神子、罠に嵌まる

第26話

 ざぁざぁと降る雨が、幾千の木の葉を叩いている。それにより葉っぱ達が騒めくと、山はなかなかに迫力のある音に包まれる。

 その音を聞きながら、軒先に立った千歳はなんとも重たい息を吐く。

 雨が止む気配は、未だない。

 空を覆う雲は分厚く、そして果てがなかった。まだ暫くはこの雨が続くのだろう……そう理解すると、千歳の気分は沈んでいく。己の無力を実感するのだ。

 この社に押し掛けてから、もう十日が過ぎ去った。その間、千歳は真摯に懸命に、翠の世話を行って来た。先代の言っていた香もなく、名付けについても効果を上げず、そしてどうやら翠への情熱の有無も関係ないらしいと知った今、真摯に側仕えを続ける以外に手の打ちようが無かったのだ。

 だが案の定と言うべきか、一向に翠の力は回復しない。どれだけ頑張っても、効果がない。

――やっぱりまずは、御供として認められなきゃ意味がないのか……?

 千歳はそう考える。いくら神気のある自分が龍神の世話をしていても、それだけじゃ意味を為さないのかも。翠によって正式に、御供だとされない事には……だがどうすればそれが叶うのか、さっぱり見当が付かないのだ。

 初めは、翠に突っ撥ねられた理由について、彼の好みじゃないからだと――むしろ嫌われているからだろうと考えていた。だが今は、好みはどうあれ、少なくとも嫌われているとは思えない。翠は気付くと傍に居る。陽だまりに引き寄せられる猫のように、千歳の傍で微睡んでいるのだ。

 なのに何故、彼は千歳が御供になるのを頑なに拒否するのか。あんなにも近付いておきながら――と、そこで千歳は「いや、でも」と考える。

 そんな二人の距離感にも、また少し変化が起きていたんだっけと思い出したのだ。

 そのきっかけは、二日前。

 酷く体調を崩した翠は、千歳を強く抱き竦めた。どうやらそうしているのが最も身体が休まるようで、千歳は好きにさせてやった。抱かれるのは苦しかったし、翠の爪が食い込むのも痛かったが、それでも全てを受け入れて。

 と、暫くすると、預けられた体重がずっしりと重たくなった。次いで聞こえるのは寝息の音。翠が眠りに落ちたのだ。

 身体を強く締め付けていた腕が緩み、だらりと落ちる。そのまま傾いでいきそうな翠を千歳は慌てて支えてやり、そっと畳へ横たえた。

 そうしてよくよく観察すると、体調は大分ましになったように見えた。荒かった呼吸は深く落ち着き、身体の震えも止まっている。この分ならば、後は寝かせて置けば大丈夫だろうと、千歳は自室から掛布団を持ってきてそっと翠に掛けてやる。そしてその場を離れようとしたのだが――……

 しかし少し考えて、千歳もその場に寝転がった。翠が目を覚ました時、一人だったら心細いかもしれないと思ったのだ。少なくとも千歳はそうだった。体調を崩し目覚めた時、部屋の中ががらんとしていると無性に寂しかったものだ。

 そうして、翌朝。

 不調はすっかり無くなったのか、すっきりとした様子で身体を起こした翠だったが、隣で寝転がる千歳に気付くと、「……は?」という声と共に固まった。

「お前、そこで何をしてる?」

「何って……見りゃわかんだろ。一緒に寝てやったんだよ」

「は⁉ 一緒に⁉」

 それは起き抜けとは思えない程の、非常に大きな声だった。彼は酷く狼狽したように千歳を凝視し、自らの額を押さえると。

「や、待て……待て待て待て! それはつまり……アレか? 俺は薬の誘惑に負けて、意識もないままにお前を、その……?」

 と、わけのわからない事を口走る。もしや寝起きで混乱しているのだろうか……千歳はそう思いつつ、「まぁ、元気になったみたいで良かったわ」と言ってやった。

「昨夜は本当に調子悪そうだったけど、寝入ってからは随分と健やかだったぞ。魘される事も無かったし、今の今までぐっすりだった」

「何? ぐっすり……?」

 翠はそう繰り返すと、それから数秒の間を置いて、ハァーと大きく息を吐いた。

「なんだ、驚かせるな……一緒に寝たなんて言うから、俺はてっきり……」

「ん? てっきり?」

「~~っ、なんでもない!」

 翠は強引に話を切り上げると、自室へと引き上げた。

――さて、おかしいのはそれからである。

 翠は相変わらず、ふと気付くと千歳の傍に寄って来る……いや、寄って来ようとするのだが。そんな己に気が付くと息を呑み、即座に姿を消すようになった。翠は千歳に近付く己を、強く戒めるようになったのだ。

