第18話

 そう認識した瞬間、血の気が引いた。こんなにも大きな妖と、たった一人、この至近距離で対峙する状況が恐ろしくないはずがない。それに――直感的に理解するが、足の裏にあるネバネバは、きっとこの蜘蛛女が吐いた糸だ。こんなにも強い拘束手段を持つ相手に狙われれば、逃げ果せるのは難しい。

 絶体絶命――そんな四文字が頭の中に浮かんだが、しかしすぐに諦めてはいけないと、千歳は己を奮い立たせた。何せ自分には、村を救う使命があるのだ。こんなところで死ねるものか。

 その為には、そうだ、まずはこの事態を切り抜ける方法を考えよう。それまで時間を稼がねばと、千歳は平常心の振りをしてその妖に微笑み掛ける。

「ああ、此処は貴女の住処だったか。勝手に踏み入って済まなかった。けど私は、この洞穴に咲くというヤマユリが欲しいんだ。咲いている場所を知らないか?」

 相手を変に刺激しないよう、比較的丁寧な言葉遣いで問い掛ける。すると蜘蛛女はこっくりと頷いた。

「知っている。……いや、知っていたというのが正しいか」

「っ、なに……?」

 その言葉に、千歳はぎゅっと眉を顰める。

「知っていたとはどういう事だ。その言い方では、今はもう、ヤマユリは咲いていないというように聞こえるが?」

 もしそうならば最悪だ、折角ここまで来たというのに。頼むから否定してもらいたいと切に願う千歳だが……しかし蜘蛛女からの返答は、正しく最悪のものであった。

「ああそうだ。ヤマユリはとうの昔に消え失せたよ。何故なら私が、全て食ってしまったから」

「なっ、なにぃ⁉」

 思わず素っ頓狂な声が出る。するとこれに、蜘蛛女は可笑しそうにケラケラ笑った。

「なんだ、そんなにもあの花が欲しかったのか? それは済まなかったなぁ……何しろあのヤマユリは、随分と霊力の強い特殊な花だったものでな。一口食らったら忽ちに力が満ちた……その感覚が堪らんもので、此処に咲いているものは百年も前には食い尽くしてしまったわ」

「そ、そんな……」

 これに千歳は深く絶望してしまった。という事は、この洞穴に出向いたのは完全に無駄足という事ではないか。暗い山道を彷徨ってようやっと辿り着き、その上この恐ろしい妖と対峙する羽目にまでなっているというのに、肝心のヤマユリがもうなくなっていたなんて。

「いや、それにしても……」

 蜘蛛女はゆったりとした調子で言い、天井から壁へと動き出した。それに千歳はギクリとする。絶望で頭が真っ白になっていた為、この危機を脱する方法をまだ考えついていないのだ。それなのに、相手は早くも次の段階へと体勢を整え出す。少し前よりもギラギラとした瞳で千歳を見詰め、女は悠々言葉を続ける。

「ヤマユリをたらふく食らう内に、私の糸にはその香りが染み付いた。これが今宵は役に立ったよ。そなたをこうしておびき出す事ができたのだから」

「おびき出す? なんの為に?」

 返って来る答えはわかっているが、時間稼ぎで問い掛ける。すると蜘蛛女は予想の通りに。

「決まっている。そなたを食って、我が力を蓄える為だ」

「…………」

 まぁ当然そうだろう。思いながら、千歳は視線を巡らせた。何かこの状況を切り抜ける手立ては、使えるものはないだろうかと。

 一方の蜘蛛女は、既に狩りの成功を確信しているのだろう。その態度は実に余裕で、世間話でもするように話し続ける。

「しかしヤマユリを食い尽くしてしまってからは、本当に酷い暮らしだった……私はろくな物を食えなかったのだ。たまに山に入って来る人間を捕まえて食べてはいたが、ヤマユリで舌の肥えてしまった私には物足りんでな……お陰で随分と惨めな思いをしたものだが……其処へ、そなたよ」

 今や正面に降り立った蜘蛛女は、いっそ愛おし気とも呼べるようなうっとりとした瞳で千歳を見据えた。

「そなたが山を登り、私の感知に引っ掛かった時、久々に食欲が湧いてきた。こんなにも瑞々しい神気を持つ人間を食えば、どれだけ力が満ちるだろうかと! だが、そなたはすぐに龍神の社に入ってしまった。いくら私でも、あの社の中にまでは手は出せぬ……故にそなたを手に入れるのは諦めておったのだが」

 そこで蜘蛛女はニィと口角を釣り上げる。

「まさか自ら、それもなんの護りもなく、社の外に出てくるなんて! なんと愚かな人の子よ!」

「っ、くそ……」

 ケラケラと笑われ、千歳は悔しさに歯噛みした。だって仕方がないじゃないか、洞穴に妖が出るなんて知らなかったのだから。千歳は拗ねたように、自由になる方の足でガッガッと地面を蹴る。と、その子供じみた仕草に、蜘蛛女は一層楽しそうに笑い声を上げた。

