第23話

 突如の声に、翠はギョッとして顔を上げる。するといつから其処に居たのか、部屋の中、少年の姿があった。簡素な布を身体に巻き袈裟衣のように着付け、長い髪を無造作に垂らしたその姿を認めると、翠はぎゅうと眉を顰める。

「ククノチ……また勝手に入り込んで」

「おいおい、そう嫌な顔をしてくれるな。折角古い友人が訪ねてきたのに!」

 悪びれなく言うその少年は、久久能智くくのちという木の神だ。国を産んだ神々の直系であり、翠よりも更に昔から存在する。それだけに、少年のような見た目でありながらも物凄く格が高く、力も強い。本来翠しか出入りできないように作ったこの隠し部屋へも難なく入り込んでくる。木々の様子を見るついでに、ふらりと遊びに来るのである。

 だが今回の訪問については、ついでという訳ではないらしい。ククノチは大きな瞳を爛々と光らせて。

「いやーお前のところでなかなかに愉快な事が起きていると、木々たちの噂話が伝わってきてな? なんでも神子に押し掛けられているというではないか! これは是非とも茶々を入れねばと、こうして参ったというわけだ!」

 いっそ清々しいまでの迷惑な訪問理由に、翠は思い切り口元を歪める。

「なんだそれは……俺はお前の暇潰しに付き合ってやるつもりはないぞ。色々と考える事があって忙しいんだ。わかったらさっさと帰れ」

 そう不機嫌を隠しもせずに言ってやる。相手は自分よりもずっと高位の神なのだが、しかし昔からこの調子でずかずか踏み込んでくる為に、翠はとっくに遜るのをやめていた。多少突き放すくらいでいなければ、ククノチは勝手な事を言ってくる──いや、突き放したところで、結局ククノチは好き勝手に言いたい事を言うのだが。

「は、何が“考える事があって忙しい”、だ。お前はむしろ、考えてばかりで行動を怠っているようにしか見えないぞ」

「なに?」

 説教臭い言葉を吐かれ、翠はククノチを睨み付ける。が、ククノチは怯みもせず、「だってそうだろう!」と人差し指を突き付けた。

「久々に来てみたら、なんだそのザマは! かつてのお前は誰もが認める美しく強い神だったが、今じゃ見る影もない! そも神威川とは、暴れるに易く、抑えるに難い。平穏に治めようとするならば尋常ではない力を消耗する……それには御供が不可欠だ。そして今、お前の元に押し掛けている神子は稀代の器! 交われば、一気に力が戻るだろうに……何故お前は、いつまでも断食なんぞしているのだ! さっさとまぐわえば良いだろう⁉」

 ククノチはばんばんと畳を叩きながら力説する。が、翠は煩わしさに舌打ちした。それができたら苦労はないのだ。

「あのなぁ、簡単に言ってくれるなよ。俺には奴を御供にできない理由があるんだ。だから困っているんだろ」

「何? できないって、そりゃまたどうして」

「……なんで言う必要がある」

 翠はむっすりと口を閉ざした。

 このククノチを相手に、自分が千歳に狂わされそうだなんて知られれば、向こう千年は馬鹿にされるに決まっている。神ともあろう者が、人間に理性を奪われるとは何事かと。だから絶対に詳細を話したくはないのだが……するとククノチはにやりと口の端を吊り上げて。

「はぁーん成程……お主さては、あの神子に懸想しておるな?」

「は? ……いや、はぁ⁉」

 このとんでもない誤解に、翠は思い切り声を荒げた。

「待て待て待て、なんでそうなる……俺が人間に懸想だと⁉」

「なんだ、違うか? 御供にできないとは、あの神子の為を思っての事だろう。一度御供にしてしまえば、人としては生きられなくなる。神の世界に踏み込ませる事になるからな。それを哀れと思うから、御供にできないのではないのか?」

