第19話
「は?――え⁉ な、なんでお前……」
千歳は地面に転がったまま、龍神を見上げる。彼が現れた事が余りにも意外過ぎて、死に掛けた事による恐怖を押し退け、無数の疑問が押し寄せる。
「え、なんでお前がこんなとこに……というか今、俺の事助けてくれたのか? なんだってそんな事……俺の事追い払いたかったはずじゃねぇのかよ? それに今の風、相当強力だったけど……もしかして力が戻ったのか⁉」
その矢継ぎ早の質問に、龍神はまず盛大な舌打ちを寄越してきた。それから荒々しい溜息を吐き出して。
「やっぱりお前と関わるとろくな事にならん……折角温存しておいた力をこんな形で失う事になるなんて! あの娘にどう唆されたか知らないが、人間風情が夜の山を歩き回ろうなんてどうかしている! お陰でまんまと妖の餌になるところだっただろうが!」
「う、すまん……」
その勢いに押され謝罪を口にした千歳だが、しかし反省により口を噤むという事はできなかった。千歳は「でも」と言葉を続ける。だって、どうしても聞かずにはいられない。
「今の話、お前、俺を助ける為に、使うべきじゃない力を使ったって事だよな……? いや、なんでだよ⁉ 俺の事が嫌いなら放っておけば良かったのに、どうして力を犠牲にしてまで助けたりなんか――」
「俺だって知らん、そんな事!」
龍神は実に忌々し気に吐き捨てた。それから額に手を当てて、深く長く息を吐く。その顔には深い苦悩が浮かんでいる。
「俺だって……できれば放っておきたかった。貴様がどうなろうと知った事ではないし、社から出て行ってくれるなら何よりだからな。だが、この洞穴に向かったと聞いたら──」
と、そこまで告げたところで、龍神は続く言葉を飲み込んだ。発言が尻切れトンボに終わった為、辺りはしんと静まり返る。
だが千歳には、龍神が飲み込んだ言葉がなんとなくわかる気がした。そこで彼に代わって言ってやる。
「えーと……要するにお前、心配して来てくれたって事だよな?」
「……はぁ?」
龍神は心底不機嫌そうに此方を睨み付けてきた。が、千歳にはそうとしか思えない。いや、千歳だって信じられなくはあるのだが、しかしこの状況と今の発言。そこから他の答えを導き出すのは無理がある。
「や、だってそうだろ? 俺の事なんてどうでもいいはずだったけど、いざ危険な目に遭うと思ったら助けずにいられなかったって、そういう事だよな?」
「っ、勘違いするな! 別にそんな――」
「なんだよ、いい事なんだから照れんなって。つぅかいつも素っ気なくしてるけどさ、お前って実は結構優し──ぅわぁっ」
途中まで言い掛けた言葉は、素っ頓狂な悲鳴に飲まれた。それは突如として世界がぐるりと回った為だ。……いや、違う。正確には千歳自身が回ったのだ。龍神によって豪快に持ち上げられ、蜘蛛の糸に雁字搦めになったまま、小脇に抱えられたのである。
「全く、なんて迷惑な……何が心配だ、馬鹿馬鹿しい! これ以上騒いだらこのまま山に転がしていくからな!」
そう告げると、龍神はのしのしと歩き始めた。どうやら社へ連れ帰ってくれるらしい。ろくに動けない状態の千歳は、ここで放り出されるのは流石に困ると、それ以上余計な事は言うまいと口を閉ざすが。
しかし本当は言わせてほしかった。お前って実は結構優しいんだなと。そして、助けてくれてありがとうと。嗚呼それから、何やら温存していたらしい力を消費させて、本当に悪かったという事も……
どうだろう。言ってみては駄目だろうか。
思いつつ、千歳は龍神の顔を見上げてみて――と、その時。
分厚い雲が一瞬途切れ、月明かりが差し込んだ。視線の先、龍神の顔が青い光に浮かび上がる。対の瞳が、冴えた光を反射して宝玉のように煌めいている。それは思わず息を呑む程の美しさで──千歳はぽつりと。
「……スイ」
胸に浮かんだままを呟くと、龍神が怪訝にこちらを見下ろした。
「あ? なんだって?」
「だから、
「そのまま“翡翠”と呼んでもいいけど、なんとなく翠の方が合ってるっていうか……なぁ、そう思わないか? お前はこう呼ばれてみて、どんな感じだ?」
「って待て待て、今そんな話をするか普通⁉」
唐突に蒸し返された呼び名の件に、龍神はうまくついてこれないようだった。
確かに普通に考えて、今はまだ妖に襲われた恐怖を引き摺ったり、助けに来てくれた龍神に対して感謝をしたり、己の軽率な行動を反省したり、そういう事を考えていて然るべきだ、が。
「だって閃いた以上は仕方ないだろ! 今までずっと考えてて、やっとコレだって答えに行き着いたんだ、これが言わずに居られるか! それで、なぁ、どうなんだよ。翠って呼ばれるの、嫌か? 俺としてはめちゃくちゃ似合ってると思うけど!」
名案が浮かんだ興奮で、千歳はそう捲し立てる。と、その勢いに龍神は暫し戸惑うような表情を見せていたが──……やがて、千歳を抱えるのとは逆の手で口元を押さえると。
「…………悪くはない」
小さくもそう呟くので、千歳は思わず笑ってしまった。これはきっとこの呼び名、かなり気に入られたのに違いない。
翠。
これからこの龍神を、翠と呼ぼう。
そう決めると、なんだかこの龍神に対し、僅かながら思い入れができたように感じられた。ただ理不尽で素っ気なく、腹立たしいだけの存在だったが、少しだけ、距離が近くなったような、そんな気がしたのである。
とは言え、その想いはまだまだ、先代のような情熱的なものではないか。
しかしこうして呼び名を付けた事。そして、貴重な力を使ってまでこうして助けに来てくれた事。そんな出来事を少しずつ重ねていけば、いつかは自分も龍神に対し、強い想いを抱くようになるのかもと、そんな事を考えた。
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