「まぁそういうわけだ、そなたには私の糧となってもらう。もう長い間ろくに食っていないのだ、腹が減って敵わんでな」

「って……そう言われてハイどうぞと身体を差し出すと思うかよ?」

「何を言う、そなたの意思など関係ない。どの道そなたは、逃げる事などできんのだから」

 小馬鹿にしたように言いながら、蜘蛛女はわさわさと足を動かして千歳との距離を詰めてきた。その異形の姿が近付いてくるのはなんとも言えず悍ましく、千歳の肌は一気にぶわりと粟立つが……しかしなんとか冷静さを保ち、言葉を返す。

「まぁ、確かにそうだな……俺の足はあんたの糸に囚われて動けねぇし、そもあんた程の妖から逃げ果せるのは無理がある。俺の命運は此処で尽きたって事なんだろう……が」

 千歳は一度言葉を切り、蜘蛛女の顔をじっと見詰めた。

「どうせなら食われる前に、あんたの顔をよく見たい」

「なに? 何故なにゆえ

 蜘蛛女は能面じみた顔に疑わしげな色を浮かべ、歩みを止める。しかし千歳はつらつらと言ってのける。

「だってあんたに食われたら、俺はあんたの力として蓄えられるわけだろう。それは正しく一心同体……身体や自我は失われても、俺の一部はあんたと共に続いていくというわけだ。ならその相手の事を知りたいと思うのは当然だろう? そんなに時間は取らせない、このくらいの我儘は聞いてもらっても良いと思うが」

 そう淀みなく並べ立てると、蜘蛛女は少し考えるような素振りを見せ……それから鷹揚に頷いた。

「まぁ良かろう、そのくらいは」

 そう言って、また此方へと近付いてくる。近付けば近付くほど怖気が走り、首筋から頭の裏側に掛け、皮膚が恐怖にざわめいている。が、それでも千歳は冷静に、「もっと近くへ」と蜘蛛女を誘導した。そして、腕を伸ばせばその顔に触れられようかという距離まで来ると。

「はっ、掛かったな!」

 そう言うが早いが、千歳は先程削った地面の土を素早く掴み、蜘蛛女の黒い瞳へ投げ付けた。

「っ⁉ おのれ……!」

 目潰しされた蜘蛛女は、それまでとはまるで異なる恐ろしい声を出す。幾重にも高音と低音が重なるような、如何にも人ならざる者といった声だ。

 だが、恐怖に竦む暇はない。千歳は蜘蛛の糸に捕まっていた草履を脱ぎ捨て、洞穴の出口を目指して駆け出した。と、間髪容れず。

「待てぇぇぇ!」

 背後から恐ろしい声が響き、ザカザカと無数の足が地面を蹴る音が迫ってくる。目潰しは効いているのだろうに、千歳という獲物への執念の為、蜘蛛女は目が見えぬままに追い縋ってくるのである。

 もしここで捕まれば、もう逃げ出す機会はない。千歳は死に物狂いで洞穴の中を駆け抜けた。とりあえず外にさえ出れば、そして木々の中へと走り込めば、小回りの効く自分の方が有利になる。一気に相手を引き離せるはず……そう信じて走り続ける。

 そしてあと一歩で洞穴の暗がりが終わるというところまで来たのだが、そこで。

「っ!」

 背中に強い衝撃を受けた。その勢いに押されて体勢を崩し、前のめりに倒れ込む。が、即座に立ちあがろうと試みて──身体が動かない事に気が付いた。

 背中に受けた衝撃の正体は、蜘蛛の糸の塊だ。視界が効かないながら蜘蛛女が闇雲に吐き出した塊が、悪い事に命中してしまったというわけだ。

 地面に転がった千歳は、物凄い勢いで蜘蛛女が肉迫してくる様を見る。

――ああ、終わった……

 千歳はそう悟ってしまった。こんな所で誰にも知られず、妖に食われて死ぬ事になろうとは。神子として生まれながら、最後まで村の役に立つ事もなく。そう思うと余りにも虚しいが、しかしこうなってはどうしようもなかった。蜘蛛女は、もうすぐそこまで迫っている――と、そこで。

 ゴウッ、と。

 洞穴の外から、凄まじい突風が吹き付けた。

 風は倒れ伏した千歳の上を通り抜け、鎌鼬かまいたちのような鋭さで蜘蛛女を斬り付ける。洞穴の中に「ぎゃ」という叫びが響き、次の瞬間、その身体は幾片もに分断された。生き物のそれとは全く異なる黒い血液が飛散して、ぼとぼとと肉塊が地に落ちる。

 その凄惨な光景と突然の展開に、千歳は呼吸もできない程に唖然としていたのだが――更なる驚きによって我に返った。

 その驚きとは。

「この、大馬鹿野郎……」

 頭上から降ってきた、息を切らせたその声が、他ならぬ龍神のものだったからである。

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