第25話


 ◆◇◆


「お前、一体何を――っ」

 朦朧としていた意識が、余りの衝撃に鮮明になった。その分だけ、信じられない。何故自分は、千歳に抱き締められているのだろう……全く訳がわからないが、千歳はあっさりと言ってのけた。

「何って、温めてやってんだろ? お前酷く震えてるから……」

 その答えに、翠は天を仰ぎたい気持ちになる。まさかこの状況で、こんなにも不都合な選択肢を選んでくるとは。此奴は嫌がらせの天才か何かなのだろうか。

 一刻程前、ククノチに媚薬を飲まされてから、翠は必死に自らを抑え込んだ。ともすれば獣のように千歳に襲い掛かりたいのを、そんな事をすれば邪神への道を転がり落ちる事になると、懸命に理性を働かせて。

 だが流石はククノチの手製というところか、媚薬の威力は並みではなかった。千歳の声を聞いた途端、身体の奥から一段と強い衝動が沸き上がる。欲しい、欲しい、欲しい……欲望が一気に膨れ上がる。身体を巡る熱に任せて、思うまま千歳を暴きたくなる。

 そんな自分を抑える為には、千歳を黙らせるより他になかった。だから相当な無茶をして、こうして姿を見せたわけだ。

 だがその結果、こんなにも最悪な状況になろうとは。

「……っ」

 翠は歯を食い縛る。堕ちるものかと。狂うものかと。

 だが媚薬の効果もさる事ながら、千歳自身の誘惑が凄まじかった。

 布越しに伝わる体温と、陽だまりのような温かい匂い。その身が纏う清廉な空気……嗚呼駄目だ、全てが理性を奪っていく。欲しくて欲しくて堪らなくなる。

「……ん? お前、震えちゃいるけど……身体めちゃくちゃ熱くないか?」

 千歳は不意にそう言うと、翠を抱く腕をするりと緩めた。

「ってなると、むしろ冷やした方がいいか。待ってろ、今、氷を──」

「待て」

 千歳が腰を浮かせようとしたところで、翠はすかさず腕を掴んだ。そして今度は自分からその身体を引き寄せ抱き竦める。

「行くな……俺から離れるな……」

 喉の奥から、そんな声が絞り出された。全く滑稽な話である。さっきまでは「来るな、触るな」と言っていた癖に、今唱えるのはその逆だ。だがこうなってはもう、矛盾も何も関係ない。放したくない。離れたくない。

「って……そんだけ熱い身体してんのに寒いって事か? まぁ別にあっためてやるのは構わねぇけど……あぁでも、ちょっと加減してくれよ。そこまで力込められると、流石に痛ぇ」

 千歳は身動みじろぎしながら言うのだが、翠にはそれを聞き届けてやる余裕もなかった。むしろ腕の力はどんどんと強くなっていく。

──俺のだ、これは、俺の……

 胸の底から、獣じみた主張が湧く。とめどなく欲が溢れ出す。もう何もかも関係ない、どうだっていい。とにかく今は、これが欲しい。それ以外には考えられない……と、そこで千歳が「痛っ」と小さく悲鳴を上げた。翠の爪が千歳の腕に食い込んだのだ。深い傷ではないものの、血の匂いが漂ってくる。

 頭では、わかっている。

 今、自分がしている事は暴力だと。

 早く放してやらねば気の毒だし、自分の身だって危ういと……

 だが、それでも翠は動けなかった。どうしても千歳の身体を離せない。昂る欲で、理性も何も働かない。いっそ血の香りすら、情欲を掻き立ててくる始末だ。

――嗚呼、欲しい、欲しい、欲しい。今すぐに、此奴の事が……

 そんな想いが極限に達すると、翠は千歳の肩口に顔を埋めた。そして最後の迷いを振り切ると、その首筋に衝動のまま吸いつこうとして──だが。

「――――」

 そこでぴたりと、動きを止めた。それは千歳がぽんぽんと、翠の背中を叩くからだ。苦しさ故の抵抗というわけではない。あやすように、受け入れるように、穏やかに。

「まぁ……そこまで具合が悪いんじゃ、加減できなくても仕方ねぇか。いいよ、付き合う。こうしてんのが楽だってんなら、好きなだけ巻き付いてろ。俺は多少の事じゃ壊れねぇし、お前が十分温まるまでこのまま抱かれててやるよ」

 そう告げられた言葉は、苦し気ながらも慈愛の響きに満ちていた。それは翠の内に宿る狂暴な衝動と余りにもかけ離れている。その落差が、ぽんぽんと背中を叩く温かい掌が、翠を我に返らせる。……いや、まだ欲はしぶとく渦を巻くが、それでも首筋から顔を離して。

「お前、なんでだ……」

「? なんでって?」

「なんでそんなに、献身的になれる……?」

 そう問わずにはいられなかった。

 今、千歳が受けている事は、間違いなく暴力であるはずだ。強く締め付け、爪すら立てられ……それなのに、何故受け入れられるのか。痛くないはずがないだろうに。辛くないはずがないだろうに……と、千歳が寄越す答えは。

「なんで……って言われても、理由なんて特にねぇよ。だってこういうのが俺なんだ。人だろうと動物だろうと神だろうと、辛い目に遭ってんのを放っておけねぇ。そうしないと自分が自分でなくなるような気がするからな。だからお前が今、こうしてしがみついてんのが一番休まるって言うんなら、楽になるまで付き合ってやるよ」

