第7話

 小屋を出た千歳は、途方に暮れたままとぼとぼ歩いた。

 神子屋敷に仕えていた者達が白い目で見られているのはわかっていたが、まさか平蔵が、こんなにまで追い込まれていようとは……

「――っ」

 どうにかせねばという焦燥に駆られ、一瞬足が村へと向く。村人達へ、平蔵をあんな危険なボロ小屋へ追い立てるのは間違いだと言ってやろうと――……だが数秒迷ってから、脱力したように息を吐く。自分が何か働きかけても、皆の憎悪を煽るだけだと気付いたのだ。

「くそ……俺は無力だ……」

 千歳は天を仰ぎそう呟く。

 これまでは、全てを仕方のない事だと考えていた。誰かが悪いわけではない。この状況は、神の気まぐれで起きた事──そして神を責められる者なんていないのだし、ならば全てをありのまま受け入れるより他にないと。

 だが、今は酷くもどかしい。現状を変える術はないのかと、考えずにはいられない。

 何か、何か良い方法はないものか。平蔵を助けるのに有効な手段は――……そうしてまず考え付くのは、次の神子を見付け出すという事だ。

 龍神に御供が捧げられれば、当面氾濫の危険はなくなる。皆の不安も取り除かれ、平蔵に対する厳しい処置もなくなるはずだ。

 だが――千歳は渋い顔になる。

 新しい神子を見出すのは、やはり相当に難しいと思うのだ。

 次の長雨の季節まではもうそこまで猶予はないし、それまでに神子が見付かる可能性なんてどれだけある?……できれば他に、やりようがあればいいのだが……

 考えながら歩いていると、ぽつり、一粒の雨が鼻先に落ちてきた。その一雫は忽ち雨粒の軍勢を引き連れて地上へ奇襲を掛けてくる。

 千歳は慌てて住処へ向かって駆け出すが、その最中、妙に胸がざわつくのを感じていた。

 この雨が、何かとても不吉なもののように思われたのだ。


――千歳の予感は正しかった。

 降り出した雨は、豪雨という程の威力にはならないが、しかしなかなか終わらないのだ。降ったり止んだりを繰り返し、もう七日以上も雨雲が居座っている。まだ長雨の季節に入るまでには、少しばかり早いというのに。

 千歳は雲の切れ間を見計らい、住処を出て村へと向かった。村人達はこの妙な雨をどのように考えているのかが気になったのだ。

 村のあちこちで物陰に潜み、皆の会話を聞いてみると、案の定彼らは戦々恐々になっていた。

「この雨、勢いこそ弱いが、このまま降り続くとなれば厄介だぞ。なぁ川を見たか、じわじわ水位が増してやがる」

「雨の季節はまだ先なのに、なんだって雨雲が居座っているんだか……」

「このままだとひと月もしない内に川が溢れるに決まってる! 畜生、この不気味な雨も龍神様のお怒りの所為なのか。なかなか神子を差し出せない事に痺れを切らし、俺達をじわじわ追い詰めるおつもりなのか……」

 村中でそんな会話が交わされて、そして最後にはお決まりの台詞で締め括られる。「神子はまだ見付からないのか」と……新しい神子の捜索について、未だ進展はないらしい。

――ここはやっぱり、何か別の手段を講じるべきじゃねぇのかな……

 千歳はそう考えているが、そしてその手段を模索し続けてもいるのだが、情けないかな、何も思い付かなかった。……いや、実のところ一つだけ浮かんではいるのだが、どう考えても禁じ手だ。下手をすれば、今よりもっと状況を悪化させてしまう……うん、絶対によろしくない。何か別の、安全で確実な方法を考えなければ……

 そう思案に暮れながら、千歳は平蔵の小屋へと足を向ける。とりあえず彼の様子を見ておこうと思ったのだ。この雨を受け、不安に駆られているかもしれない。だとしたら気の毒だ、励ましの言葉の一つでも掛けてやりたい。

 そうして例のボロ小屋が見えて来たのだが、そこで千歳は息を呑んで物陰に身を隠した。小屋の前に幾人かの村人が集まっているのが見えたのだ。

 今、村の人間達は一人残らずピリついている。そこへ千歳が顔を出せば、きっと神経を逆撫でする。下手をすれば、罵声だけでなく物まで投げ付けられるかも……

 そう考え、千歳はそっと様子を窺う――が、すぐに、平蔵もまた村人達から疎まれているのだと思い出す。もし集まった面々が彼に手を出すようならば、その時は捨て身で飛び出して行こうと覚悟を決める。

 と、そこに居たのは平蔵と、そして神子屋敷に仕えていた侍女達だった。金槌を手にカンカンと壁を補修する平蔵を囲み、侍女達はもどかし気に口を開く。

「平蔵様……そんなにも意地を張る事はないでしょう。平蔵様さえ首を縦に振れば、こんな小屋に居続ける必要はないのですから」

「そうですよ。平蔵様は神子に仕える者として、水守村に必要な人材でございます。拘りは捨て、どうか村にお戻りください」

――え……?