――嫌われた……という訳ではないんだろうけど……

 千歳はうぅむと眉根を寄せる。彼は一体何を考えているのだろうか。聞いても「煩い」と言われるばかりで、答えてはくれないから困りものだ。

――こうして距離を取られる事で、御供にしてもらえるまでの道程が遠のいてなければいいんだが……

 千歳はそう懸念を抱く、が。

 しかし同時、翠が自分を避ける事に、少しばかりの安堵もあった。

 何故なら千歳も翠に対し、少しばかり心持ちが変化しているからだ。

 翠に抱き締められた時、痛かった。苦しかった。だがそれ以上に、むしろ何か、胸の内が満たされていくような感覚があった……気が、する。

 千歳は物心つく前から神子として育てられてきた為に、穢れが移ってはいけないからと、ほとんど人の身体に触れた事がなかった。赤ん坊の頃には、平蔵や侍女達が抱き上げてくれた事もあるらしいが、記憶には残っていない。それ故、人の温もりというものに不慣れである。

 そこへ、翠のあの力強い抱擁だ。彼には以前、西の洞穴から帰る際に小脇に抱えられた事もあるが、そんなものとは全く違う、互いを溶け合わせるような、あの抱擁。思い返すだけでも、なんだか顔が熱くなる。

 誰かと抱き合うというのは、あんなにも心臓が騒ぎ立てるものなのだろうか。翠の熱が、汗の香りが、荒い呼吸が、背中に回された力強い腕が、千歳から落ち着きを奪い去った。どきどきとして、なんだか怖くて、すぐにそこから逃げ出したくて……だが、何故だかとても安心もする。胸の内に空いていた穴を隙間なく埋められるような、不思議な感覚。逃げ出したいはずなのに、そのまま一つに混ざり合ってしまいたいという願望すら湧いて来て――……

 だが、そんな複雑な心情を千歳は丸ごと抑え込んだ。体調を崩し縋ってくる者を相手に、余計な事を考えるのは不謹慎だと思ったのだ。だから千歳はあらゆる思考を追いやって、あの晩、ただ翠の安らぎとなる事に徹したのである。

 しかし翠が回復した後も、あの抱擁の記憶は後を引いた。翠が近くに居ると、どうにも落ち着かなくなるのである。彼の香りや力強い腕の感覚を反芻し、勝手に身体が熱くなる。

 なんとなくそれは、“はしたない”と言われる事のように思われた。故に千歳は、平静を装い続けている。感情が外に漏れ出さないよう注意深く。

 だがそれにはかなりの労力が必要な為、翠の方から距離を取ってもらえるのは、正直なところ好都合だったのだ。

「って、村に危機が迫ってる時に、俺は何を……」

 千歳は自らの額にゴツと拳を打ち当てる。余計な事に気を取られず、どうすれば村を、平蔵を救えるか、それだけを考えているべきなのに。自分を嫌っているわけじゃないなら何故御供にできないのか、その理由を翠に問い質さなければいけないのに……嗚呼そうだ、逃げ回っている暇なんてないじゃないか。

 そうして千歳は、まず茹る己を冷まそうと軒下に立ち、止まない雨を眺め続けていたのだが――やがて、ふと顔を上げた。

 雨音の向こうに、足音が聞えたのだ。悪天候の中だというのに、誰かが石段を急ぎ足で上ってくる。

 なんだろう。一体誰が、なんの用事でこんな所へ……?

 千歳はそう訝しみつつ、自らも石段へ足を向けた。そうしてその上から見下ろせば、三十段程下に、水守村の村人である若い男の姿があった。この長い石段を一気に登ってきたのだろうか、かなり息が切れている。疲れ切っているのだろうに、しかし彼は千歳の姿を認めると。

「っ、千歳様!」

 声を上げ歩調を速めようとするので、千歳は彼を押し留め、自ら石段を駆け下りてやった。そして雨宿りのできそうな枝の下に誘導し、問い掛ける。

「なんだ、一体どうしたんだ? こんな天気なのにこんな所まで……もしかして、龍神にお詣りか?」

 問い掛けておきつつも、十中八九そうだろうと千歳は思った。こうも雨が降り続き、そして新しい神子も見付からないなら、村人達にできる事は祈る事だけである。より近くで、より強く龍神に訴えようと、この社を訪れる者が出て来る頃だと千歳も薄々思っていた。

 だが、意外な事に村人は首を横に振ると。

「いえ、そうではなく……っ! 千歳様に、お話しがございまして……! こちらにいらっしゃるという噂を聞き、こうして参った次第です……!」

「は? 俺?」

 千歳は眉間に皺を寄せた。何しろ神子屋敷を追い出されてから、千歳は村の厄介者扱いなのだ。神子の役目を果たせなかった役立たずだと罵られ、更には千歳が作物を拝借していく為、進んで千歳と話そうという者はすっかり居なくなっている。

 それなのに、今更一体なんの話が?

 千歳がそう問い掛けると、若者はまたも首を振った。

「いえ、話があるのは私ではなく、村長様で……!」

「何? 村長が?」

「はい、私はその内容を存じませんので、千歳様、一度村まで来てはいただけませんか……!」

 若者の言葉に、千歳は大いに困惑した。村長からの話となると、当然個人的なものではないだろう。何か村に関わるような内容だろうが……それこそ本当に今更だ。千歳にはもう神子としての地位はない。だと言うのに何を話そうというのだろう……

 全く予想が立たなかったが、しかしこの、村の危機的な状況での呼び出しとなれば、重要な事であるに違いない。そう思えば、断れるはずがなかった。

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