第8話

 ここまでは勢いでやって来れたが、しかし古い鳥居の前に立つと、流石に足が竦んでしまった。いざ社を目にすると、威圧感と緊張に飲まれたのだ。

 何しろ此処に住まうのは、あの冷たく強い神である。それを相手に、自分は今からとんでもない事をしようとしている。下手をすれば命を取られるかも……いや、それだけならば全然マシだ。最悪の場合、村を潰される可能性だってなくはない。

 だがどの道、このまま手をこまねいているだけなら同じような結末を迎えるのだ。村人達だって、薄々わかっているだろう。空を見上げれば雲は果てなく続いているのだ。雨はまだまだ降り続く。神子が見付かるかもわからない……ならば、賭けに出るしかない。

 千歳はそう心を決めると、背筋を伸ばして踏み出した。すると鳥居を潜る瞬間、若干の抵抗を感じ取る。まるで鳥居に薄膜が張り、侵入を拒んでいるような。

 だが、力尽くでなんとかなる程度の抵抗だ。ならば気にする事もないだろうと、構わずそのまま押し通る。

 千歳は社のすぐ前まで進み出ると、その場で地面に手を突いた。丁度二年前の儀式と同じ場所、同じ姿勢だ。あの時の事は苦い記憶として染み付いているのだが、今度こそと、千歳は声を張り上げる。

「龍神様! 龍神様、お話がございます! どうか御姿を見せては下さいませんか!」

 それに答える声はない。ただ雨がザァザァと振り続く音が聞えるのみだ。その雨に土はぬかるみ、千歳は早くも泥だらけになっている、が、それでも最敬礼をと地面に這い蹲ったまま、精一杯に声を張る。

「私は二年前、水守みなかみの神子として儀式に臨んだ、千歳という者でございます! その際、龍神様には私以外の神子を御供とするよう仰せつかりましたが……未だそれに相応しい者が見付かっておりません! ですので、再度ご一考いただけますよう、お願いに参りました。龍神様、どうか私を御供として受け入れてくださいませ!」

 千歳はそう懇願する。そう、これこそが千歳が思い付いた唯一の手。千歳こそが御供として、役割を果たすという事である。

「無論、私が龍神様の御眼鏡に叶わなかった事は承知しております。その上でこんなにも出過ぎた事を申し上げるのは、不敬極まりない事とも存じております。ですがこの雨ではまた村に被害が及び、私の……私の大切な養父が流されてしまうのです! 龍神様、どうかご慈悲を! 私に御役目を果たす機会を与えてはくださいませぬか……!」

 千歳は心から訴える。なんとか龍神に届くようにと、この上なく真剣に。

 だが、何も起こらなかった。

 儀式の時に吹いたような風もない。場の威圧感こそあれど、濃密な神の気配も今はない。ただ雨が降り続くのみである。

 完全に、無視されている。

 千歳の切なる訴えなど、取るに足らないと言われている――……

 まぁ、そんなのは当然の事だった。神は人間の事なんて一顧だにしない。どれ程祈りを捧げようと、聞き入れてもらえる保証はないのだ。神とは気まぐれなものであり、人々にできるのはただ、その怒りを避ける為に信仰と供物を捧げる事のみ。それにしたって平穏が約束されるわけではない。神と人とは、そういう関係性にあるのである。

「…………」

 千歳はゆらりと立ち上がる。

 こんな事をしても無駄なのだと悟ったのだ。

 どんなに必死に頭を下げても、神は全く構いやしない。同情を引くような訴えも聞き入れられない。土下座に一切の意味などないのだ。

 だから此処は大人しく引き下がり、別の方法を考えるべき――なのだろう、が。

「――ンな悠長な事、言ってる場合か……!」

 千歳は口の中で呟くと、そのまま大股で社へ迫った。そしてその勢いのまま、閉じ切られた木製の引き分け戸に手を掛ける。不敬? 罰当たり? 上等だ。そんな事は百も承知で、戸を左右に押し開く。そして。

「おい、居るのはわかってるぞ! 折角訪ねて来ているんだ、顔くらい見せたらどうだ⁉居留守を使うとは卑怯だろうが!」

 真っ暗な社の内部に向けて、千歳は怒声を響かせた。こんな振る舞い、絶対に神を怒らせる、あるまじき行為だが――しかしそれこそが作戦だ。

 龍神は、完全に千歳を無視している。人間の懇願なんて取るに足らないと考えているのだろう。自分の姿を見せてやる必要すらないと思っている。

 だが、神というものは自らへの不敬については絶対に見逃さない。こうまで不遜な態度を取れば、龍神は絶対に現れるはず……と、その思惑通り。

 只管に千歳を無視し、静まり返っていた空間に、変化が起きた。

 闇に包まれ、三歩先すら見透かせないような社の奥。そこに橙の光が左右に二つ、ぼうと灯った。かと思うと、その左右の橙は物凄い勢いでこちらに向かって数を増やす。そこで気付くが、光の正体は蝋燭の炎だ。部屋の両側に無数の燭台が並べられ、そこに炎が灯っていくのだ。

 その尋常ならざる事態だけでも千歳は大いに驚いたが、灯りに照らされ見えてきた社の内部自体にも度肝を抜かれた。外から見た社は、どちらかと言うとこじんまりとした印象だったが、炎の灯りに照らされると、その内部は果てが見えない程に広かったのだ。

 更に室内の誂えも、古ぼけた外見からは想像もできない程に美しい。部屋の左右には見事な大和絵の施された襖がずらりと並び、敷き詰められた畳は香りが良くふっくらとして、天上の梁や柱は、磨き抜かれているかのような艶やかさ。この社が建てられたのは数百年前だったはずなのだが、その歴史を一切感じさせはしない。

――嗚呼、これが神の社というものか……

 圧倒されながら千歳は思うが、しかし呆けていられたのも数秒だ。

「貴様……随分と生意気な口をきくではないか……」

 突如唸るような声が聞こえ、かと思ったら、社の奥から突風がゴウと吹き付けた。そして次の瞬間、千歳は大きく息を呑む。

 眼前に、龍神が現れたのだ。

 不機嫌そうに腕を組み、千歳より頭一つ分高いところから、鋭い瞳でこちらを見降ろしているのである。

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