第16話

 

 ◆◇◆

 

 行燈の灯りに照らされる、豪奢な造りの八畳間。とこには山の花々が飾られて、丸窓からは庭の様子が見渡せる。そしていつもほんのりと香の炊かれた、なかなか洒脱なこの部屋こそが、龍神の寝室だ。

 社の中は必要に応じてその造りを変化させるが、この部屋は如何な造りになろうとも変わらず保たれ、そして何処にも扉がない。出入りできるのはただ一人、社内の空間を自由に行き来できる龍神のみ。謂わば隠し部屋のようなものである。

 そもそもは誰に邪魔される事なく静かに過ごす事を目的として作ったものだが、この部屋を活用する機会は滅多に無かった。何しろこの社に他者が訪れる事なんてほぼ無いのだ。故に普段は茶の間で過ごす事の多かった龍神だが、今ではそうもいかなくなった。

 その原因は言わずもがな、千歳という神子崩れがいる為だ。奴は御供の務めを果たすのだと、やたらと龍神に構ってくる。それが大層煩わしくて、龍神はこの部屋に避難する事が増えたのだ。

──しかし、こんなにも厄介な事になろうとは……

 肩肘を突いて寝転がった龍神は、不機嫌に考える。まさかあの時突っ返した神子が、社に乗り込んでくるなんて。更にはそのまま住み着かれてしまうなんて!

 こんな事は前代未聞だ。他の神々からだって聞いた事がない。龍神の身に起きている事は間違いなく、神の権威に傷が付く事態である。だが今の龍神には、千歳を追い出すだけの力がないのだからどうしようもない……いや、何度かは力尽くで追い出そうとも試みたのだ。神風を使わずとも腕力でどうにかしようと。

 ところが千歳は、この二年を野生で過ごしていた為か、随分と逞しくなっていた。動きは獣のように俊敏で、捕まえようにもするりと身を躱してしまう。奇襲によって捕まえられても、どっしりと太くなった足を踏ん張り抵抗されると、動かす事が難しい……その結果、もう何日も奴が社で寝起きするのを許してしまっているわけだ。

「くそ……やはり彼奴は、不都合にしかならん……」

 龍神は堪らず独りごちる。初めて出会ったその時から感じていた。千歳の存在は自分にとって、厄介極まりないものになるだろうと。

 その要因は、千歳の神気が強過ぎる事だ。その神気が守りとなるのか、千歳は心を奪わせない。他の人間達は龍神を目にした瞬間、その圧倒的な存在感に一も二もなく傾倒し平伏するが、千歳には通用しない。思い通りにならないのだ。

──だが、いくらなんでもあの態度は生意気過ぎる。仮にもこちらは神だというのに……

 例え魅了されずとも、神を相手にあそこ迄好き放題やる奴があるだろうか。奴は全く遜る事がなく、それどころか口喧嘩まで仕掛けてくる始末だ。もし自分に十分な力があれば、あんな態度を許したりしないものを……

 そう、とにかく今の龍神には力がなかった。二年前に既に危うかったのをここまで放置したのである。その枯渇具合は深刻だ。このままいけば川の水が氾濫し、水守村は壊滅する。そうなれば龍神は信仰を失って、存在すらも危うくなる――が。

 だからと言って、千歳を御供として受け入れる事は絶対に避けたかった。それは信仰を失うよりも更に悪い、神にとって最悪な事態を引き起こすからだ。

「そもそも奴は、御供の務めすら理解してない餓鬼だしな……」

 それを思うと、胸の底からの深い溜息が吐き出された。全く、ふざけた事である。まさか自らの御役目を、側仕えと勘違いした神子なんて。

 そんな奴に手を出せば、きっと酷く慄かれる。そしてまず間違いなく、龍神は破滅する。それがわかり切っていて、何故奴を御供として認められよう。

『でも、そうは言いましても、神子の作った料理を残さず食すではありませんか』

 突如、無人であるはずの部屋にそんな声が聞こえてきた。

 だが龍神は特に驚かない。男とも女ともつかないその声の主がわかっているからである。

 それは、この社そのものの声だ。永らく龍神が住まい続ける内、力が染み込み過ぎたのか、いつしか意思を持つようになった。そして時にこうしてちょっかいを掛けてくるのである。