「全く、違う!」

 余りにも見当違いな事を言われて、翠はそう怒鳴り付けた。一体何をどうしたらそんな考えに辿り着くのか。神が人間を相手に、そんなにも殊勝な感情を抱く訳がないだろう。

「俺が彼奴を御供にせんのは、他でもない自分の為だ! 詳しい事を言う気はないが、全て保身の為であって、断じて彼奴の為ではない!」

「ほぉー? それじゃ微塵も、あの神子の事を愛していないと?」

「当然だ! 彼奴は目障りでしかない、力さえあれば今すぐにでも神風を起こして、この社を追い出している!」

「ほぉー。じゃ、私があの神子をもらい受けても問題ないな?」

「――……は?」

 その瞬間、翠の髪がざわりと蠢く。それは最早、反射ともいうべき反応だ。そこには理屈は何もない。千歳を奪われると思った途端、心は瞬時に獰猛になる。相手が旧知の仲であり、上位の神だという事すらも無関係に、牙を剥き唸りを漏らす。俄かに生まれた一触即発の雰囲気に、部屋の空気が張り詰める――が。

 その緊張を、ククノチの爆笑が一気に弛緩してみせた。

「あっはっは……ほら見た事か! 他の者に取られると思ったらその反応だ! それが懸想でなくてなんなのだ!」

「っ、違う!」

 揶揄われたのだと理解すると、翠は我に返って否定した。だが、その勢いの良さはむしろ肯定のように聞こえたのだろう、ククノチは更に可笑しそうに腹を抱える。

「はぁー堪らん……永く存在していると、たまにこういう面白い事があるからやめられんな。そうかそうか、龍神よ、人の子に恋をしてしまったか!」

「だから全然違うと言うのに……俺が抱えている問題は、懸想だの恋だの、そんな牧歌的な話じゃない!」

 翠は鼻の頭に皺を寄せてそう唸る。翠の中にあるのは、もっと暴力的な感情だ。一度触れたら戻れなくなるような。自我を失い堕ちるような。理性も何も焼き尽くしてしまうような……だからこそ、翠は千歳に手を出せない。それは身を滅ぼす事と同義だからだ。どんなに欲しくとも、触れてはならない。

 嗚呼そうだ、そんな葛藤の中でようやく堪えているからこそ、それを他者が易々と手に入れるのが許せないのだ。山姫相手に無茶をしたのも、きっとそういう事だったのだ……と、今更ながらに自らの感情を整理した翠だったが。

「ほう、牧歌的と来たか……」

 ククノチはくつくつと笑う。

「お前もなかなかに歳を重ねてきたはずだが、未だそんな見解だとは。まだまだ青い……」

「なに? そいつはどういう意味だ」

「いや、愛というものはだな。決してのんびりとした、気楽なものではないという話だよ」

 ククノチがしみじみと言うのに、翠は怪訝に眉根を寄せた。

 だって、翠は永年人間達を見てきたが、夫婦というのは実に長閑な、満ち足りた関係のように見える。互いを想い、支え合い、寄り添い合って。それが気楽じゃなくてなんなのだ。

 だがそんな翠の考えに、ククノチはゆったり首を横に振る。

「まぁ事実、平穏なだけの夫婦というものも居るのかもしれんがな……しかし多くの場合、周囲から平穏に見えたとしても、内側には様々な激情が潜んでいるものなのだ。いざ火中に飛び込んでみなければ、実態は理解できんという事だな」

「はぁ……? お前の話はよくわからん」

 翠がそう突き放すと、ククノチはまた馬鹿にしたように笑った。

「まぁいいわ、誰かに説明されて学ぶ事でもないからな。こればかりは実際に経験してみんと……っと話が脱線したな。そろそろ本題に入ろうか」

 ククノチは居住まいを正してそう言うと、懐をガサゴソをやり出した。

「なんにせよ、私はお前の現状を見兼ねておる。どんな事情があるかは知らんが、このままではお前は弱る一方だ。私としては、こうして軽口をたたき合える奴がいなくなると、なんとも言えず味気ない……故にな、お前にはやはりあの神子を御供としてもらいたいのだ」

