第17話

 ◆◇◆


 いや、えらい事になった……千歳は途方に暮れて溜息を吐く。やはり夜に山の中を歩くなんて、無謀だったとしか思えない。

 千歳は夜目が効く方だが、それでも足場がよく見えずに何度も草履を滑らせているし、そもそも洞穴への道を辿るのにも苦労している。と、蝋燭を付ければ多少は視界を確保できるが、頭上に張り出した枝からは耐えず水滴が落ちて来るので、あっと言う間に消されてしまう。お陰で自らの目にのみ頼って進んでいるが、こうも暗くては何もかもが見え辛い。

「けど、夜じゃないと駄目なんだったか……」

 千歳は泥のついた顔を拭いながら、先代の話を思い出す。

 彼女は物知り顔でこう言った。

「いい事? 御供として御役目を果たしたいなら、まずは龍神様に好まれる努力をしなくちゃ駄目。あんたは料理だの掃除だのに力を入れてるみたいだけど、そんなんじゃ手温いのよ。大事なのはね……」

 香、なのだと。

 それは千歳にとって、全くもって想定外な回答だった。だが先代は自信たっぷりにこう続ける。

「龍神様はね、ヤマユリの香りがお好きなのよ。と言っても、ただのヤマユリじゃないわ。この社から西に行った先の洞穴に咲くものがお好みなの。その香りを纏っていれば、どんなにあんたに興味がなくとも、きっと扱いが変わるはずよ。けど、その花が開くのは夜の内だけ……ね、そしたら今夜行かないと! 次に雨の上がる夜がいつ来るかわからないもの、ぼさっとせずに、さっさと行く!」

 追い立てるようにそう言われ、千歳は慌てて従った。そうして西の洞穴を目指し、山道を進んできたわけなのだが。

「まずいな。完全に迷った」

 千歳は周囲を見回してそう溢した。山の麓に住み着いて二年になるが、この高さまで登ってきた事はない。それは酷い扱いを受けた龍神と万が一にも相まみえたくなかったからなのだが……となれば当然、同じような高さにある洞穴への道にだって詳しくない。先代にある程度の道筋や目印は聞いてきたが、この暗さだ。ほとんど意味を為していない。今や千歳は、道なき道へと入り込んでいる。

「これはいっそ、出直した方がいいかもなぁ……」

 呟き、背後を振り返る。元来た道を戻るくらいならなんとかなる。次の晴れの夜がいつ訪れるかは知れないが、このまま闇雲に山の中を歩き回っても危険なだけだ。そう判断し、千歳は社へ帰ろうとしたのだが……そこで。

 ふわ、と甘い香りがした。

 草木と雨露が織りなす濃密な緑の香りの中、それとは全く趣の異なる、花の香りが漂って――これに千歳はハッとした。もしやこの香りこそ、先代の言っていたヤマユリのものではあるまいか。この香りを辿って行けば、西の洞穴へ辿り着けるのでは……!

 希望を見出した千歳は、再び先へと進み始めた。日々水位を増していく川の事を思えば、何事も悠長に構えてはいられないのだ。もし今宵、香を手に入れる事ができるのならば、それに越した事はない。

 そうして歩みを進めると、香りはどんどん強くなった。最初こそ甘く良い香りだと思ったが、しかし次第、それはむわりと咽せ返るようなえぐみを感じさせ始める。ここまでくると、いっそ醜悪にも思えるような。

──龍神は、本当にこんな香りを好むのか……?

 千歳はつい訝しむ。が、そもそも神と人、全く異なる存在だ。好みに差が生じたって不思議はない……

 と、そんな事を考えつつ、目の前に伸びる木の枝をガサリと払う。すると景色が急に開けた。其処には畳数枚分はあるだろう、原っぱのような地が広がっている。そしてその向こうにあるのは、まるで巨大な壁が聳えるような、遥か高みまでの断崖だ。

「なんだ、行き止まり──」

 そう言い掛けて、千歳はいや、と口を噤んだ。断崖の裾の一画が、この宵闇の中にあり、一際真っ黒に染まっている事に気付いたのだ。目を凝らして見詰めてみれば、それは正しく、穴である。断崖にぽかりと、洞穴が口を開けているのである。

「っ、此処か!」

 千歳は思わず声を上げた。きっと此処が先代の言う、西の洞穴に違いない。駆け寄れば、その穴の中から濃密な甘い香りが漂ってくる。間違いない。

 千歳は懐から手早く蝋燭と火打石を取り出して、灯りを作った。なんの光源もない洞穴の中に灯り無しでは入れないし、ここならば水滴で炎を消される心配もない。

 そうして千歳は、蝋燭の炎を頼りに洞穴の中へと踏み込んだ。灯りを掲げても果ては見えず、また、軽く蹴飛ばした石ころの音の反響からして、洞穴はかなりの奥行きがあるらしい。天井の高さは千歳が手を伸ばしても届かぬ程で、横幅は大人が四、五人並べるくらい。土と岩を穿って出来た、相当な規模の洞穴である。

 果たして件のヤマユリはどの辺りに咲いているのか。ここまで大きな洞穴となると、大きな獣が潜んでいる可能性もある。できればさっさと要件を済ませて退散したいが……

 考えつつ、千歳は慎重に辺りを見ながら歩みを進める。最早嗅覚は頼りにならない。洞穴の中には、甘い香りが充満しきっているからだ。こうなれば後は視覚しか頼れない。蝋燭の揺れる炎で周囲を照らし、洞穴の奥へ奥へと入り込む──と。

「っ⁉」

 不意に、驚きに呼吸を詰まらせた。それは踏み出した足が、何か粘り気のあるものを踏んだ為だ。しかもそれは、かなりの粘性を持って草履を地面に縫い留める。

「クソ、なんだコレ……」

 千歳は忌々しくそうボヤき、地面から足を剥がそうと藻掻いたが。

 その内に、ある事に気が付いた。なんだかあの甘い匂いが、一段と濃くなってはいないかと。

 もう十分にその匂いは充満していたはずなのに、此処に来て一際強くなる。それは――自分が暴れているせい、か? 粘着きを振り切ろうと、足の裏で何度も地面を擦るから、その摩擦熱によって匂いが濃くなっている? ……と、いう事は。

「もしかして匂いの元はヤマユリじゃなくて、このネバネバ……?」

「そう、その通り」

「っ⁉」

 突如頭上から声が降り、千歳は弾かれたように顔を上げた。そして、ヒッと悲鳴を上げる。蝋燭の灯りで照らされた天上に、女の顔が見えたのだ。能面のように白い肌、真っ黒な瞳。黒い髪を長く垂らした、若い女の顔である。

 と、そんなものが天上に張り付いているだけでも十分に度肝を抜かれるが、更に千歳を縮み上がらせたのは、その女の身体が人間のものではなかった事だ。首より下にあるのは、巨大な蜘蛛の身体である。これは間違いなく、妖……!

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