第22話

 千歳は翠を見付けると、大きな瞳に緊張を湛えて問い掛けた。

「あの、貴方様が、龍神様でいらっしゃいますか……?」

 その声音は妙だった。人ならざる者を前にしているというのに、驚きがない。此処に翠という神がいる事を知った上で、駆け付けてきたかのような。

──……という事は、こいつが次の神子なのか。

 翠はそう理解した。消耗し鈍くなった意識をなんとか集中させると、少年からは強い神気が感じられる。きっと自分は弱る余り、無意識に御供を求め、神子を呼び付けてしまったのだ。

「龍神様、大変なお怪我をされて……!」

 千歳は顔を青くしてそう叫んだ。

「すぐに手当てを……あの、龍神様が危機にあるような気配がしたので、屋敷から薬と布を持って来たのです!……あぁでも、傷口が随分と汚れて……一先ず水を汲んできます!」

「いい」

 すぐにも駆け出そうとする千歳を、翠はそう押し留めた。

「それよりも、近くへ……」

 掠れる声で、そう告げる。神子から神気を少しもらえば、傷などすぐに治るからだ。

 千歳は実に従順に、すぐ目の前まで近付いてきた。翠は重たい腕を上げ、その肩を掴もうとしたのだが──そこで眉間に皺を寄せた。

「お前……酷い熱があるな?」

 その姿を間近に見て気付いたが、千歳の頬は赤く、息も苦しげに上がっている。最初は山を駆け登ってきた為かと思ったが、目の潤みや、たまに咳き込む様子からして、体調を崩しているのは明らかだ。

「そんな調子だというのに、何故此処までやって来た? どう考えても無茶だろうが……」

 神子とは神の声を聞き届けるものだ。故に龍神が呼んでいれば駆け付けてくるのが道理だが、しかし他にもやり様はあったはずだ。高熱に見舞われているならば、自らこうして参じなくとも、誰ぞ人を寄越すなどすれば良かっただろうに。

 そう指摘してやると、千歳は弱ったように苦笑した。

「確かにその通りでございます……けれど、何やら激しい争いが起きているような気がしました為、他の者を寄越すのは気が引けました。誰かを危険な目に遭わせるわけにはいかないので……それに龍神様が苦しんでいる気配もありましたので、私の体調の回復を待つ暇も惜しく……」

 そう宣う最中にも、千歳の頭はぐらぐらと揺れていた。相当に苦しんでいるのが、荒い呼吸からも伝わって来る。ともすれば倒れ込みそうなのを、懸命に気力で堪えている。

――こんな状態だというのにこの神子は、こんな所まで登ってきたのか。他の者を、そして俺の身を案じて──……

 神子とは総じて、自らを犠牲にする事を運命付けられているものだが、それはいざ御役目を果たす時にのみ発揮されるのが普通だ。平時には、むしろ自らが特別な存在なのだと傲慢になる者も多い。

 だが、この神子は全く違う。当たり前のように自ら進んで犠牲を払う、利他の心を持っている……

 余りの清廉さに圧倒され何も言えなくなっていると、その隙に千歳は、翠の怪我を確認した。そして強い瞳で頷くと。

「やはり、手当にはまず水を汲んでくる必要がありましょう……此方で少々お待ちください。すぐに行って参りますので!」

 そう宣言するや、背中を向けて駆け去っていく。翠はそれを引き留めようとした。自分に必要なのは人間のような手当てではなくお前自身だと──が、しかし、追い縋る事も声を上げる事も叶わなかった。いよいよ消耗が真に迫り、翠は草の上に倒れ込む。

 そうしてろくに口すら聞けずにいたものだから、水を汲んで戻った千歳が傷の手当を始めるのを止める事もできず、そして神気をもらう為の行為もできず、されるがままになっていたのだが──その内に。

――なんだ、この感情は……

 翠は自らの胸の奥底から、良からぬ考えが湧いてくるのに気が付いた。

 自らの不調に堪え、懸命に翠の傷に薬を塗り布を巻く。そんな千歳を見ている内に、この者が「欲しい」と感じ始めていたのである。

 それは、怪我を治し力を蓄えるという目的の為ではない。ただ、この人間が欲しい。片時も放さずに、傍に起きたい。自らの物にしたい。他の誰にも触れさせたくない……欲望がみるみる内に膨れ上がり、翠はそんな己に戦慄した。

 神と御供との在り方には、様々な形がある。大前提、御供となった者が人でなくなるという事は変わらないが、どう扱うかは神によるのだ。御供を甚振って遊ぶ者、食らって腹を満たす者、伴侶として迎える者──どうするかは神の采配次第である。

 翠の場合は、御供とのまぐわいにより力を得る。そして十分に満たされた後は、御供の魂を氏神として、彼女らの家へと戻してやった。何故かって、それが人の魂にとって最も望ましい事であるからだ。そして何より、御供を蔑ろに扱うと、神は格を落とすから──それこそ先程の陰陽師達が難癖を付けてきたように、邪神に堕ちる。御供を甚振る神、食らう神は、正しく邪神に当たるのだ。

