第14話





「なぁ、ちゃんと食ってんのになんでだよ?」

 用意した朝餉がすっかり平らげられたのを見て、千歳は龍神に問い掛ける。

 外へと続く八畳間は、今やすっかり茶の間となった。社に乗り込んだ翌日から、千歳はこの部屋に食事の用意をしているのだ。

 千歳は初め、毛嫌いされているらしい自分の料理を龍神に食べさせるのは、相当に骨が折れるだろうと思っていた。下手をすれば力尽くで彼を捕まえ口をこじ開け、無理矢理に飯を突っ込む必要があるかとも考えていたのだが。

 しかし意外な事に、食事を用意すると龍神は自らこの部屋に現れた。普段は千歳と関わるまいと姿を消している癖に、飯の香りが漂うとやって来て、驚くべき勢いで料理にがっついていくのである。

 どうやら彼は、まともな食事というものに随分と飢えていたらしい。この社は便利な事この上ないが料理まではできないようで、それ故に龍神は、ずっと生の米だとか大根だとかをそのまま齧っていたのだとか。まぁ神にはそれでもいいようだが、しかし調理されたものを食う方が、喜びがあるに決まっている。龍神は料理に夢中な余り、千歳が向かいにて食事を摂ってもいちいち文句は言わなかった。そんな事よりと言わんばかり、次々箸を進めていくのだ。

 なんにせよ、龍神が自ら進んで食事を摂ってくれるというのは、とても嬉しい誤算であった。とにかく飯さえ食ってくれれば彼の力は回復し、雨を止ませる事もできるだろうから。

 そう信じ、千歳は日々料理に精を出した。神子屋敷に居た時に平蔵や侍女達から、「少しでも龍神様からの御寵愛を賜れますよう」と、色々と仕込まれていたのが有難い。そのお陰で毎食難なく、一汁三菜の用意ができた。味付けや盛り付けにもこだわって、少しでも龍神の力になるようにと料理を振舞う――が、しかし。

「なぁってば! もう俺が此処に来てから三日だぞ? 三日もこんなにいいものを食わせてんのに、全然雨が止まないってどういう事だよ! お前の力、全然回復してないってのか?」

 重ねて問うと、行儀悪くも畳の上に寝転がった龍神は、煩わしそうに此方を見やり。

「そりゃそうだろう。御供というのはこういう事じゃないのだから……」

「は? なんだって?」

 ぼそぼそと言われた言葉が聞き取れずに尋ねるも、龍神はだんまりを決め込んだ。この神様は毎度こうだ。食べるだけ食べはするのに、千歳との間にまともな交流を持とうとしない。たまに口を開いたかと思えば。

「いい加減、こんな事をしても無駄だという事がわからないのか? お前は俺の力の根源には成り得ない。此処にどれだけ居座っても雨は止まん。だからさっさと出て行くんだな。あんまり聞き分けが悪いと、鉄槌が下る事になるぞ」

 龍神はそんな脅し文句を寄越してくる。村の人間が聴けば間違いなく震え上がるような言葉である。が、千歳は呆れたように息を吐くと。

「鉄槌って……何言ってんだ。今のお前にはそんな事できないだろ? すっかり神力も擦り減ってんのに、どんな鉄槌が下せるって言うんだよ?」

 千歳は堂々打ち返す。今や龍神は千歳にとって、恐るるに足らない存在となっていた。それ故に、この生意気な態度を貫いている。そもそもこの龍神には、返品という恥を掻かされた恨みがあるのだ。それに刺々しい態度を取られ続ければ当然ながら腹も立つ。危害が加えられる恐れがないなら、対等に話してやって何処が悪いと開き直る。

「くそ、本当に生意気な……この身に力が戻ったら、真っ先にお前を吹き飛ばしてやる」

「ああいいぞ。俺だってお前に力が戻りさえすれば、こんな所はさっさと出たい。飛ばしてくれて構わねぇ……というか」

 そこで千歳はじっとりとした目を龍神へ向ける。

「力がなくて困ってんなら、お前自ら新しい神子を探しに行けば良かったんじゃねぇのか? その方が村人に探させるより、ずっと速く見付かりそうなもんだけど」

「あぁ? なんでこの俺がそんな面倒な事をしなくちゃならん。神とは捧げられるものを待ってなんぼだろう」

「っ、このぐぅたら神……」

 呆れるやら憤るやらで、千歳は顔を引きつらせた。この龍神、最初に見た時は美しく威厳ある神だと思ったが――いや、今でもそれはそうなのだが――こうして共に暮らしてみると、随分と面倒臭がりでぐぅたらであった。姿を消している間は、よく昼寝をしているらしい。水守村も、そして自らも危機に瀕しているのに、その態度……

