第24話
◆◇◆
夕餉の準備を終わらせた千歳は、茶の間で一人腕を組み、頻りに首を傾げていた。
――おかしいな。飯の香りがしているのに、翠が出て来ないなんて……
この社に来て最初に料理を作った時から、翠はその香りに釣られるように、呼ばずともこの茶の間に現れた。千歳の事は厄介だとしか考えていなかっただろうに、飯は別だと言わんばかり、食欲に正直に。
そして最近は、飯の準備の段階から、彼は何かと千歳の周りをうろついた。厨で煮炊きしているのを、手伝いをするわけでもなくただじっと眺めていたりするのである。それもそれで妙ではあったが――しかしこうして姿を見せないという方が、今となっては余程妙だ。
と、思い返せば、昼間から翠は変だった。千歳の記憶喪失の話を聞いて、何故か動揺したように見えた。もしやそれをまだ引き摺っているのだろうか……まぁなんにせよ、飯が冷めていくのを見るのは作り手として切ないものだ。折角腕を振るったのだし、温かく美味い内に食べてもらいたい。
「おぉい、翠―?」
千歳はそう呼び掛けてみる。彼の部屋が何処にあるかは知れないので――この社内をどれだけ探しても見付からなかったので、恐らくは特別な空間にあるのだろう――適当な方向を向きながら。
「なぁ、飯が冷めちまうよ! 何か思うところがあんのか知らねぇけど、一旦出てきたらどうだ? 飯だけ食ってまた引き籠もればいいだろう! 翠! なぁ翠ってば!」
そうしてしつこく呼び続けると、やがて背後の襖が開いた。
嗚呼、ようやくお出ましか……思いつつ振り返った千歳だが、そこで思わずギョッとする。それというのも、翠が余りにもぐったりとしていたからだ。
全身が酷く汗ばみ、長い髪が首や胸元に張り付いている。呼吸は肩が上下する程に荒々しく、自らの身体を支える事もままならないのか、傍らの柱に手を突き体重を預けている。
「この……何度も何度も、名前を呼ぶな……」
彼は息も絶え絶えという様子でそう言った。
「こっちは必死に堪えているのに……お前の声で呼ばれると、抑えが効かなくなるだろうが……!」
「は? そりゃどういう……ってそれより、お前、どうした?」
千歳は驚きと共に問い掛ける。
「なんでそんなにしんどそうなんだ? さっきまで普通だったのに……この短時間で一体何があったんだよ?」
「うるさい……とにかく静かにしてろ、飯はいらん……」
それだけ告げると、翠は姿を消そうとした――が、体調の悪さ故か、失敗した。一瞬霞んだかと思った身体が再び明確な実態を取り、かと思えばそのまま畳に膝をつく。
「っ、おい、大丈夫か⁉」
これに千歳は仰天して、翠の元へと駆け寄った。そして彼を助け起こそうと手を伸ばすが。
「触るな……離れろ……っ」
翠はそう訴えて、千歳を遠ざけようというのか、ふらふらと手を宙に彷徨わせた。その手は酷く震えていて、千歳は眉間に皺を刻む。
「お前、本当にどうしたんだよ……?」
改めてそう問い掛けるも、翠は
なんにせよ離れろと言われたからには、従った方が良いのだろうか?――……否。
千歳は浮かんで来た考えを退けた。
だって、此処でただ離れるという事は、こんなにも苦しんでいる者を放置するという事だ。そんなの、千歳にできるはずがない。それが千歳の性分なのだ。
その上翠には、蜘蛛女から助けてもらった恩もある。それなのに、彼の危機に何もしないなんて考えられない。
では、今この状態の翠に対し、自分に何ができるだろう。神が罹る病なんてわからないし、その対処法なんてもっと不明だ。
だがそれでも、力になれる事はないか。何か。何か……千歳はそう考えて。
「……お前、嫌かもしんねぇけど、我慢しろよ」
そんな宣言の後、ビクリと固まる翠の身体にゆっくり両の腕を回した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます