神子、神の腕に抱かれる
第20話
名というものは、実に不可思議なものである。
万物は名を与えられる事により実態を明らかにし、役割を得る。だからこそ千歳は、龍神に呼び名を付けようと考えた。それにより少しでも彼に力が戻るのではなかろうかと。
そして、龍神を翠という名で呼ぶようになって数日――……千歳の思惑は見事に外れた。名前を付けた事による翠の力の変化は、特に何もなかったのだ。相も変わらず、雨は降ったり止んだりを繰り返している。
これに千歳は大いに落胆したのだが――その代わり、期待も予想もしていなかった一つの変化が、思わぬ形で現れた。
「──なぁ、翠」
茶の間にて繕い物をしていた千歳は、耐え兼ねてそう呼び掛ける。と、煩わしそうに「あぁ?」という声が返る。
「なんだ、折角寝入ろうとしていたのに……俺の午睡を妨げようと言うのだから、余程の用事があるんだろうな?」
棘のある声で詰めてくる翠である。少し前であれば、その横柄な物言いにカチンときたに違いない……が、今の千歳はそういう気にはならなかった。だって、どんなに素っ気ない態度を取られたところで。
「いや、だって……いくらなんでも近過ぎだと思うんだが……」
「あぁ?」
その指摘に翠は眉間に皺を寄せる。そして数秒、千歳の顔を見詰めると。
「……おい。なんでお前、こんな近くに居るんだよ」
「ちょ……はぁ? 俺の方が先に此処に座ってただろ! そこに後からお前が来て、この距離に寝っ転がったんだろうがよ!」
この茶の間は八畳分の広さがある。となれば、お互いに十分な空間が確保できるはずなのだ。それなのに翠は、何故だか千歳のすぐ傍らで横になっていたのである。
最近、こういう事がやけに多い。
少し前まで、翠は千歳との接触を徹底的に避けていて、食事の時しか姿を見せはしなかった。そして全て食べ終わると、同じ空間に居るのも厭わしいと言わんばかり、早々に姿を消してしまったのだ。
しかしこのところ、彼は事ある毎、やたらと千歳の傍に寄って来る。食事時以外にも同じ部屋に留まって、すぐ傍にて寛ぎ出す……そんな事を繰り替えされれば、如何に刺々しい発言をされようとも、怒る気になれないではないか。
だが、どうやら本人はこの行動、全くの無意識であるらしかった。翠は千歳の指摘に怪訝な顔で。
「なに? それじゃまるで、俺が自らお前に近寄っているみたいじゃないか」
「や、みたいって言うか、そうなんだって……なぁお前、もしかしてさ、名前を付けられた事で俺に懐いちまったのか?」
「っ、はぁ⁉」
途端、翠はガバリと上体を起こした。
「何を馬鹿な……この神を捕まえて、よくもそんな犬っころのように!」
「っと悪い、確かに懐くって言い方はアレだけど……でもお前が近付いてくるようになったのって、翠って呼ぶようになってからだろ? やっぱ名前を付けられた事で、少し気を許した部分があんのかなって」
少なくとも千歳の方には、名前で呼び掛ける事により親しみを覚えた部分がある。だから翠の方もそうなんじゃないか……というか、実際にこうも物理的な距離を縮めてくるのだ、絶対にそうなんだろうと思うのだが。
しかし翠は、頑なに認めようとしなかった。
「ふん、そんなもの……たまたま隣に腰を下ろしたに過ぎないだろ」
「いや、たまたまにしては回数が多過ぎるって話なんだけど……」
「は、どうだか! お前の言う事は当てにならん! 何しろお前は先代神子に唆され、のこのこと妖の餌になりに行った間抜けだからな!」
その一件を持ち出されると、千歳はどうにも言葉に詰まった。確かにそれは、自分が余りに軽率だったと思うからだ。
先日、西の洞穴から社へと戻る道中、千歳は翠から、先代が自分を騙したのだと教えられた。彼女は翠に強い思い入れを抱く余り、翠に不敬な態度を取る千歳の事が許せなかったらしい。それ故に、もうありもしないヤマユリの話を持ち出して、そこに住まう蜘蛛女に千歳を食わせてしまおうとしたのだとか。
それは実に恐ろしい企てだったが、しかし千歳は、憤ると同時に申し訳ないと思ってしまった。だって歴代の神子達が愛し敬った神に対し、自分の振る舞いは確かに酷いという自覚がある。怒りを買うのも当然だ。