 そう言って彼は――どうやって収めていたのか――懐から瓢箪ひょうたんを取り出した。そしてそれを翠の目の前にずいと突き出し。

「これはな、林檎や柘榴ざくろ無花果いちじく……それにヒキガエルの粘液なんかを混ぜ合わせて、私が直々に作り上げた媚薬だ。これを飲めば、余計な事は考えずに済む。お前は本能に従って、あの神子と交われるぞ」

「っ、何を馬鹿な……!」

 途端、翠は物凄い勢いで飛び退った。

「お前、昔から迷惑な奴ではあったが、今回はまたなんという危険な物を持ってきてくれたんだ! 余計なお世話もいいところ……とにかくそれを今すぐしまえ! というか即刻持ち帰れ!」

 これは魂からの叫びである。媚薬と言えば理性を飛ばすものなのだ。そんなもの、今の翠には恐怖でしか有り得ない。

 だがククノチは全く聞き入れようとせず、瓢箪を手ににじり寄る。

「は、何が危険か! これはお前を救う薬だ。うじうじと迷う合間にお前は確実に弱っていく。だから背中を押してやろうというんじゃないか」

「だからそれが余計な世話だと言っている! 彼奴に手を出せば、俺は――……」

「俺は、なんだ? その先に私を納得させられるだけの言葉が続くのか?」

「……っ」

 翠は口を噤んでしまった。やはりこのククノチを相手に、自分が翠に狂わされ兼ねないという事情なんて打ち明けたくない。と、その沈黙が余計にククノチを増長させる。

「何も言えない以上、私を止める事は叶わんぞ! 何、今は色々思う所があろうとも、必ずや私に感謝する事になる。御供を取り力を得て、人々の強い信仰を得る……神にとって、それ以上のほまれなんてないのだから!」

 ククノチは高らかにそう言うと畳を蹴り、凄まじい勢いで飛び掛かってきた。少年のような見た目だが、やはり強い神である。避けんとしたが間に合わず、翠は敢え無く肩を掴まれ引き倒される。

「くそ……っ、やめろ、離せ!」

 なんとか逃れようと暴れるが、ククノチを退かす事はできなかった。彼は翠の上に馬乗りになり、腹の立つ事ににこにこと余裕な笑みで見下ろしてくる。

「そう恐れずとも良い! これは間違いなくお前の為にする事だ。決して悪い結果には繋がらん」

「知った口を……! お前に一体何がわかる⁉」

「わかるとも! と言うか私でなくとも、百柱に聞けば百柱の神が同じように背中を押すぞ。何せお前の弱り方は見ておれん。すぐに御供を取るべきだとな」

「だからそれは承知だが――むぐっ」

 と、言葉は半端に遮られた。ククノチが素早く顎を掴み、翠の口に強引に媚薬を流し込んできたからだ。

「~~っ!」

 翠は力の限り抵抗するが、しかしやはり歯が立たない。きっとククノチは術も使っているのだろう、口に流れ込むやけに甘ったるい液体を、翠の喉は意思に反してこくこくと嚥下する――……

「おおよしよし、良い飲みっぷりだ! 媚薬の効果はそれ程待たずに表れる、今宵の内に事に及べば、明日にはお前は強く美しい神へと戻れるはずだ」

 ククノチが慈愛すら滲ませてそう言うのを、翠は朦朧としながら聞いていた。

 流れ込んで来る液体は、忽ち血液を沸騰させる。

 思考回路を鈍化させ、代わりに欲を増幅させる。

 欲しい。

 欲しい。

 欲しい――……

 そればかりが頭の中を駆け巡り、忽ち息が荒くなるのを、翠は絶望的な思いで感じていた。

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