「今のお前には神として崇めるべき点が一つもねぇな……」

 ついぽつりと呟くと、それはばっちりと龍神の耳に届いてしまった。

「貴様……そこまで俺を愚弄するか!」

 彼がバッと上体を起こすとその瞬間、彼の背後から風が吹く。ゴゥッという唸りを上げたその風はガタガタと社を騒がせるが――……しかし、それだけだった。千歳の身体を吹き飛ばすには及ばず、長続きもしない。僅か数秒で風は止み、後にはただ、散らかった部屋が出来上がったのみである。

「――っ、畜生……!」

 龍神は実に悔しそうに、拳を畳へ打ち付けた。まぁ無理もない。川を操り、人々に崇められ、強大な力を誇っていた偉大な神が、今では神風もろくに吹かせる事ができないのだから。

 その姿を見ていると、千歳はなんだか気の毒になってきた。色々と腹の立つ相手ではあるし、弱っているのも御供を選り好みした故の自業自得だと思うが、しかし落ち込んでいる者を放ってはおけない。これは千歳の性分なのだ。故に何か、励ましの言葉を掛けてやろうと考えて――そこで。

「そう言えば……お前って、名前ないのか?」

「……は?」

 唐突な問い掛けに、龍神は不機嫌そうに此方を睨んだ。気落ちしているところへ意味のわからない問いを寄越され、腹立たし気な顔になる。

 これに千歳も、今のは余りにも空気が読めていなかったかと反省した。だが、やはり気になったので、今一度問い掛ける。

「だから、名前だよ。毎度呼び掛けるのに“お前”ってのは、なんかちょっとって感じだろ。できればちゃんと名前が呼びたい。もしあるなら教えてくれ」

 千歳はそう主張する。慰めや励ましの言葉を掛けるのに、「お前」という呼び掛けは如何なものかと思ったのだ。それはなんと言うか、誠意に掛ける。心が籠らないような気がするのじゃないか。

 だがこれに、龍神は下らないとでも言いたげに首を振り。

「は、何が名前だ。そんなもの俺にはない」

「えっ、ないのか⁉」

「ない。他者は俺を龍神と呼ぶ、それだけで十分だろうが」

「えぇ、でも……」

 千歳は言葉を濁らせた。それでは彼の事を、“お前”以外の呼び方で呼べないという事になる――いや、本当は従来通りに “龍神様”と呼べば良いのだが、こうまで生意気な態度を取った後では、それもなんだか違う気がする。

 しかし、名前がないというのはどうなんだ。それはなんだか、生きる上で味気なくはないだろうか。少なくとも千歳だったら、“お前”だとか“神子様”だとか、そんな風にしか呼ばれなかったら寂しいが――……そう考えている内に、ふと。

「――あ。それじゃ、俺が呼び名を付けるってどうだ?」

「……は?」

 この提案に、龍神はぽかんと口を開けた。その綺麗な顔には似つかわしくない、若干間抜けな表情だ。余程虚を突かれたらしく、後の言葉を継げずにいるが――その隙に千歳は尚も言い募る。

「なぁ、もしかしたらこれって凄い名案じゃないか⁉ 名前があった方が絶対に便利だし、何よりお前の力にも影響がある気がする……ほら、あやかしなんかは名付けられる事で、存在が明確化されるだろ? なら神様だって、龍神って呼び方の他にも特別に名前があれば、強くなれたりするんじゃないか?」

 そう語る内、千歳はどんどん前のめりになっていった。勢いよく語る内に畳の上をずいずい進み、龍神の眼前まで近付いていく。

「なぁ、どうだ⁉ 悪くないよな⁉ 名付けてもいいだろう⁉」

 期待に目を輝かせ、そう尋ねる。が、龍神は対照的に、むっすりとした顔のままだった。その表情に、千歳は早くも「あ、駄目か」と考える。一人で盛り上がってしまったが、この龍神が千歳の提案を受け入れるはずが……と、しかし。

