第27話


 ◆◇◆


 困った事になった。

 翠は自室に閉じ籠り、自分自身のままならなさに懊悩おうのうしていた。

 ククノチに盛られた媚薬の効果を耐え抜いたのは、我ながらよくやったと思う。よくぞ自らを抑え込んだ。この腕に千歳を抱きながら、よくもまぁ手を出さずに済ませたものだと。

 だが、あの抱擁の記憶に囚われて、翠は一段と、千歳に引き寄せられるようになってしまった。何しろ彼を腕に抱くのは、永くこの世に在り経験した様々な事象の内でも、比類無い程に良かったのだ。全身に伝わる千歳の命の温かさ。そして肩口に顔を埋めた時の、陽だまりの香り。それらをもう何度反芻した事か。

 気が付くと、今一度と切望している。身体が勝手に千歳の元へと向かっている。これまでのように傍で寛ごうというだけではなく、その身体を抱き込みたいという明確な欲望をもって――

 と、今のところ、寸でのところで自らを抑え込んではいるが、これがいつまでもつだろう。最後には欲に負けてしまうのでは。そして今度こそ腕に抱くだけに留まらず、千歳を我がものにしてしまうのではなかろうか──考えるとゾッとした。

 駄目だ駄目だ、何を馬鹿な……!

 抱き締めただけでもこんなにも囚われるのだ。これでいざ手を出せば、絶対に狂わされる。自我を忘れ理性を失い、千歳の意思など関係なく、その魂を繋ぎ止めるに決まっている。そんな事をすれば邪神に堕ちるとわかっていても──……その想像は酷く恐ろしいものだった。誰だって自我を失った化け物なんかにはなりたくない。

──嗚呼それに、もしそんな事をすれば、彼奴はどんな顔をするか……

 それもまた、翠には恐ろしい事だった。

 千歳はいつも健やかで、表情豊かで、好き勝手に物を言い、思うままに動き回る。村の行く末に不安を覚え、また、好転の兆しのない現状に悩んだり焦ったりもしているだろうに、それでも溌剌とした生命力に溢れている。

 だがもし、その御魂を翠が手中に収めたら。

 好いてもいない相手の元に、永劫留め置かれるなんて事になったら。

 千歳の生き生きとした様は、二度と見られなくなるだろう。彼が此方に向ける瞳は、憎悪や怯えに染まるのかも。果たして自分はそれに耐えられるものだろうか……

「──って、うん?」

 そこで翠は我に返った。なんだか思考がおかしな方向に流れていると気付いたのだ。

 だって何故、千歳の変化を憂うのだ? 別にそんな事はどうだっていいじゃないか。自分が恐れているのはただ、自分があの者に狂わされ、邪神に堕ちる事だけのはずだろうに……

 どうやら大分頭が混乱しているらしい。翠はうんざりと息を吐いた。手を出したわけでもないのに、早くも調子がおかしくなるなんて大概だ。

 ともかくこのままではよろしくない。

 千歳と居ると、自分がどうなってしまうかがわからない。

 いよいよ危機感が真に迫るが……だが困った事に、翠には千歳を追い出す手段がなかった。相変わらず神風も吹かせられないし、腕ずくでもうまくいかない。ならばどうにか彼奴の方から出て行ってはくれないか……と、考えていたところ。


「明日、村に戻ろうと思うんだ」

「──は?」

 夕餉の席にて。千歳は箸を置くと、唐突にそう言った。余りにも突拍子のない発言に、翠は思わず間抜けな声を返してしまう。

 だって、これまで翠が幾度となく出て行けと言ったところで、テコでも動かなかった千歳である。それが何故、自ら村に戻るなんて言い出したのか……

「それはつまり、御供になるのを諦めたという事か?」

 一先ず真意を確かめようと、翠はそう問い掛ける。だが、どうにも声の調子がおかしかった。千歳が自らその決断をしたのなら願ったり叶ったり、愉悦に口の端が持ち上がってもおかしくはないだろうに……何故だろう。声が、沈む。

 と、そんな翠の様子には気付かぬまま、千歳は大きく頭を振った。

「何言ってんだ、そんなわけねぇだろ。ただ、村長が俺に話があるって言ってるらしい。どんな話かは知らねぇけど、それを聞いたら戻ってくる。そんなに時間も掛からないだろうし、遅くとも明後日には」

「……そうか」

 翠は短く返事をし、いや、そうじゃないだろうと内心で自らに突っ込んだ。何が「そうか」だ。ここは間違いなく、「もう戻らなくていい」と言ってやるべき場面じゃないか。

 だが、その言葉が出てこない。それよりも、安堵が勝つ。千歳が戻ってくるという事に心が緩み、棘のある雰囲気が作れない。

──なんだ? 本当に俺はどうしたんだ……?

 己の事だというのに、理解ができない。感情が思わぬ方向へ転がって行く。千歳が絡むと、自分が自分でなくなっていくような……

 やはりこの状態が続くのはよろしくない。自分はきっと、千歳に毒され過ぎたのだ。ともかく短い間でも千歳が社を空けるなら好都合、その内に自らを立て直すのだ──と、思うのに。

 例え短い間でも、千歳が社を留守にするのは退屈だと、そんな想いも確かにあった。その所為で「早く帰れ」という台詞が口をついて出そうになるが、そこで。

「つか、なんの用かは知らないけどさ……」

 千歳がぽつりとそう零す。

「こうして呼び出されるって事は、俺もまだあの村の人間だって認められてるって事なのかな。俺、皆の期待を裏切ったし、神子屋敷を追い出されてからは本当にろくな事しなかったけど……それでも何か起きた時には、こうして呼んでもらえんだもんな。それってちょっと、有難い事な気がする」

 そんな風にしみじみと言われれば、翠は何も言えなくなった。千歳は村からの呼び出しを喜んでいる。それに水を差すような言葉を吐くのは、なんだか気が引けたのだ。

――って、なんでだ。何故こいつの心情なんかを慮る必要が……?

 人間なんて、自分よりもずっと下等な生き物だ。その心がどうあろうと、関係のない話じゃないか。相手が御供であるならば多少なり気遣ってやりもするが、此奴の場合はそうではない。なのに、何故。

 どうやら自分は相当に重症らしい……翠はそんな自らを押し流そうと、汁物をズッと啜った。

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