 その言葉に、翠は痛い程胸を掴まれた。相変わらず、なんという清廉さだ。

「全くお前は……馬鹿みたいにお人好しだな……」

 それが実に、忌々しい。

 千歳という人間が清廉であればある程、翠の欲は際限なく嵩を増すのだ。またも翠は自我を忘れそうになり――しかし今度はなんとか堪えた。

 なんとも複雑な事なのだが、千歳にぽんぽんと背を叩かれると、どうしようもなく煽られもするのに、同時に何故か落ち着くのだ。相反する感覚が互いに互いを打ち消し合い、なんとか自我を保たせる。今の状態であれば、千歳を解放する事もできるかもしれないが──……

「……もう少し」

「うん?」

「もう少し、堪えてくれ」

 翠はそう訴えた。

 この行為が、千歳を苦しませているのはわかっている。それに何より自分にとって危険だという事も。少しでも気を抜けば、再び欲に溺れ掛ける。破滅への道を辿ってしまいそうになる。

 だがそれでも、離そうと思えなかった。その体温も、香りも、神気も、余りにも心地が良くて。

 もう少しの間、味わいたい。

 いざ抑えが効かなくなる直前まで、このままでいたいと思うのだ。

「いいよ。わかった」

 千歳は短く答えると、後は静かに翠の背中を撫で続けた。苦しいだろうに、痛いだろうに、それでも文句の一つも言わず。その優しさはやはり翠を煽ったが……

 しかしやがて、薬の効果が薄まって来たのだろうか、落ち着きの方が勝って来た。力任せに千歳を抱いていた腕も、少しばかり緩めてやれる。

 だがそれでもまだ、彼を離そうとは思えなかった。むしろ葛藤が薄らいだ今こそ、余計な事を考えず深く千歳を感じられる。そうして得るのは比類なき心地よさ……簡単には手放せない。

 翠は少しばかり大胆になり、その肩口にぐりと額を擦り付けた。それがなんとも、癖になる。まぐわいのような快感もない癖に、こんなにも気持ちの良い事がこの世界にあろうとは……

 と、やがて。千歳も少しばかり余裕が出たのか、ぽつぽつと言葉を零し始めた。

「なんか……凄い不思議な感じだ。こうして誰かと抱き合うなんて……」

 その声は、いつもの千歳のものよりも深く、落ち着いた響きだった。

「神子屋敷に居た時は皆が大事にしてくれたけど……こうして誰かと触れ合う事はなかったんだ。世話をしてくれる時に触れる事はあっても、こんなにも力任せに抱かれるなんて有り得なかった……」

 まぁこれは少し窮屈だが、と少し笑って、それから千歳は溜息を吐くように。

「でも俺はずっと、誰とも触れ合えない事が寂しかった。こういう温もりに憧れてたんだ……まさかそれを、お前が叶えてくれるなんて」

「……お前、嫌じゃないのか」

 翠はそう問い掛ける。力任せに抱き竦められるという事以前に、好まない相手と身体を添わせる事自体、普通は嫌悪を覚えるだろう。だから千歳も、体調の悪い翠の為にこの行為を受け入れているだけであり、本心では気味悪がっているのではと思ったが……

 しかし腕の中、ふるふると首が横に振られた。

「それが不思議と、嫌じゃねぇよ……つぅかむしろ、安心する……」

 千歳は陶然と吐き出した。それは何処か、色香すら感じさせるような呟きであった。

 もしやこの状況が、千歳の心を酔わせているのか……痛みと、熱と、他者とこうして触れ合う事に、頭が茹っているのかも。そうでなければ、千歳がこんな事を言うなんて考えられない。

 そして翠もまた、妙な心地になってきた。欲しい欲しいという暴力的な欲とはまた違った形で、千歳を求めているような。じわじわと傾倒していくような……

 そんな自らの心地に戸惑っていると、千歳がまた口を開いた。

「というか、お前は嫌じゃねぇのかよ……最近じゃ近くに居る事も増えたけど、そもそも俺の事は毛嫌いしてたはずだろう? だから御供としても認めたくねぇんだろ?」

 そう問われると、翠もまたこの状況に酔ったのだろうか、いつになく素直に言葉が出る。

「……別に、嫌っちゃいない」

「へ?」

「お前を御供にしないのも、お前に非があるわけじゃない……」

「え――え、そうなのか? でも俺、先の神子達に比べて情熱的じゃないし……それが問題って事は」

「はぁ? なんだそりゃ……」

 そう答えたところで、急激に意識が重たくなった。薬によって高ぶらされた事と、それを必死に抑え付けた事により、身心を酷く消耗したのだ。

 急激に意識が遠のいて、何も考えられなくなる。そんな中、暫く千歳の「なぁ、じゃぁ何が駄目なんだ?」という問い掛けが聞こえていたが、もう口が動かない。そうして何も答えられずにいると。

「――まぁ、今はいいか……おやすみ、翠」

 優しい声で告げられた。それを夢路に聞きながら、翠は何故だか、この瞬間に自らが消えてなくなってしまっても構わないと、そんな事を考えていた。

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