第15話

 それからの数日も、千歳は懸命に料理の腕を振るい続けた。人間だって食事からの栄養は、ある程度継続して摂取しなければ身にならない。ならば龍神の力だって、今はまだ効果がなくとも、毎日食事を取らせていれば回復するかもと考えたのだ。

 それに、料理だけではない。

 千歳は社の掃除にも精を出した。とは言え社に汚れはほとんど無く、たまに塵を見かけたとしても、それは瞬きをする間に消えてしまう。意思を持っているらしいこの社は、自ら綺麗にしてしまうのだ。

 だがそれでも手を加える余地はあると、千歳は板張りの廊下や柱を磨いて回った。庭の草むしりや掃き掃除にも精を出す。居住空間の美しさは心の在り様に影響する。少しでも社が綺麗であれば、龍神の心も豊かになり力が湧くのではと張り切って。

 そして他にも、山で摘んだ花を生けたり、鳥達を呼び寄せて歌声を披露してもらったり、肩を揉んでやろうとしたり──と、これは「触れるな馬鹿者!」と手酷い罵声を喰らったが──とにかく思い付く限りの事をして龍神に尽くしてみた。この内の何かしらから、良い効果が得られたらと……

 しかし虚しいかな、事態は一向に変わらなかった。

 一日を終えて部屋に戻り障子を開けると、やはり雨が降り続いている。

「うーん……流石にこれは良くないぞ……」

 千歳は布団の上に胡座を掻くと、腕を組んで考え込んだ。日々懸命にやってはいるが、こうも進展がないとなると、徐々に焦りが募ってくる。ここは何か、もっと別の角度から攻める必要があるのでは……そんな風に思案して。

 浮かんでくるのは、やはり呼び名の事だった。

 正直、あれはかなり良い案だったように思う。名を与える事により、妖の類は実態を持つのだ。ならば龍神にも新たな名を付けてやれば、少しは力になるんじゃないか。それに千歳も、いつまでも龍神を「お前」呼ばわりし続けるのに気が引けてきたところである。

 そうして再び、頭を捻る。改めて、何かあの龍神に馴染む呼び名はないものかと。

「龍……龍だから……龍蔵りゅうぞうとか? いや、これじゃ平蔵と被るし……なら龍神丸りゅうじんまるは? ……なんか船の名前みたいだな……」

 それからも色々と案を出してみるが、その内に千歳は理解した。自分には壊滅的に、名付けの才が無いのだと。出てくるもの出てくるもの、皆漏れなく野暮ったい。あの美しい龍の神を呼ばうのに相応しい響きが出てこない。

「あークソ……そもそもアイツが綺麗すぎるから良くねぇんだ……!」

 悩む余りに苛立って、千歳はそう文句を垂れた。龍神が人並みの見目をしていてくれれば、多少気楽に名付けられたものを。あそこ迄美しく整っていると、とても適当には処理できない。

「頼むからもう少し、普通になってはくれないもんか……」

 と、そんな愚痴をこぼした、その時である。

「あら、それじゃ困るわ。あの方は美しいからいいんじゃない!」

「っ⁉」

 突如そんな声が聞こえ、千歳はバッと顔を上げた。今の声は間違いなく、若い娘のものである。何処か甘えたような色のある、可愛らしい声。

 だがこの社には、千歳と龍神以外の者はいなかったはず……訝しみつつ周囲に視線を巡らせていると、行灯の影からその者は現れた。

「此処よ此処! あぁ全く待ち草臥れた……やっと声が届く様になったのね?」

 少しばかり呆れたような口調で言うその者は、声の印象そのままに、可愛らしい顔をした、白襦袢姿に濡れ羽色の髪を緩く結った娘であった。恐らくは千歳と同じくらいか、それより少し若いくらいの。

 だが、見た目がそのまま彼女の年齢というわけではないだろうと、千歳は悟る。それは彼女の大きさが、ほんの五寸程しか無かった為だ。明らかに、人ではない。

「あの、貴女はどなたか」

 千歳は硬い声で問い掛ける。得体の知れない者にはまずは警戒する様にと、平蔵から厳しく聞かされたのだ。故にこの五寸の君にも険しい目を向けたのだが、彼女はそんな千歳の態度にやれやれと首を横に振り。