 別に無視してやっても良かったし、大抵はそうするのだが、しかしこの時はなんとなく答えを返す。

「だからなんだ。俺が食わねば腐って捨てる事になる。それでは食材を供物にと捧げてきた村人の信仰心を無駄にする事になるだろうが」

 つっけんどんに言ってやると、部屋の壁が小刻みにカタカタ震えた。まるで笑っているかのように。

『その割には、毎度良い食べっぷりかと思われますが?』

「仕方がないだろう、調理された食べ物になかなか縁がないのだから。というか、何故お前は料理だけは覚えないのだ」

 恨めしげに言ってやると、社はまたカタカタと音を立て。

『主様にできない事は私にもできますまい。当然の道理でございます』

 人を食ったような物言いに、龍神は舌打ちした。この社もまた、龍神の力が弱まったのをいい事に生意気な口をきくのだから腹立たしい。

 だが、馬鹿にされても仕方がないかもしれなかった。確かに龍神は、千歳を邪険にする割に、彼の作る料理にはかなり惹かれているのである。そんなもので力が戻りはしないのだが、それはそれ、美味いものが嫌いな奴なんているはずがない。例えそんな己の態度が、千歳を調子に乗せているのだとしても……と、考えていたところで。

 龍神はふと顔を上げた。

 社内の空気に、変化が生じるのを感じたのだ。社もまた『おや』という声を出す。

『主様、これは』

 と、その続きが述べられる前に、龍神は寝所を抜け出した。その移動先とは、千歳の部屋前の縁側である。

 千歳はいつの間にやらこの社内を、実に住み良いように整えていた。自室と定めたらしいこの部屋も、最初こそ何もない簡素な四畳半であったが、いつの間にやら六畳になり、縁側ができ、その向こうにはちょっとした庭までが作られているのである。どうやら社は強い神気を持つ千歳を気に入り、とことん甘やかしているらしい。庭には何やら巣箱のようなものもあり、小鳥達が休んでいる気配まで――と、今はそんな事はどうでもいい。

「おい、入るぞ」

 龍神は部屋の中へと声を掛けると、それから一秒も待たずに障子をがらりと引き開けた。最初から返事があるとは考えていなかったのだ。すると、案の定。そこには一組の布団が敷かれているのみで、千歳の姿は無かった。その代わりに部屋にあるのは、別の者の気配である。

「……おい」

 龍神は低く呼び掛ける。身体から、すぅと熱が消えていくような感覚がする。それが何故かは知らないが、千歳の居ないこの部屋が、胸をざわざわと掻き立てるのだ。

 龍神は鋭い目で室内を睨み、問い掛ける。

「お前、あいつを何処にやった?」

 それに答える声はない。どうやら相手はだんまりを決め込むつもりのようだ。

 だがそんな不敬を許す程、龍神は優しい神ではない。いくら力が弱まろうと、一度手にした者に対しては絶対の支配力を持つのである。その龍神が室内に向けて掌を翳せば、その者は忽ち布団の影から引きずり出された。その小さな身体は宙に浮かび、そのままふわふわと目の前までやって来る。

「あー……龍神様、今宵も大変麗しい御姿で……」

 白襦袢姿のその娘は、表情に気まずさを滲ませながらも、ご機嫌を取るようにそう言った。全く図太い奴である。龍神は娘をじろりと見据える。

「お前、何か勘違いしているようだが……お前を此処に置いているのは、どうしてもこの社に留まりたいと切に訴えてきた故の情けに過ぎん。なんの権限も与えてなければ、勝手な振る舞いを許した覚えもないのだが……此処に居た神子を何処へやった」

「あら、私が何かしたという証拠が?」

 娘は言い逃れようとするのだが、龍神には無駄な問答に付き合ってやる気は毛頭なかった。瞳を赤く光らせて、ガッと大きく牙を剥く。

「言っておくが、俺を欺こうと言うのならば容赦はせんぞ。その魂を根の国へ送ってやる事だって――」

「っ、わっ、わかりました! 言います! 言いますよ!」

 娘は根の国と聞いて慌てて態度を改めた。其処はあらゆる災いの流れつく地底の国。そんなところにやられると聞けば、誰だって素直になって当然だ。

 だが、そうして素直になった娘が語った話に、龍神は一層表情を強張らせる事となる。

「なに……? 西の洞穴へ行かせた……?」

 信じられない想いで告げられた言葉を繰り返すと、それから数秒絶句してしまった。

 何しろその洞穴には、あやかしが住まうのだ。それも古くから存在する、力の強い妖が。龍神もそいつが住み着いた事を決して快く思ってはいなかったが……しかし下手に手を出せば此方もそれなりに傷を負う。ならばここは放っておくのが良かろうと、長年触れずにおいたのである。

 そんな妖の元へ、千歳を一人で行かせた、と?