まぁそれを反省しても、翠の望みに従って社を出て行く事はどうしてもできない。だからその分、今までよりも翠への態度を軟化させようと心掛けた千歳である。……が、こうして言い合いが勃発するのはどうしようもなさそうだが。何しろ翠の物言いは高圧的だし、千歳も神子屋敷を出てから遠慮というものを失った為、どうにもぶつかり合ってしまう。それでも大喧嘩にさえならなければ、見逃してほしいところである。
尚、千歳はその後、先代には会えていない。どうやら彼女は勝手な振る舞いをした為に翠にこっ酷く叱られて、姿を隠してしまったそうだ。だが翠は、彼女を社から追い出してはいないらしい。そんな所からも、翠が思いの外優しいのだという事が窺えた。口も態度も悪いものの、一度懐に入れた者に対しては、なんだかんだ目を掛ける性格のようだ。
「まぁ、ともかく……側に来るのは構わねぇけど、今みたいに針を使ってる時には落ち着かねぇよ。危ねぇから適当に距離を取ってくれねぇか」
千歳は話を締め括ろうと言ったのだが、翠はキッとこちらを睨み。
「だから……俺から近付いているように言うのはやめろ!」
「っ!」
その瞬間、ぶわりと風が吹き付ける。未だ弱ったままの神風だが、しかしこの至近距離で浴びるとなるとそれなりに威力があった。千歳の髪は勢いよく巻き上げられ、びゅうと後方へ流される。
「お前なぁ……っ、何かあるとすぐその風吹かすのやめろよな!」
風が止むと、千歳はすぐさま文句を言った。機嫌を損ねる度にこうして強風に曝されるのは煩わしいのだ。
と、そうしてこちらが文句を言えば間髪容れず、翠は反論を寄越してくる。今回もそうだろうと千歳はサッと身構えたが……しかし。
「――おい、なんだそれは」
「へ?」
この時彼が口にしたのは、意外にも反論の言葉ではなかった。急になんの話をされているのかが理解できず、千歳は間抜けな声を返す。と、翠はもどかしいと言うように、千歳の横髪を無遠慮に掻き上げると。
「これだ、この傷!」
硬い声音でそう告げた。顕にされた左耳の上辺りには、大きな傷跡ができている。
「随分酷い傷痕だが……これはあの
翠の言う山姫とは、例の蜘蛛女の事である。その表情は随分と険しいが、これに千歳は軽い動作で
「いや、違う違う……これはもう随分と古い傷だ。俺は、あー……四年前だったかな。一人でこの山を登ってて、崖から落ちた事があるんだ。それで岩で頭を打って――と言っても、当時の事はよく覚えてねぇんだけどな。頭を打った衝撃で記憶喪失になったらしい」
千歳はまるで他人事のようにそう語る。何しろ当時の記憶は本当に朧げなのだ。
神子屋敷に居た頃、千歳は供を付けずに出かける事は許されていなかった。一人歩きの許可が出たのはすぐ裏の林くらいのものである。だがその日は、酷い焦燥に駆られたという事だけ覚えている。とにかくすぐに山へ行かねばと、言い付けを破って飛び出したのだ。
「それが何故なのかは思い出せねぇけど……その時俺は酷い熱に浮かされてて、その所為で奇行に走ったのかもしれねぇな。ふらふらと随分高いところまで山を登って、挙句足を滑らせて崖から落ちたって話だ」
そして結果、普段は髪に隠れて見えないとは言え、生涯消えない傷痕が残ってしまった。悲惨で間抜けなこの話を、千歳は笑い話だと思っている。翠もきっと嘲うだろうと思ったのだが……
「記憶、喪失……」
翠は厳しい顔でそう呟くと、口元を押さえ視線を落とした。それから微かに「道理で……」という言葉が漏れ聞こえ、かと思うと次の瞬間、彼は空気に溶けるように姿を消した。
「……え?」
その余りの唐突さに、千歳はぽかんとしてしまう。いや、この場を離れるのは一向に構わないのだが、それならそうと一言くらい言えばいいのに。こうも急に去られると、なんだか見切りを付けられたかのような、少しばかり寒々しい気持ちになるではないか。
――まぁ、神ってのは気まぐれだし、仕方ねぇけど……
千歳は一つ溜息を吐き、そう納得しようとしたが。
しかし翠の見せた反応と、零した言葉には引っ掛かった。
“道理で”とは、一体どういう意味なのだろう。
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