 邪神に堕ちるという事は、分別ある神にとってはこれ以上ない恥となる。欲に塗れて己を見失った者なんて、蔑まれて当然だ。だからこそ翠はその道を避けようと、御供達を丁重に扱った。無愛想ながらもその意志をできるだけ尊重するよう、常に心掛けていたのだが。

──しかし、この神子については……

 翠は千歳をまじまじ見詰め、確信する。この神子については、そうは行くまい。

 一度手を出したなら、自分はきっと狂わされる。理性を失い、手放せなくなる。この上質で清廉な魂を、永劫手元に置こうとするに違いない。

 だがそれを、千歳が受け入れるとは思えなかった。一代前の神子という例外はあるものの、ほぼ全ての御魂は氏神となる事を望むのだ。それを阻んで無理矢理に繋ぎ止めれば、自分はきっと邪神になる……その恐ろしい筋書きに翠は恐怖し、なんとか声を絞り出した。

「おい神子よ、よく聞け……俺は見ての通りこのザマだし、きっと数年の内に御供を求める事となる。だが、お前ではその役目は務まらん。儀式には他の者を差し出すのだ……」

 掠れた声で、そう伝える。すると突然の通告に千歳は目を丸く見開き──それから申し訳無さそうに視線を落とした。

「……龍神様。龍神様が私では不足だと仰るならば、それは仕方のない事ですが……生憎他の神子を差し出す事はできないのです」

「なに? 何故……」

「現在の水守村には、私以外に神子の資質を備えた者がいないのです」

 その答えに、今度は翠が目を見開いた。が、言われてみれば納得だ。この少年は余りにも神気が強い。きっと前後数十年で生まれて来る赤子数人に分けられるべきだった神気が、彼一人の元へ集約してしまったのだ。嗚呼、これはなんと厄介な神子だろうか……

「あー……なら、村の外からでも資質のある者を探してこい。とにかくお前では役に立たん。早々に神子の役目を降りるといい」

 そう告げると、千歳はかなり戸惑ったような表情を浮かべていた。無理もない。彼にとって神子の役目は、物心付いた頃からの存在意義であったはずだ。それを奪わるとなれば、すぐに受け入れるのは難しいはず──だが、此方も神としての命運が掛かっている。人間なんぞに同情している余裕はない。

 それから翠は礼もそこそこ、早々に千歳を追い立てた。とにかくその姿を見ていると、己の中の滾る欲が暴れ出しそうで怖かったのだ……


――が、しかし。


 いざ翠が御供を求めた二年前。

 村人から差し出されたのは千歳であった。

 これに翠はふざけるなと、問答無用で彼を返品したのだが――いや、妙だとは思ったのだ。従順そうに見える千歳が、厚かましく神子であり続けた事も、そして翠の事を見て、初対面のように挨拶をしてきた事も。

 ようやくその答えが繋がった。彼は山を降りる途中、ついに高熱に堪え切れなくなり崖から落ちた。その為に記憶を失い、翠との出会いも忠告も、全て忘れてしまったのだ。

 この経緯を正しく理解すると、翠の中、自責の念が膨らんでいく。

 千歳は身体に無理をして、翠の怪我を手当てした。だというのに、翠は彼を追い立てて、たった一人で下山させた。その結果、彼は足を滑らせて崖から落ち、そして消えぬ傷を負った。そう思うと罪悪感が湧いてくる――が。

 それと同時、頭を擡げるのは千歳に対する欲であった。

 彼奴はあの時、そんなにまで身体に鞭を打って手当てを行っていたというのか……そう思うだけで頭の中、また「欲しい」という声が騒ぎ出す。

 欲しい。

 欲しい。

 千歳が欲しい。

 あの清浄な、利他の心を持つ者を手に入れたい。傍に置きたい。放したくない──……

 そんな感情に搦め取られそうになり、しかし翠は頭を振って、なんとか自我を取り戻した。

 駄目だ駄目だ。何を引き摺られそうになっている。この欲に飲まれたら、その先には破滅しかないというのに……!

 だが、そうして己を律しようにも、今はどうにも危険であった。千歳の言っていた通り、最近の自分は彼に引き寄せられているのである。

 それはやはり、名を付けられた為なのか。

 翠と呼ばれる度に、心地が良くて。注意深く引いていたはずの境界線が曖昧になって。その気配を少しでも強く感じていたくて……気付くと千歳の姿を探し、その傍に寛いでいるのである。

 その引力は想定以上で、翠は重たい溜息を吐く。

「この俺とした事が、こんなにも抑えが効かないなんて──……」

「いやぁ? 私からすれば、お前はむしろ己を抑え過ぎだと思うがな」

「っ!」

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