 無意識の内、龍神の髪はざわざわとざわめいていた。それは強い怒りが逆巻いている事の現れだ。娘は「ひっ」と小さく悲鳴を上げ、慌てて弁明の言葉を叫ぶ。

「待って、待ってください龍神様! これは全て、貴方様の為にした事です! だってあの子、図々しくもこの神聖な御社に押し掛けて、龍神様にとんでもない態度を取るんですもの! 龍神様に追い出せないと言うのなら、私が代わりにと思ったまで……全ては龍神様のお役に立ちたいが為の行いです!」

 娘は必死になって訴える。

「龍神様も、あの子には困っていらっしゃいましたでしょう⁉ こうなって良かったではありませんか!」

「……っ」

 その主張に、龍神はぐっと口を噤む。一理あると思ったのだ。

 龍神は千歳の事をこの上なく厄介だと思っていた。出来る事ならば力尽くで追い出してやろうとも試みた。その後で千歳がどうなろうとも知った事ではないと……だからこそ、娘の行いを咎める道理もないはずで……

 だがそんな理屈がまるで意味を為さない程、今、龍神は猛烈な焦燥に駆られていた。洞穴の妖に千歳が食われてしまったらと考えると、とても冷静ではいられない。だって……

――あれは、俺のだ。

 心の奥深くから、獰猛な声が沸いて来る。

――誰かに取られるなど冗談じゃない。あれは俺の……俺だけのもの……

 そんな自らの主張を、何を馬鹿なと突っ撥ねるだけの余裕もなかった。とにかくすぐに千歳を追わねば。この社へと連れ戻さねばと、それだけしか考えられない。その形振り構わぬ衝動こそ破滅の前兆なのだろうが、わかっていても身体が勝手に部屋を飛び出す。だってこのままでは落ち着かない。一秒だっていられない。千歳を取り返さない事には──だが、しかし。

 社を出た龍神は、数歩も行かずに足を止めた。社の外へ通ずる鳥居の間に、網のような物が張られていた為だ。そしてその網のところどころに、虫が貼り付きもがいている──蜘蛛の巣だ。巨大な蜘蛛の巣が鳥居の間に張り巡らされ、龍神を足止めしているのである。それが誰の仕業かと言えば、件の妖に他ならない。

「くそ、奴め……極上の餌が近付いていると嗅ぎ付けて、邪魔されまいと先手を打ったか……!」

 苛立たしくそう吐くや、龍神は神風を巻き起こした。風の勢いで蜘蛛の巣を飛ばしてやろうと──が、例の如く。

 最初こそゴウと勢いの良かった突風も、いざ蜘蛛の巣に襲い掛かろうというところで、そよ風へと変わってしまった。ピンと張られた蜘蛛の巣は、龍神を嘲笑うようにゆらゆらと揺れるのみだ。

「龍神様、無茶ですよ!」

 社の外まで追ってきた神子の娘がそう叫ぶ。

「今の龍神様のお力では、洞穴の妖からあの子を取り戻すなんて不可能です! 下手をすれば、ただでは済まなくなりますよ! 別に良いではないですか、あんな子なんてどうなっても──」

「五月蝿い!」

 龍神は娘の言葉を遮った。

 いや、娘の言う事はもっともなのだ。今の龍神の力で山の妖とやり合おうとは、どう考えても無理がある。そうまでして千歳を取り戻す意味なんて……とは思えども。

 損得を考える冷静さも、最早龍神は失っていた。

 とにかく、彼奴を取り戻さなければ。

 その意思だけが、強く思考を支配する。

 そうして一度深く呼吸をし──心を決めた。

 龍神は、己の中に設けていた一つの制限を打ち壊した。

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