「嫌ねぇ、そんな怖い顔しないでよ。この社に入れる時点で、私は龍神様に受け入れられてる。悪いものではないんだってわからない?」

「む、それはそうだが……」

「あら、それでもまだ怖い顔を続けるの? 意外にも頑固ねぇ……いいわ、なら証拠を見せてあげるわよ。ほら、少し近付いて」

 手招かれ、千歳は訝しみながらも彼女に顔を近付ける。すると彼女は襦袢の胸元に両手を掛けた。そしてそれを左右に開いてみせたのだが。

「っ! それは、痣……?」

 千歳は目を丸くした。彼女の胸元には――千歳のものよりは薄いのだが――神子の資質を示す勾玉の痣があったのだ。

「という事は、貴女は……」

「そう。龍神様の先の呼び掛けに応えて御供となった、水守みなかみの神子。謂わばあんたの先代ね」

「こ、これはご無礼を……!」

 千歳は即座に布団から飛び降り、畳の上で平伏した。神子屋敷を追われて以来、粗暴な振る舞いが染みついてしまった千歳だが、流石に先代神子の御前ともなると畏まらずにいられない。その素早い変わり身に、先代は可笑しそうにころころ笑う。

「まぁいいわ、警戒心が強いのは悪い事じゃないからね。とにかく話ができるようになって良かったわ。私の存在を感知できるくらいに、あんたもこの社に染まったって事かしら」

 うんうんと頷きながら先代は言う。曰く、この社で過ごす時間が長くなる程、不可思議な力に馴染んでいくものらしい。それ故に、先代の姿もこうして見えるようになったのだとか……と、それには納得した千歳だが、しかし聞きたい事は無数にあった。

「あの……先代はずっと此処にいらしたのですか? 御供となった神子達は皆、先代のようにこの社に留まっておられるのでしょうか?」

 龍神に捧げられた神子達のその後は、誰も知らない。しかし千歳はなんとなく、寿命を全うしたら普通に死に、通常の死人同様、氏神うじがみとなってそれぞれの家に戻っていくものと思っていた。御供となった神子は人の世と切り離されるが、死後は他の者と同じ道を辿るのだと……そんな考えに、先代は。

「えぇ、そうね。大体はそれで合ってるけれど」

 指先で髪を梳きながらそう答えた。

「でも、二つ訂正するわ。まず、御供となった者に寿命の全うという概念はない。龍神様の御供となると、人としての命は終わるから」

「えっ――それは即ち、御供になった時点で死ぬ……という事ですか?」

 その恐ろしさに思わず眉間に皺が寄るが、先代は首を横に振った。

「死ぬというのとも少し違うわ。要するに私達は、龍神様と一つになるのよ」

「一つに……?」

 とは、一体どういう事だろう。千歳は首を捻りつつ考える。それは龍神の側仕えとして、一心同体の存在になるという事か……? まだ色々と理解が追い付いていなかったが、先代は構わず先を喋り続ける。

「つまり龍神様に身を捧げると、人の器ではなくなるという事ね。私達は龍神様の御力の源となる……そしてその御役目が終わったら、あんたの想像の通りに氏神として――それも力の強い特別な氏神として、家に帰るのが普通よ。けどね、私は此処に残ったの。自分の意志で」

「? それはなんでまた……」

「決まってるじゃない、龍神様が余りにもお美しかった為よ! お側を離れるなんて絶対考えられなかったの!」

 先代が声を大きくして主張するので、千歳は少々面食らった。

 今の話、先代は「死ぬ」というのとは違うと言ったが、しかし人としての命が終わるというのは、それなりに悲壮な話であるはずだ。だというのに先代は、こんなにも真っ直ぐに、夢見る乙女のような顔で、龍神への好意を示している……

「あの……聞いても良いでしょうか。先代にとって、御供の御役目は、辛いものではなかったのでしょうか?」

 千歳はそう問うてみた。千歳にも、御供となれば人の世と切り離されるという覚悟はあったが、しかし命が終わるなんて言われたら怖気付く。誰だってそうだろうと思ったが、しかし先代ははっきりと頷いた。

