で暮らす中で馴染みとなった者達だ。彼らは一斉に走り出すと、千歳を捉えている村人達に襲い掛かった。

 角により弾き飛ばされ、鋭い爪で引っ掛かれ、手足に牙を立てられれば、客間は忽ち阿鼻叫喚の地獄絵図となる。その中で自由を得た千歳は、獣達の助けに感謝しつつ、急いで部屋を逃げ出そうとしたのだが――

「待て!」

 村長の鋭い声が飛んできた。

「この場を去るのはお前にとって、決して得策とは言えないぞ!」

「なに? 何故だ!」

 千歳は思わず動きを止めて問い掛ける。

 すると村長は飛び掛かる獣を蹴飛ばして、ニヤリと口角を釣り上げた。

「わからんか? 此方には平蔵がいるのだぞ」

「──っ」

 言われた途端、千歳は肺が凍り付くような感覚を覚えた。その反応に、村長は勝ち誇ったように頷いて見せる。

「そうだよなぁ。お前は平蔵には随分と世話になったよなぁ。そんな相手が鞭で打たれて苦しむのを看過できるか? 今ここでお前が逃げれば、奴は百叩きの刑に処す!」

 その台詞に、千歳は大きく顔を顰め、「この鬼畜が……」と呟いた。

 これはきっと、ただの脅しでは済まないだろう。彼らは、やる。既に平蔵は村を追われ、危険な川辺のボロ小屋へとやられたのだ。ここで千歳が逃げ出せば、彼らは迷いなく平蔵を、千歳を誘き出す為に痛め付ける……それを思うと。

「……お前達、下がれ」

 千歳は静かにそう告げた。すると暴れ回っていた動物達は動きを止める。が、彼らは村人から離れはしなかった。じっと千歳を見詰め、本当にいいのかと視線で問う。

 千歳はそんな彼らを見回し、なんとか笑みを作って見せた。

「ああ、いいんだ。助けに来てくれてありがとうな、心の底から感謝するよ。でも、もういいんだ……下がってくれ」

 もう一度そう告げるも、動物達はまだ躊躇いを見せていたが……村人達が反撃の声を上げると一斉に駆け去った。嵐の過ぎた部屋の中、襲撃を受けた村人達は傷を押さえ、千歳を睨む。

「なんという奴だ……! 獣を使って我々を襲わせるなど……」

「やはり此奴は災いを呼ぶ者なのだ、生かしておいてもろくな事はない!」

 と、獣達の襲撃は決して千歳の扇動によるものではないのだが、もうそれを主張する気も起きなかった。平蔵を人質にされたのでは、もう何もできはしない。

 千歳は大きく息を吐き、降参だと示すように諸手を挙げた。

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