 聞こえてきた言葉に、千歳は思わず目を瞠った。それは、想像とはまるで違う言葉である。だって、疎まれているどころか、望まれている……?

 一体どういう事なのか。もっとよく話を聞こうと、千歳はそろそろと木の影を移動して小屋へと近付く。そうすると、苦笑するような平蔵の顔が見て取れた。

「ああ、勿論わかっている。だがわかった上で、私はどうしても、次代の神子にお仕えする気にはなれないんだ」

「またそんな……お気持ちはわかりますよ? 何せ千歳様は誰が見ても神気に溢れる、神子の中の神子のような御方でしたから。それが空振りに終わったんですもの、次の神子にも素直に期待できないのは我々も同じですが……」

「いやいや、そういうわけじゃない」

 平蔵は金槌を振るう手を止め、侍女達に向き直った。

「私は千歳様を――烏滸がましい事は百も承知で、実の息子のように思っていたんだ。赤子の頃からお仕えして、ただの侍従には留まらない、深い思い入れができてしまった……だと言うのに、次の神子様に同じようにお仕えなんてできようか。それに千歳様も、私が他の神子様にお仕えすれば、心の拠り所を失くしてしまうかもしれないからな」

 そんな平蔵の言葉に、侍女達は呆れたように首を振る。

「だからと言って……このボロ小屋に留まれば間違いなく流されます。こんな川っぺりに居るのですから、誰よりもその脅威が迫っているのを感じ取っておられるでしょうに」

「ああ、それは重々承知……だが大丈夫だ。私はしぶとく生き残る。そうしないと、あのお優しい千歳様が、色々と気に病んでしまわれるだろうからなぁ」

 平蔵はそう言うと、再び壁の補修に取り掛かった。その背中からは何を言われようと曲げられない強い意思が感じられ、侍女達はやがて諦め引き上げていく。その後も一人、小屋を直し続ける平蔵。その姿をじっと見詰め、千歳は言い知れぬ胸の苦しさに襲われていた。

 今の話――つまり平蔵は、村人達から救済措置を与えられていたという事だ。彼は優秀な侍従だった、それはちゃんと認められていたのだ。そして次の神子の侍従役を依頼されていたのである。

 だが、彼はそれを断った。他ならぬ千歳の為に――……いや、なんて馬鹿な。何が心の拠り所だ。平蔵が安寧を手にするのを喜ばないはずがないじゃないか。どう考えても万歳して送り出すに決まっているのに。

 だが、平蔵は千歳の気持ちを慮り、決断した。その結果、村人達の不興を買って、こんな境遇に追いやられた。そして川の水位がじわじわと上がっていくのを目にして尚、千歳の侍従で在り続けようとしてくれているのである。

「――……っ」

 その姿に、千歳の中、強い想いが沸き上がった。

 絶対に、川の氾濫を止めなくては。

 絶対に、平蔵の事を守らなくては。

 ではその為に、どうするか――改めて真剣に考え始める。雨が終わる気配はない。このまま水位が上がっていけば、それ程経たずに川は氾濫するだろう。それまでに新しい神子を見出すのは、やはり現実的ではない。

 ではどうする。どうすれば良い――……浮かぶのは、例の禁じ手一つである。

 だがもう千歳には迷っているだけの余裕がなかった。すぐ様山に向かって走り出す。その道中、強い雨が降り出したが、気に掛けている暇はない。ぬかるんだ土に何度も足を滑らせながら、前へ前へと駆け続ける。そうして麓の住処に着くと、ボロボロの袋を引っ掴んで即座にまた外へ飛び出す。目指すのは、龍神の社へ続く石段だ。

 山の中に暮らしながらも、なんとなく避けていたあの石段。それを今、千歳は勢いよく上り出す。行かねばと、やらねばと、強い使命感に背中を押されて。雨に濡れた衣は重く、肌に纏わり煩わしいが、構うものかとただ上る。走って、走って、滑ってはまた走って……すっかり息の切れたところで、龍神の社へと到着する。

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