「……例えば?」

「え?」

「例えばどんな名前を付けるつもりだ」

 そんな風に問うてくるので、千歳は意表を突かれてしまった。どうやら龍神は、仏頂面のままながらも、名前というものに興味が湧いて来たらしい。そうなると千歳もまた興が乗り。

「そうだなぁー、どうするか……」

 顎に手を当て、張り切って考え始めた。龍神は腹の立つ奴だが美しいのは否めない。ならばそれに合うような、非凡な響きのものが良い。優美で、劉礼で、品と格式を感じられるような名が。そうして頭を捻ってみたが――……

「――駄目だ、全く思い付かん……!」

 千歳はガバリと頭を抱えた。情けない事に、これと思う名が一つたりとも浮かばないのだ。何しろこんなにも美しい存在には、過去に出会った事がない。となればそれに相応しい名というのがどういうものかもわからない。

「なんだ、下らん」

 龍神はすっかり醒めたように吐き捨てた。どうやら彼は、それなりに千歳の名付けに期待を寄せていたらしい。その分だけ、何も案を出せなかった千歳に対し冷めた視線を寄越してくる。そして話が、ぐんと戻る。

「まぁなんにせよ……お前に出来る事は何もないという事だな。お前が此処に居座ろうと、それによって俺の力が戻るなんて有り得ない。わかったらさっさと出て行くんだな」

 そう言い捨て、龍神は姿を消してしまった。茶の間に一人残された千歳は、「誰が出てくか!」と言い返すが、恐らく届いてはいないだろう。声は虚しく反響するのみである。そうなると肩をいからせているのも馬鹿馬鹿しくなってきて、千歳は息を吐いて脱力する。

 正直なところ、自信を失くし掛けていた。

 この三日、料理を作り続けてきた。龍神の力となるよう、丹精込めて。だが、龍神に力が戻る気配は全くない。

 もしや本当に、自分は無駄な事をしているのだろうか。懸命に世話を焼いても、龍神にはなんら影響はないのだろうか。彼の言う通り、自分の働きがなんの意味も為さないなら、出て行った方が良いのではないだろうか――……

 そんな考えが頭を過るが、しかし千歳はそれらをなんとか追い払った。

「いや、間違ってない。間違ってるはずがない……」

 自らにそう言い聞かせる。だって長年神子屋敷で育てられる中、千歳が具体的に教わったのは料理だけだ。

 千歳がまだ幼い時、平蔵は言った。


――もし御供として呼ばれる事があったとしても、心配する事はございません。全ては龍神様がうまく取り計らってくれましょう。千歳様は、身を任せておけば良いのです……あぁでも、少しでも御寵愛を賜われますよう、料理くらいは身に付けておきましょうか。美味い食事が作れる者は、何処に行っても必ず重宝されます故……


「……って、うん?」

 平蔵の台詞を久々に反芻し、千歳は思わず首を傾げた。

 この言葉を聞いた時、千歳に理解できたのは、とにかく料理の腕を磨けという事のみだった。そしていつしか、それこそが御供の果たすべき務めなのだと認識するようになっていたが……

 こうして当時の台詞を改めて浚い直すと、料理はむしろおまけのように聞こえないだろうか。大事なのはその前に語られた、「龍神がうまく取り計らう」や「身を任せておけばいい」という部分のように思えて来る……が、その意味するところは不明瞭過ぎて、千歳にはなんの事やらわからない。

 更に思い返してみれば、侍女達も御供の御役目の話について尋ねると、気まずく目を逸らしていただけだった。それを思うと、益々わけがわからなくなる千歳だが――……いや、なんにせよ。

「とにかく俺は、できる事をするまでだ」

 千歳は自らを奮い立たせるように呟いた。

 だって此処で退いたら、ただ川が溢れるのを馬鹿みたいに待つだけになる。闇雲に新しい神子探しに出たところで、うまくいく可能性はほぼ無いのだ。それくらいならば龍神の側に留まって、その力が戻る方法を模索する方がいいはずだ。

 そう考えると、千歳は大きく頷いた。折角勇気を振り絞ってこの社まで来たのだし、思い付いた事はなんだってやっていこうと。何せ自分は、れっきとした水守の神子なのだ。例え誰からも認められなくなったとしても、村の為に尽力せねば嘘だろう。

 千歳は決意を新たにすると、気合を入れて立ち上がった。そうして早速、龍神の為になりそうな事は全てやろうと、行動を開始した。

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