「ええ、勿論! ……まぁそりゃぁ、最初は不安もあったわよ。人でなくなるのも、身を捧げるのも決して容易な事じゃないし。でも実際に龍神様にお会いしたら、そんな不安は吹き飛んだわ! あんなに美しい方と一つになれるなんて、喜びしかない! 本当に神子になれて良かったって……私より前の神子達も同じ気持ちだったでしょうね。だってこの社には、誰の嘆きも染み付いていないもの」

「あ、それは確かに……」

 千歳はそう納得した。普通、悲劇が起きた場所には、嘆きが色濃く染み付くものだ。もし先の神子達が御役目を苦痛に感じていれば、その感情はドス黒く蓄積されていったはず……が、この社には清浄な空気しか感じない。

「だってねぇ……。龍神様はあんなにもお綺麗なのよ。人間には有り得ない美貌だわ。そのお相手に選ばれるなんて、僥倖以外の何物でもないわよ」

 先代はほぅと息を吐くように、うっとりと言う。

「あの方は不愛想ではあるけれど、交わるのは本当に夢心地だったわ。燃えるように熱くて、激しくて、満たされて。それはもう、蕩けてしまいそうなくらい……」

 そう語る先代に、千歳は感心してしまう。側仕えという御役目に、そこまでも情熱的になれるとは。確かに主人に必要とされれば、仕える者にとっては喜びを感じる事かもしれないが。

「もしかしたら私には、この御役目は向いていないのかもしれません……」

 千歳はぽつりとそう零した。

 村に居た頃、痣の濃さや清廉さにより、神子としての資質が強いと言われてきた。だが今、先代の話を聞いていると、本当に必要な資質とは、どれだけ龍神に対し情熱を燃やせるかなのではないかと思えてきた。そして自分にはそれが足りないから、どれだけ尽くそうと龍神の力は戻らないのではないか。それを見抜いていたからこそ、龍神は千歳を拒絶したのではないか……

 そう考えていると、先代は同情するように千歳の膝に手を置いた。

「まぁ、そうね。自信をなくすのも無理ないわ。あんたって龍神様に突っ返された上、こうして押し掛けてきても尚、受け入れてもらえずにいるんだものね」

「はい、その通りで……」

 はっきりと言われると、益々気持ちが落ち込んでいく。

 嗚呼、自分はなんと役立たずなのだろう。平蔵を、村を救いたいのに。その為ならば、御供が人としての命を終えるのだという運命も、覚悟を決めて受け入れようと思うのに……しかしどうしても、あの龍神に対し情熱的な感情が抱けない。

 これはもしや、自分が男であるのが不利なのか。もしも自分が女子おなごであれば、あの麗しい見目により、龍神に対し恋心に似た情熱を抱けたのかもしれないが――……いや、そうでもないだろうか。

 実は千歳、この世に生まれて十九年、己が人生に色恋は無縁と思っていた為か、どんなに美しい女を見ても惹かれた事がないのである。それを思うと、男であっても女であっても、龍神へ情熱を燃やすのはそもそも難しかったかも……

「嗚呼、本当に、不甲斐ない……」

 自らの心のままならなさに、千歳は大いに肩を落とす。が、そこで。

「まあまあ、気落ちする事ないわ。先代として特別に、効果的な一手を教えてあげるから」

「効果的な一手?」

 先代が告げた言葉を千歳は鸚鵡返しした。すると先代は、自身満々に大きく頷き。

「そう。あんたが立派に御供の御役目を果たす為の、確かな手があるって事よ」

「っ、誠でございますか!」

 千歳は一気に表情を明るくした。

「それは一体、どのような手でしょうか! 是非ともご教示賜りたく……!」

 期待を込めて言う千歳に、先代はにっこりと微笑んだ。

「それじゃぁ手短に説明するわ。丁度今なら雨も止んでるみたいだし……また降り出しちゃう前に出発した方がいいものね」

「え?――あの、出発とは?」

 意外な言葉に戸惑いつつ尋ねると、先代ははっきりとこう告げた。

「あんたには、今から御山に出てもらうの。あんたが取るべき一手ってのは、御山の中にあるんだからね」

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